第4章 第89話 金融と企業
異鉱物の研究試料が世界各地へ届き始めると、動いたのは研究者だけではなかった。
銀行が動いた。
投資会社が動いた。
素材メーカーが動き、ハンター装備を製造する企業が動いた。
そして、その動きは各国政府が想定していたよりも速かった。
WHAには、ハワイダンジョンの《資源庫》から産出される石油について、29%の経済的権利がある。
年間予定産出量600万バレル。
最低稼働保証期間30年。
それだけでも、WHAの財務基盤に対する評価は以前とは大きく変わっていた。
これまでのWHAは、世界規模で活動する組織でありながら、その収入の多くを加盟組織からの拠出や各種事業収入に頼っていた。活動を拡大しようとすれば、それだけ資金も必要になる。
だが、ハワイダンジョンの《資源庫》は違った。
長期間にわたって継続する収入が見込める。
銀行にとって、それは極めて分かりやすい信用だった。
「追加融資の申し出ですか?」
「はい」
WHA本部の財務担当者は、机の上に並べられた資料を見ながら答えた。
「正確には、新規を含めて複数の金融機関から融資枠拡大の提案が来ています」
「条件は?」
「以前より良好です」
「……随分と分かりやすいですね」
「金融機関ですので」
ハワイダンジョンの一件だけなら、それでも単なる財務基盤の改善だった。
だが、異鉱物の国際共同研究計画が発表されたことで、状況はさらに変わった。
魔鉄。
ミスリル。
アダマンタイト。
オリハルコン。
ヒヒイロカネ。
これまで極めて限られた量しか地上へ持ち帰られていなかった素材を、WHAが研究資源として世界へ提供し始めた。
それが将来、どのような技術へ繋がるのか。
まだ誰にも分からない。
分からないからこそ、企業は動いた。
素材メーカーは研究部門を増強した。
ハンター装備メーカーは共同研究への参加を申請した。
採択された大学や研究機関には、企業から共同研究の打診が相次いだ。
さらに物流、加工、分析機器といった直接ハンター装備を製造していない企業まで、新たな需要が生まれる可能性を探り始めていた。
異鉱物そのものを手に入れられなくてもいい。
研究に必要な装置を作れるかもしれない。
加工技術を開発できるかもしれない。
将来、その素材を使った装備の一部を製造できるかもしれない。
誰も、まだ答えを知らない。
だからこそ、答えが出てから動くのでは遅い。
それが企業の判断だった。
日本も例外ではなかった。
「研究開発費の増額?」
「はい。異鉱物関連です」
政府の経済部門へ上がってきた報告には、国内企業の動向がまとめられていた。
素材メーカー。
特殊鋼メーカー。
精密機器メーカー。
ハンター装備メーカー。
それまでダンジョン産素材とほとんど関係のなかった企業までが、研究への参入可能性を調査し始めている。
「ずいぶん早いな」
「企業からすれば、待つ理由がありません」
「まだ何に使えるのかすら分かっていないんだぞ?」
「ですから、今から研究するのでしょう」
官僚は淡々と答えた。
「使い道が分かってから参加しようとしても、その頃には研究を続けてきた企業との差が生まれています」
「……なるほどな」
さらに資料が一枚めくられた。
「一部企業では、既存の予算配分を見直し、異鉱物関連の研究費へ振り替える動きも出ています」
「どこから持ってくる?」
「広告宣伝費、既存研究費、海外事業費など様々です。中には政治関連支出を縮小する企業もあります」
「政治関連?」
「業界団体への支出や政策活動に使っていた予算の一部を、研究開発へ回す方針を検討しているようです」
政治家の眉がわずかに動いた。
「……そこまで削るのか」
「企業からすれば、将来への投資先を変更しただけかと」
悪意のない答えだった。
だからこそ、返す言葉がなかった。
これまで企業は、政府の政策を見ていた。
どの分野へ補助金が出るのか。
どの産業を国が育成するのか。
どこへ規制が入り、どこが緩和されるのか。
だが今回は違った。
政府が方向を示すより先に、企業が動いていた。
なぜなら、異鉱物はすでにそこにある。
研究試料は世界へ発送され、実際に研究室へ届いている。
その中心にいるのは日本政府ではない。
WHAだった。
「WHAへの融資も増えているそうだな」
「はい。複数の国際金融機関や民間銀行が、融資枠の拡大を提案しています」
「異鉱物が担保になるのか?」
「いいえ」
官僚は首を振った。
「少なくとも、現時点でそのような単純な話ではありません。ハワイの石油収益によってWHAの信用力が上がったところへ、今回の研究計画が加わった。それだけです」
「研究そのものが利益を生んでいるわけではないだろう?」
「今は、まだ」
その言葉に、政治家が顔を上げた。
「金融機関が見ているのは、現在の利益だけではありません」
安定した収入がある。
世界各地でダンジョンを調査している。
複数の国家と交渉できる。
そして今、世界でもほとんど研究されていない異鉱物について、国際共同研究の中心に立った。
そこへ資金を提供したいと考える金融機関が増えるのは、不思議なことではなかった。
「……金が集まるのか」
「正確には、WHAが必要な時に資金を調達しやすくなっています」
「その金で?」
「ダンジョン調査。輸送手段の確保。現地拠点の整備。研究支援。ハンターの装備開発――用途はいくらでもあるでしょう」
政治家は黙った。
その一つ一つが、次のダンジョン攻略へ繋がっている。
そして、ようやく気づく。
「……真神氏が以前、自分の取り分を減らしてWHAへ回した9%」
「はい」
「あれも、ここへ繋がっているのか?」
「本人がここまで想定していたかは分かりません」
官僚は答えた。
「ただ、結果としては」
WHAへ金が集まる。
その金で研究が進む。
攻略準備が進む。
より多くのダンジョンを調査できる。
そして、その先には新たな資源と、新たな異鉱物があるかもしれない。
一つの流れが、少しずつ形になり始めていた。
「我々は、真神氏を日本へ戻せるかどうか議論していた」
「はい」
「その間に、企業はWHAへ向かって走り始めたわけか」
「企業は、真神氏がどこの国に住むかには、それほど興味がありません」
「……そうだろうな」
「彼の行動によって、どこに新しい市場が生まれるのか。それを見ています」
政治家は椅子へ深く座り直した。
政治はようやく、真神幸一郎を日本へ戻すのではなく、彼が作ろうとしている流れへ参加すべきなのだと理解し始めた。
だが。
金は、それより先に動いていた。
その頃。
世界の金融機関や企業が、自分の行動によって大きく動き始めていることなど気にする様子もなく、幸一郎はWHAの拠点でセルマと夕食について話していた。
「セルマ」
「はい」
「今日、何食べる?」
「その前に、一件ご報告があります」
「ん?」
「WHAへの融資の申し出が、さらに増えたそうです」
「へえ」
「異鉱物研究への参加を希望する企業も増えています」
「そっか」
「研究予算を大幅に増額する企業も出ているとのことです」
「うん」
幸一郎は少し考えた。
「それって、いいこと?」
「少なくとも、研究と攻略準備に使える資金は増えると思います」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「はい」
「で」
幸一郎は改めて尋ねた。
「今日の晩飯、何?」
セルマは一瞬だけ黙った。
「……そちらの方が重要ですか?」
「今の俺には」
「そうですか」
「腹減ったし」
世界では、新しい資源を巡って金が動き始めていた。
企業は未来へ投資し、銀行はWHAへ資金を差し出し、各国政府はその流れを追いかけ始めている。
その中心にいる男は、今日の夕食を気にしていた。
もっとも――。
彼にとっては、それでよかった。
世界を動かすために、異鉱物を持ち帰ったわけではない。
ただ、自分以外の誰かが、今より少し安全に深い場所へ進めればいい。
そのために必要なものを、持っていたから出した。
後は、それを使える者たちが使えばいい。
そうして世界は、幸一郎が何かを命じるまでもなく、勝手にその先へ動き始めていた。




