第4章 第93話 未来への渇望
実証攻略部隊が帰還した。
到達階層――110F。
これまで世界トップクラスの攻略隊でさえ100F前後を一つの目安として撤退していた中、約10階層。数字だけなら小さく見える更新だった。
だが、条件が違う。
攻略隊の構成は従来とほぼ同じ。安全基準も変更されていない。危険を承知で無理に進ませたわけでもなかった。
変わったのは、装備だった。
前衛が魔鉄製の防具を使用し、前衛、後衛を問わず、各自の武器がミスリル製へ置き換えられていた。
その結果、110Fへ到達し、全員が無事に帰還した。
当然、そのニュースは世界を駆け巡った。
『異鉱物装備実証部隊、110F到達』
『世界最深到達記録を更新』
『真神幸一郎氏提供の魔鉄・ミスリルを使用』
異鉱物研究の発表からそれほど時間が経っていない。それにもかかわらず、早くも目に見える成果が出た。
だが、記者会見に現れた研究責任者は、浮かれる報道陣へ最初に釘を刺した。
「今回の結果について、一つ訂正しておかなければならない認識があります。今回使用された装備は、完成した異鉱物装備ではありません」
「試作品ということでしょうか?」
「それ以前、と考えていただいた方が正確です」
会場がざわめいた。
「魔鉄を防具の形に加工した。ミスリルを、それぞれのハンターが使用できる武器の形に加工した。現時点では、それに近いものです」
「ですが、それで世界最深記録を?」
「はい」
「異鉱物に合わせた設計は?」
「できていません」
「加工方法の最適化は?」
「まだです」
さらに研究責任者は、現在の研究が素材そのものの性質を調べている段階にすぎないことを説明した。
純粋な魔鉄をそのまま防具へ使うことが正しいのか。
純粋なミスリルだけで武器を作ることが最適なのか。
それすら分かっていない。
「既存金属との合金化についても、これからです。鉄鋼材料へ魔鉄やミスリルを添加した場合に何が起きるのか。異鉱物同士を混ぜることができるのか。芯材、被覆材、積層材として利用した場合はどうなるのか。そのすべてが研究対象です」
「では、さらに性能を向上させられる可能性がある?」
「可能性はあります。ただし、逆もあります」
研究責任者は即答した。
「混ぜることで異鉱物固有の性質が失われる可能性もあります。純度によって性能が変化する可能性もある。現段階では、何も断言できません」
だからこそ研究する。
今回の110F到達は、異鉱物装備が完成したことを意味するものではない。
「我々が確認できたのは、異鉱物を装備へ利用する研究には十分な価値があるということです」
「その研究の初期段階で、110Fまで到達した?」
「はい」
短い返答の後、研究責任者は少しだけ間を置いた。
「我々自身、その事実を重く受け止めています」
この発言が報じられると、110Fという記録の意味はむしろ大きくなった。
完成した新装備で10階層伸びたのではない。
素材の性質すら完全には把握できていない。
加工法も最適化されていない。
合金も、複合材も、魔力を効率よく扱うための専用構造も、これからだった。
それでも、人類の最深到達地点は動いた。
100F前後から、110Fへ。
そして世界中の研究機関では、帰還した実証部隊の装備が再び分解されていた。
どこが摩耗したのか。
どこへ魔力負荷が集中したのか。
どの形状が適していたのか。
既存金属と組み合わせればどうなるのか。
ミスリルは、本当に武器全体をミスリルで作る必要があるのか。
魔鉄製防具は、すべてを魔鉄で作る必要があるのか。
110Fという結果は、研究の答えではなかった。
新しい研究課題を大量に持ち帰っただけだった。
だが、それでよかった。
世界最深到達記録を更新した装備でさえ、まだ異鉱物を武器と防具の形にしただけなのだから。
人類はまだ、異鉱物の使い方を知らない。
それでも――110Fには届いた。
ならば、使い方を知った時、どこまで行けるのか。
実証攻略部隊が110Fへ到達したという知らせは、世界各地のハンターたちにも即座に伝わった。
その中でも、もっとも強く反応したのは、実証試験への参加を希望しながら選考から漏れた攻略チームだった。
彼らもまた、100F前後まで到達した経験を持つ。
だからこそ、110という数字が持つ意味を誰よりも理解していた。
「……110F」
共有スペースの大型モニターに表示された数字を、一人の男が睨むように見つめていた。
「行ったな」
「ああ」
「全員帰還?」
「重傷者もなし。予定通り撤退したらしい」
「……そうか」
短い返事のあと、誰も喋らなくなった。
10階。
数字だけを見れば、それだけだった。
だが、その10階を彼らは越えられなかった。
行こうと思えば行けた。
101Fへ足を踏み入れることだけなら、おそらくできた。
102Fも、103Fも進めたかもしれない。
だが、その先で何が起きるか分からない。負傷者が出た時に連れて帰れるのか。後衛の魔力は足りるのか。前衛の装備は保つのか。帰還するための余力を残せるのか。
それらを計算した結果、彼らは戻った。
そして、その判断が間違っていたとは今でも思っていない。
「安全基準、変えてないんだよな?」
「変えてない」
「メンバーも?」
「いつもの連中だ。今回のために強い奴を集めたわけでもない」
「じゃあ、本当に装備だけか」
「……そういうことになる」
男が椅子の背にもたれた。
「くそ」
その声に、隣にいた仲間が笑った。
「悔しいか?」
「当たり前だろ」
「俺もだ」
実験部隊に選ばれたかった。
自分たちが最初に、その壁を越えたかった。
トップにいる者なら、それくらいの感情は持っている。
だが、モニターに映っている帰還した攻略隊の姿を見ているうちに、別の感情が混じり始めた。
「……でもさ」
「ん?」
「これ、俺たちも行けるってことだよな」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、後衛の一人が頷いた。
「たぶんな」
「能力が足りなかったわけじゃなかった?」
「そこまでは言えない。でも少なくとも、装備を変えれば安全圏が動くことは証明された」
別の男が、自分の剣へ視線を落とした。
何年も使ってきた武器だった。
何度も命を預けてきた。
性能に不満があったわけではない。
それでも今は、その剣が初めて違って見えた。
「……俺たち、こいつらで100Fまで行ったんだよな」
「ああ」
「じゃあ、ミスリル持ったらどこまで行ける?」
「知らん」
「110?」
「同じとは限らないだろ」
「115かもしれない」
「調子に乗るな」
笑いが起きた。
だが、誰も否定しなかった。
それまで100Fの向こう側は、危険を承知で踏み込む場所だった。
今は少し違う。
装備を整えれば、安全を捨てずに進める可能性がある場所へ変わり始めていた。
「次の実証試験、いつだ?」
「まだ発表されてない」
「応募は?」
「それもまだ」
「決まったらすぐ出せ」
「もう準備してる」
「早えよ」
「当たり前だろ。今度は乗るぞ」
それは、このチームだけではなかった。
実証試験への参加を希望しながら選ばれなかった攻略チームから、WHAへ問い合わせが相次いでいた。
次の試験はいつ行われるのか。
参加条件は何か。
自分たちの装備形式でも試作品を製作できるのか。
魔鉄製防具とミスリル製武器の提供を受けられるのか。
そして、その中には一つの共通した言葉があった。
――自分たちも試したい。
100Fという壁を前にして、それまで世界のトップハンターたちは正しく撤退してきた。
その判断は、何も変わっていない。
変わったのは、その先を見る目だった。
危険だから行けない場所から。
装備が整えば、自分たちにも行けるかもしれない場所へ。
110Fという数字は世界記録だった。
だが彼らにとって、それ以上に重要だったのは――。
「次は俺たちだ」
その言葉を、口にできるようになったことだった。




