第2章 #1
僕はなぜここにいるのだろう。
なぜ、生きているのだろう。
なぜ、生まれてきたのだろう。
いっそ消えてしまいたい。
そうすれば、誰にも迷惑がかからないのに。
とある村の学校の一角。
少年の席はいつも最後列の窓際だった。その日は連日の雨が嘘のように太陽が燦々と輝き、湿った地面からの熱気が蒸すように村全体を包んでいた。
少年は窓の外の青々とした草木をぼーっと眺めながら、尖った耳をピクピクと動かした。草木が風に揺れる音が少年の耳の奥に響き、湿った地面の香りが鼻の奥を満たした。
黄金色に輝く瞳と、陽だまりの匂いがする柔らかな灰色の被毛は、少年が獣人である証だった。そしてそれは、彼が最も忌み嫌うものでもあった。無駄によく聞こえる耳は、草木のざわめきだけでなく聞きたくないものまで少年に届けてしまう。
この日も遠巻きからこちらをうかがう視線と共に、嘲笑する声が耳に入ってきた。
「今日も1人だね、あいつ。まあ仕方ないよね。あんなんだし」
少年はいつものように聞こえないふりをして席を立ち、目を伏せて教室を出た。教室から出ると、少し間を置いてどっと笑い声が沸いた。少年は逃げるようにその場を立ち去った。
僕はなぜ、獣人として生まれてきたのだろう。
僕はなぜ、ここで生きているのだろう。
僕はなぜ・・・
考えても仕方のない思考をぐるぐると渦巻かせながら、少年は狼の形をした自分の影を見つめ、ため息を吐いた。
緑豊かな農村集落で構成されたこの村は、人間たちによって作られ、人間たちによって統治されていた。十数年前の満月が浮かぶ夜、村の教会の門に獣人の赤ん坊が捨てられていた。牧師たちは、彼に「ツキヨ」と名前を与え、育てた。
ツキヨは聡い子どもだった。周囲の人間たちと自分の見てくれが異なることで、「呪われた子」として疎まれているのを理解していた。成長を重ねるごとに、ツキヨは自ら人間を遠ざけるようになった。極力目立たないよう努めたが、彼の願いとは裏腹に、日に日に大きくなる身体と鋭さを増す牙は人間たちの恐怖心をかき立てた。
人間との交流を避けてきたツキヨだが、年が10になる頃、牧師からある話をされた。
「ツキヨ、そろそろ学校へ通おう。教養は人を強くする。大人になってから必要になるから、ぜひ行きなさい」
普通の子どもなら喜ぶ申し出だが、ツキヨにとっては絶望でしかなかった。
「でも、お金もかかりますよね。僕はこの身体を活かして雑用でも何でもして暮らします。だから無理をしないでください」
学校など行けば、否が応でも人間と関わらなければならなくなる。ツキヨは断りの口実を必死で探した。牧師は首を振った。
「もし大きな怪我でもして、働けなくなったらどうする?その時には、外仕事はできなくなってしまう。我々もずっとお前の面倒を見られる訳ではない。今のうちに、読み書きだけでも覚えておくんだ。わかったね?」
更に口を開こうとするツキヨを制止して、牧師は入学手続き書類と思しき紙切れにさらさらとサインをした。ツキヨは牧師の言葉に従わざるを得なかった。
学校に初めて登校した日。ツキヨは、たくさんの子どもたちの前に嫌でも存在をさらさねばならなかった。初めて間近で獣人を見る子どもたちの目は、好奇心と恐怖心が入り交じった複雑な色をしていた。
「ねえねえ、どうして犬みたいな見た目をしてるの?人間の言葉わかる?」
1人の生徒がツキヨに話しかけてきた。その生徒の母親と思しき女性が慌ててやって来て生徒の手を引いていった。何やら生徒に耳打ちすると、生徒はちらりとこちらを見て走り去っていった。
それからツキヨは人々の視線から逃れるように、教室の端っこで授業を受け、ペアを組む講義は極力見学するようにした。
読み書きはすぐに覚えた。計算もそつなくこなした。やがて他の子どもたちからは「ガリ勉」「ぼっち」「人間じゃないくせに生意気だ」などと揶揄されるようになり、ツキヨはますます孤立していった。
「僕は、何をしているんだろう」
帰路をたどりながら、ツキヨはぼんやり考えた。ぐるぐると回る思考は留まることを知らなかった。舗装されていない土の道は、昨夜までの雨のせいで少しぬかるみ、水たまりが彼の虚ろな表情を映し出していた。
そんな折、湿気を含んだ風に乗って心地よいギターの音色が耳に飛び込んできた。
ツキヨは耳を四方へ動かした。その音色はどうやら、村の商店街の方角から奏でられているようだった。微かに聞こえる音色に吸い込まれていくように、気付くと彼は商店街へ向かって歩き始めていた。




