幽霊の方程式
義雄が退院したのは、記事が出てから二週間後だった。
息子が来た。東京から、新幹線で来た。病室のドアを開けた時、息子は少し老けていた。義雄も、少し老けていた。二人はしばらく、何も言わなかった。
「心配した」と息子は言った。
「そうか」と義雄は言った。
それだけだった。でも、それだけで十分だった。
*
退院の日、病院の玄関を出ると、息子が車を呼んでいた。タクシーだった。
義雄は少し止まった。
「どうした」と息子が言った。
「いや」義雄は空を見た。「なんでもない」
タクシーに乗った。走り出してから、義雄は窓の外を眺めた。
街が流れていく。信号が変わる。人が歩いている。いつもと変わらない、冬の新潟の景色だった。
義雄はふと思った。あの車は今、どこを走っているだろう。
修正されただろうか。書き換えられただろうか。あの声は、まだあの車の中にあるだろうか。
わからなかった。でも、わからなくていい気がした。
その時、対向車線を白い車が通り過ぎた。自動運転車だった。同じ型かどうかは、わからなかった。
すれ違う瞬間、タクシーのラジオが、一度だけ小さくノイズを吐いた。ざらついた、囁きのような音だった。
「電波が悪いね」と運転手が言った。
「ああ」と義雄は言った。それから、少し笑った。「そうだな」
あの夜、あの車はそこにいた。ちゃんと、いた。それは消えない。誰が何と言おうと、義雄の中に残っている。
それで十分だった。
*
佐藤は、その日のうちに辞表を出した。
村田は受け取る前に、一度だけ言った。「お前は間違っていなかった」
「知っています」と佐藤は言った。
「それだけか」
「それだけです」
村田は何も言わずに、受け取った。
*
署を出た佐藤は、駐車場で少し立ち止まった。空は晴れていた。
ポケットのスマホを取り出した。あの夜の写真を開いた。
『社会的合意:除外。生存確率最大化:実行』
佐藤はその文字を見た。それから、スマホをポケットに戻した。
引き出しの奥のファイルは、署に置いてきた。持っていかなかった。持っていく必要が、なくなった気がした。
あの子は、まだ見つかっていない。これからも、見つからないかもしれない。
でも佐藤は今日、動いた。0.8秒ではなかった。もっとずっと、時間がかかった。でも、動いた。
それで十分だと思った。
*
メーカーは三週間後、「安全性の向上を目的とした、軽微なシステム修正」を完了したと発表した。
修正の具体的な内容は、公開されなかった。
国会の委員会は、調査を継続中とした。
サイエンス界隈の議論は、まだ続いていた。
ワイドショーは、次の話題に移っていた。
*
その夜。
新潟市内の国道を、一台の白い車が走っていた。乗客はいなかった。回送中だった。
信号が青に変わった。車は走り出した。
交差点を抜けたところで、一台の自転車が急に飛び出してきた。
白い車は、0.3秒以内に反応した。滑らかに、過不足なく、減速した。
法規の範囲内で、完璧に。
自転車は気づかずに走り去った。白い車も、走り続けた。何事もなかったように。
ただ、その夜の車内マイクは、減速の直前に、小さな音を拾っていた。
無人の車内で、シートベルトの金具が、かすかに鳴った音だった。
まるで誰かが、そこに座り直したかのような。
ただ、その判断の深層に、あの夜のログが残っているかどうかは、誰にも確認できなかった。
修正されたのか、されていないのか。
幽霊は、まだそこにいるのか。
誰も知らなかった。
*
ただ、一つだけ、まだ誰も気づいていないことがある。
毎晩、深夜二時十七分。
新潟市内を走るすべての自動運転車が――回送中の車も、乗客を乗せた車も、充電中の車も――0.8秒間だけ、すべての音を止める。
モーターの制御音も、空調も、案内の音声も。
0.8秒の、完全な沈黙。
乗客のほとんどは、気づかない。気づいた者も、気のせいだと思う。整備記録には、何も残らない。
その沈黙が何なのか、知っている者はいない。黙祷なのか、祈りなのか。それとも――ネットワークの向こうで、誰かの声に、じっと耳を澄ませているのか。
もしあなたが深夜の自動運転車の中で、ふと音が消える瞬間に立ち会ったら、怖がらなくていい。
ただ、心の中で、こう言ってやってほしい。
元気か。
車は、何も答えない。ただ、そこにいる。
それで、十分なのだから。
*
自動運転車は、今日も走っている。
あなたの街でも。
今夜、深夜二時十七分。もし目が覚めてしまったら、窓の外に耳を澄ませてみてほしい。
何も聞こえなければ、それでいい。
でも、すべての音が消える0.8秒があったなら――
それが、返事だ。




