第4章 第86話 見誤った先
WHAの記者会見が終わったあとも、官邸の会議室では誰もすぐには口を開かなかった。
壁面の大型モニターには、会見終了後もWHAが公開したプレスリリースが表示されている。《異鉱物を用いた次世代ハンター装備・国際共同研究計画》。研究対象として並ぶ名前は、魔鉄、ミスリル、アダマンタイト、オリハルコン、ヒヒイロカネ。その下には世界各国の大学、研究機関、素材関連企業、ハンター装備関連企業から広く参加を募ること、WHAによる選抜を行うこと、そして国家間紛争や対人戦闘を目的とした軍事転用を認めないことまで明記されていた。
だが、室内にいる政治家や官僚たちが見ていたのは、そこではなかった。
『真神氏はそれを理解した上で、次の世代のための礎に――そして、後に続く者たちの道標になってくれると言ってくれました』
会見でレイチェル・アシュフォードが語った言葉。
それが、重く残っていた。
「……我々は」
一人の官僚が、沈黙を破った。
「何を見ていたんでしょうね」
答える者はいなかった。
日本政府は、真神幸一郎について何度も議論してきた。帰還直後から、その能力がどこまで及ぶのか。社会へどれほどの影響を与えるのか。国家の管理を離れた場合、何が起こるのか。既存の法律で対応できるのか。新たな制度が必要なのか。
危険性を評価した。
影響力を評価した。
管理方法を検討した。
社会的責任について議論した。
だが――。
「本人は、そんなことを言われる前から考えていたじゃないか」
政治家の一人が呟いた。
誰も否定できなかった。
世界の上位攻略者たちが、なぜ100階前後で撤退するのかを調べさせた。安全を優先して撤退する彼らを否定するどころか、その判断を正しいものとして受け入れた。その上で、危険を冒させるのではなく、安全に帰還できる地点そのものを先へ移そうとした。
そのために、自分が8年間で手に入れた異鉱物を差し出した。
自分だけが強くなるためではない。
自分だけが攻略を続けるためでもない。
自分の後を歩く者たちのために。
「……25歳だぞ」
誰かが言った。
「まだ25歳で、自分がいなくなった後のことを考えているのか」
「正確には、自分だけに依存し続ける状況を終わらせようとしているのでしょう」
官僚の一人が答えた。
「同じことだろう」
「いいえ。少し違います」
視線が集まった。
「彼は、自分がいなくなることを前提にしているのではありません。自分がいなくても困らないようにしようとしている」
再び沈黙が落ちた。
その違いは、小さいようで大きかった。
「我々は……彼を危険視していた」
「それ自体が間違いだったとは思いません」
別の官僚が静かに答えた。
「六甲山500階層を単独で踏破できる能力を持つ人物です。国家として、その影響を検討する必要はありました」
「だったら、何を間違えた?」
しばらく答えは返らなかった。
やがて、一人が口を開いた。
「分からなかったことではないでしょうか」
「どういう意味だ」
「真神氏がどういう人物なのか、我々には分からなかった。それは仕方ありません。8年間も消息不明だった人間です」
そこで言葉を切る。
「問題は、分からないまま決めようとしたことです」
誰も動かなかった。
「真神氏が何を望んでいるのか。何を嫌がるのか。何なら協力してくれるのか。それを知るより先に、我々は彼に何をさせるべきなのかを議論していた」
「……」
「能力を持つ以上、社会的責任を負うべきだ。一定の管理が必要だ。活動には条件が必要だ。我々はずっと、そういう話をしていた」
官僚はモニターを見る。
そこには、世界中の研究機関へ参加を呼びかけるWHAのプレスリリースが映っていた。
「本人は、何も要求されなくても、自分から次の世代のことを考えていた」
「……皮肉な話だな」
「はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
日本が彼に社会的責任を負わせる方法を考えていた頃、当の本人は社会から逃げようとしていたわけではない。
ただ、自分の人生を自分で決めようとしていただけだった。
そして、その選択を認めた場所で、彼は自分から世界へ手を伸ばし始めた。
「だが、あの時点で分かるはずがなかった」
政治家の一人が反論した。
「帰還したばかりだ。何を考えているかも、何をするかも分からない。ハワイの《資源庫》すら、あの頃は知らなかった。結果を見てから、判断が間違っていたと言うのは簡単だ」
「その通りです」
意外にも、官僚はあっさり同意した。
「ですから、分からなかったことを問題にしているのではありません」
「なら何だ」
「分からない相手の話を聞くより先に、扱い方を決めようとしたことです」
政治家の口が閉じた。
8年前。
17歳の少年が何を言っているのかを聞くより先に、周囲は彼が何をした人間なのかを決めた。
そして8年後。
帰ってきた25歳の男が何を望んでいるのかを知るより先に、社会は再び、彼がどうあるべきかを決めようとした。
同じだと言い切れるものではない。
だが、そこに似た構図があることを、この部屋にいる誰も完全には否定できなかった。
「……もし」
長い沈黙のあと、別の官僚が口を開いた。
「もし、真神氏が日本に残っていたら」
「何だ?」
「今日、あの席に座っていたのは、誰だったんでしょうね」
誰も答えなかった。
レイチェル・アシュフォードが世界へ向けて発表した国際共同研究計画。
WHAが研究機関を募集し、企業を集め、異鉱物研究の中心になろうとしている。
その始まりにあるものは、日本人である真神幸一郎が8年間かけて得た経験と、彼が持ち帰った素材だった。
もし違う関係を築けていたなら。
もし彼が、自分の経験や素材を預けてもいいと思える場所が日本にあったなら。
今日、世界中の研究機関や企業が見ていた先に、JHAや日本の研究機関がいた可能性もあった。
だが、それはもう仮定でしかない。
「……取り戻せないのか」
一人の政治家が呟いた。
「何をでしょうか」
「真神氏をだ」
今度は、官僚の返答まで少し時間があった。
「その考え方を、まず捨てるべきではありませんか」
「……何?」
「真神氏は、日本政府の所有物ではありません」
「そんな意味で言ったんじゃない」
「分かっています。ですが――」
官僚は言葉を選んだ。
「我々はまだ、真神氏を日本へ戻すことを考えている。彼がどこで暮らし、どの組織と仕事をするのかは、本人が決めることではないでしょうか」
反論はなかった。
「では、日本は何もしないのか」
「いいえ」
官僚はモニターに表示されたプレスリリースを操作した。
画面が募集要項へ切り替わる。
「応募できます」
「……応募?」
「日本の大学も、研究機関も、企業もです。WHAは参加国を限定していません。条件を満たし、審査を通れば共同研究へ参加できます」
「日本政府に優先枠は?」
「ありません」
「……日本人が提供した素材だぞ」
「だから何でしょうか」
静かな言葉だった。
だが、その場にいた誰も、続きを言えなかった。
日本は排除されていない。
制裁もされていない。
異鉱物を使わせないと言われたわけでもない。
日本だから不利に扱うとも書かれていない。
ただ、特別扱いされていないだけだった。
アメリカも、欧州も、日本も、それ以外の国も。
同じ条件で応募し、同じように審査される。
「……そういうことか」
政治家の一人が椅子へ深く座り直した。
「彼は、日本を切り捨てたわけじゃない」
「少なくとも、今回の計画を見る限りは」
「ただ――日本を特別扱いする理由もない」
「はい」
それが、何より重かった。
真神幸一郎をどう扱うのか。
真神幸一郎をどう管理するのか。
真神幸一郎に何をさせるのか。
長い間、日本側の議論はそこから抜け出せずにいた。
だが、もう問いそのものを変えなければならない。
「……各省庁に連絡を」
それまで黙っていた会議の責任者が口を開いた。
「素材、製造、研究、大学関係。今回の公募に関係しそうなところを洗い出せ。民間にも情報を回せ」
「よろしいのですか?」
「何がだ」
「政府主導ではありません。WHAの計画です」
「だからどうした」
男はモニターに映る5本のインゴットを見た。
「いつまで真神氏をこちらへ戻す方法を考えているつもりだ」
誰も答えない。
「彼が作ろうとしているものに、日本が参加したいのなら――」
一度、言葉を切った。
「今度はこちらが、同じ列に並べばいい」
それは、あまりにも当たり前の結論だった。
だが日本がそこへたどり着くまでに、ずいぶん長い時間がかかっていた。




