第1章 #3
翌日。
ハミルトン家の朝は早い。衛兵を職とするこの家の主人は日の出前に床から出て、朝の訓練をし、日の出と共に水浴びをするのが日課だ。
半年前のあの日―我が子の命と妻の身体の自由が奪われた日からは、妻の身体の清拭と朝食の準備もそれに加わった。妻の痩せ細った身体を薬湯に浸した布で拭きながら、主人は妻に不器用に笑いかけた。
「今朝は庭で採れたバジルをスープに入れてみたんだ。お前の真似して作ってみたんだが、やはりお前のようにはいかないな」
妻は口を一文字に堅く結んだまま何も言わなかった。もう半年、あの日から妻は口をきいてくれない。町医者とのやりとりでは言葉を交わしている様子なので、耳は聞こえているはずだが、主人とは一切の会話をしなくなってしまった。
視線の合わない妻の目を見ながら、主人の胸には重苦しい後悔の念が渦巻いていた。
主人は仕事人間だった。田舎の出で、この町の衛兵になって30年ほどだろうか。衛兵として町を警備し、ひったくりを捕まえた際に妻に出会った。妻はよく笑う女だった。
「衛兵さん、衛兵さん。今日もお仕事がんばっていますね」
主人が巡回をしているのを見つけると、にこにこと笑いながら声をかけてくれるようになった。主人はその笑顔に惹かれ、やがて恋に落ち、結ばれた。
家族になってすぐに子どもにも恵まれた。主人は、妻と子どもたちを守るために仕事にますます打ち込んだ。詰所で仮眠をして仕事に戻る日も増えた。
そうしている内に、いつの間にか家族のために仕事をしているのか、ひいては生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのかわからなくなってしまった。
仕事で昇進すれば仕事仲間で飲みに行き、仕事がうまくいかないことがあれば家族に当たることもあった。それでも妻は、主人を支え、子どもたちを元気に育ててくれていた。
そんな折、町に流行病が蔓延した。町民に被害が拡大し、町医者や薬草師たちを総動員して対処に当たった。毎日毎日、弱った人々の介助をして回った。
その内に、息子がまず倒れた。主人は妻に息子の看護を任せ、町医者を手配した。
次に娘が倒れた。薬は枯渇し、多くの町民に行き渡らない状況だった。
そこまでの状況になると、衛兵としてできることはパニックになる町民をなだめ、町の秩序を守ることが主となった。ある者は怯え、ある者は暴れ、主人は町民たちの対処に追われ、詰所で仮眠してトラブルが起きるとすぐに出て行くということが増えた。
数日そのような生活をして家に戻ると、様子が何やらおかしかった。夕刻というのに明かりが点いていない。嫌な予感がして急いで中に入ると、幼い息子と娘はベッドに横たわり、そのすぐそばで妻が倒れていた。主人はすぐに町医者を呼んだ。子どもたちは既に手遅れだった。妻も高熱に連日うなされ、視力と両下肢の自由を失った。
主人は悔いた。
もっと早く家に戻っていれば。
もっと家庭を優先していれば。
もっと息子たちと遊んでやっていれば。
もっと妻に優しく接していれば。
しかし何もかもが遅かった。意識が戻った後の妻は、数日間泣き続けた。泣いて泣いて、涙が枯れる頃には妻からは全ての感情が失われたように声も表情も消えた。
主人はそれから仕事の暇をもらった。妻に尽くし、妻が好きだった家庭菜園を引き継いだ。妻のようにはうまくできなかったが、ハーブや簡単な薬草程度は育てられるようになった。
来る日も来る日も、妻の介助に当たった。それでも妻が心を開くことは無かった。
「俺のことを恨んでいるか?」
何度もそう聞こうとしてやめた。
「恨んでいるに決まっているでしょう」
その答えを聞くのが怖かった。主人は自分の臆病さを呪った。今できることはただ1つ。罪滅ぼしのための介助だけだった。
介助を続けていれば、いつか妻も心をまた開いてくれるかもしれない。またあの笑顔が見たい。妻の笑顔を思い出す度に、そして痩せ細りやつれた妻の姿を見る度に、胸が締め付けられた。
果たして妻が自分を許す日が来るのだろうか。そんな思いが常に頭にこびりついていた。主人はその思いを払拭するように、毎日毎日手製の薬湯で清拭し、手を付けられることのない食事を運んでいた。
そんな日々に光明が差し込んだ気がしたのが、昨夜の歌い手との出会いだった。
少女の唄は不思議と引き込まれ、塞ぎ込んでいた主人の胸にすっと入り込んできた。主人はまさにそこに海風を感じた。両目から光を失った妻にも、少女なら光を見せられるかもしれない。そう信じさせる力が、少女の唄にはあった。
来るかわからない客人を待つ時間は、とてつもなく長く感じられた。




