第4章 第95話 捨てるものあれば拾うものあり
藤堂が、ようやく一人になれたのは昼を少し過ぎた頃だった。
朝から自宅周辺には報道陣が集まり、外へ出れば記者に囲まれた。どうにかそれを振り切り、気がつけば足は都内の公園へ向かっていた。
平日の昼間ということもあり、人影はそれほど多くない。藤堂は空いていたベンチに腰を下ろし、自動販売機で買った缶コーヒーを開けた。
昨日までなら、こんな時間に公園のベンチへ座っていることなど考えられなかった。
会議、報告、承認。現場から上がってくる案件に、本部との調整。大阪支部長という肩書きには、それ相応の仕事がついて回った。
それが今は、何もない。
「……暇ですな」
口に出してみると、思った以上に実感があった。
これからどうするか。
幸い、すぐに生活に困るわけではない。しばらく休んでから考えてもいい。長く働いてきたのだから、それくらいは許されるだろう。
そう思って、缶コーヒーを口へ運んだ時だった。
「――お隣、よろしいですか?」
鈴を転がしたような澄んだ声に、藤堂は顔を上げた。
銀色の髪に、赤い瞳。
直接言葉を交わしたことはない。だが、その姿を知らないはずがなかった。
「……セルマ・リンドベルグさん、でしたかな」
「はい」
「直接お会いするのは、初めてですね」
「そうですね。藤堂さんのお顔は、以前から存じていましたが」
「私もです」
藤堂が少し横へ詰めると、セルマは小さく会釈して隣へ腰を下ろした。
しばらく、どちらも話さなかった。
藤堂は手の中の缶コーヒーへ視線を落とす。何の用件で来たのか、おおよその想像はできる。だが、わざわざ日本まで彼女自身が来た理由までは分からない。
「真神君に何か?」
「いいえ」
「では、アシュフォード会長から?」
「いいえ」
藤堂が横を見る。
「今日は、私が来ました」
「……そうですか」
それ以上、セルマは説明しなかった。
「退職されたと伺いました」
「ええ。昨日までは大阪支部長でしたが、今日からはただの藤堂です」
「そうですか」
「随分とあっさりしていますな」
セルマは少しだけ首を傾けた。
「肩書きがなくなっても、藤堂さんが藤堂さんであることは変わりませんので」
「…………」
藤堂は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「真神君が、あなたをそばに置いている理由が少し分かった気がします」
「そうでしょうか」
「ええ」
再び静かな時間が流れた。
風に揺れる木々を眺めながら、藤堂は残っていたコーヒーを飲む。やがてセルマが静かに尋ねた。
「これから、どうされるおつもりですか?」
「さて。それを考えていたところです」
「もう、ハンターに関わるお仕事はされませんか?」
藤堂はすぐには答えなかった。
長く、この世界に関わってきた。危険な場所へ向かうハンターたちを見てきた。帰ってきた者もいれば、帰ってこなかった者もいる。
そして最後に深く関わった一人は、世界の誰よりも遠くまで歩いていた。
その男が今、自分だけが歩いた道を、後から来る者も歩ける道へ変えようとしている。
魔鉄。ミスリル。そして、その先にある異鉱物。
それらを手にした今のハンターたちは、どこまで行けるようになるのか。その次の世代は、さらにどこまで進むのか。
「……気にはなりますな」
「何がでしょう?」
「この先ですよ」
藤堂は遠くへ視線を向けた。
「真神君が持ち帰ったものを使って、今のハンターたちがどこまで行けるようになるのか。その人たちが持ち帰ったものを使って、次の世代がどこまで行くのか」
自嘲するように笑う。
「こんな仕事を長くやっていましたからな。組織を辞めたからといって、興味までなくなるものでもないらしい」
「そうですか」
セルマはそれだけ答えると、すっと立ち上がった。
藤堂が彼女を見上げる。
数歩進んだセルマが振り返った。銀色の髪が風に揺れる。
「では――」
赤い瞳が、まっすぐ藤堂を見る。
「もし、まだ未来を渇望されていらっしゃるのなら……私についてきてください」
「…………」
藤堂はしばらくセルマを見つめていた。
WHAへ来てほしいとは言わない。
仕事の話も、待遇の話もしない。
真神幸一郎が待っているとも言わない。
ただ、未来を見たいのならついてこい。
随分と変わった誘い方だった。
「……それは、断りにくい誘い方ですな」
「断られますか?」
「まさか」
藤堂は残っていたコーヒーを飲み干し、立ち上がった。近くのごみ箱へ空き缶を捨て、セルマの隣へ並ぶ。
「行きましょう」
「はい」
「それで、どちらへ?」
「新宿です」
「……新宿?」
「はい」
あまりに近い答えに、藤堂は一瞬だけ拍子抜けした。
◇ ◇ ◇
新宿。
人の流れが絶えることのない大通りから少し外れた場所で、セルマは足を止めた。
藤堂も立ち止まり、目の前の建物を見上げる。
特別目立つものではない。都心ならどこにでもありそうな、ごく普通のオフィスビルだった。少なくとも外から見る限り、その建物が世界的なハンター組織と関係していることを示すものは何一つない。
「……ここですかな?」
「はい」
藤堂は入口周辺を見回した。
「看板がありませんが」
「出しておりませんので」
「何の建物なんです?」
「WHA東アジア統合支部です」
「…………」
藤堂は、もう一度ビルを見上げた。
「ここが?」
「はい」
「随分と慎ましいですな」
「目立つ必要がありませんので」
「なるほど」
セルマに続いて中へ入る。
外観こそ何の変哲もなかったが、中へ入れば印象は変わった。目立たないだけで、警備は明らかに厳重だった。受付ではセルマの姿を確認した職員がすぐに対応し、藤堂についても簡単な確認を済ませると、そのまま二人を奥へ通した。
歩きながら周囲へ目を向ける。
日本人だけではない。行き交う職員の国籍も様々で、聞こえてくる言葉も一つではなかった。壁面のモニターには、東アジア各地のダンジョンに関する情報が並んでいる。
名前だけの統合支部ではないらしい。
「それで、リンドベルグさん」
「はい」
「そろそろ、私がここへ連れてこられた理由を聞いても?」
「もう少しだけ、お付き合いください」
「まだ秘密ですか」
「はい」
藤堂は苦笑したが、それ以上は聞かなかった。
セルマは支部のさらに奥へ進んでいく。
いくつかの区画を抜け、やがて一つの扉の前で足を止めた。
「どうぞ」
セルマが扉を開く。
促されるまま中へ入った藤堂は、そこで足を止めた。
それなりの広さを持つ執務室だった。大きな窓に、応接用のソファ。壁際には書棚が並び、その奥には一つの大きな執務机が置かれている。
だが、誰もいない。
机は綺麗に整えられているものの、そこに座る人間はいなかった。扉にも、机の上にも、主の名前を示すものはない。
「……ここは?」
セルマは答えなかった。
藤堂の横を通り過ぎ、誰も座っていない執務机の前まで歩いていく。
そして、空席の横で足を止めた。
「リンドベルグさん?」
呼ばれて、セルマが振り返る。
赤い瞳が藤堂を捉えた。
その口元に――普段の彼女からは少し珍しい、柔らかな笑みが浮かぶ。
「興味ありません?」
セルマは、誰の名札も置かれていない席へ視線を向けた。
「この席に」
「…………」
藤堂は椅子を見る。
次にセルマを見る。
そしてもう一度、空席へ視線を戻した。
「……まさか」
セルマは答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ笑みを深くした。
それだけで十分だった。
昨日まで、藤堂にはJHA大阪支部長という肩書きがあった。
今日、それを失った。
そして今。
WHA東アジア統合支部の最奥には――まだ誰の名前も刻まれていない席が、一つだけ空いていた。




