第4章 第81話 動けない揺り籠
官邸の会議室には、重い空気が漂っていた。
「……で、真神氏からは?」
「ありません」
「WHAからは?」
「ありません」
「警察庁に対しても?」
「現時点で、真神幸一郎氏本人からの接触は一切ありません」
報告を受けた閣僚の一人が、露骨に眉をひそめた。ハワイダンジョンの《資源庫》稼働から、国内では真神幸一郎を巡る報道が続いている。《静かな復讐》などという言葉まで飛び出し、8年前の冤罪事件は改めて掘り起こされた。警察の対応、学校の対応、当時の周囲の人間たち。そして、17歳だった少年がなぜダンジョンへ消えたのか。連日のように議論されている。
それなのに、当の本人からは何の反応もなかった。
「これだけの騒ぎになっているんだぞ。何か言うことくらいあるだろう」
「何についてでしょうか」
「何についてって……」
官僚の問いに、閣僚の言葉が止まった。
「真神氏から、日本政府に対する要求は現在一件もありません。抗議もありません。謝罪要求も、補償要求もありません。会談の申し入れもありません」
「だから困っているんだろう」
「……要求がないことに、ですか?」
再び会議室が静かになった。
怒っているのなら、まだ対応のしようがある。謝罪を求めているなら、その方法を検討できる。補償を求めているなら制度の問題になる。JHAとの関係修復を望んでいるのであれば、窓口を設けることもできる。
だが、何も求めていない人間を相手に、行政が用意できる回答など存在しなかった。
「本人は現在、どこにいる?」
「WHAは公表していません」
「取材は?」
「WHA側が申し入れそのものを拒否しているわけではありません。ただし、本人へ取り次ぐかどうかも含め、個別に判断しているようです。少なくとも、現在まで真神氏本人が取材に応じたという情報はありません」
「次の攻略予定は」
「不明です」
「……何も分からんな」
苛立ちの混じった声だった。
しかし、それに同調する者ばかりではなかった。
「正確には、分からないのではありません」
別の官僚が資料を閉じた。
「我々に知らせる理由が、真神氏側にないのだと思われます」
その言葉には誰もすぐには反論しなかった。
ハワイでの様子を見る限り、真神幸一郎は社会そのものを拒絶しているわけではない。アメリカ政府とはWHAを介して協力し、《資源庫》を稼働させた。現地関係者から向けられた拍手にも応えている。WHAとの関係も良好と見ていいだろう。
人間不信でもなければ、社会との断絶を望んでいるわけでもない。
日本政府との間に、現在話すべきことがないだけだった。
「……このまま放置するわけにもいかんだろう」
「何を、でしょうか」
「真神氏との関係だ」
「現在、日本政府と真神氏との間に、政府間交渉に相当する案件は存在していません」
「それは分かっている」
「でしたら、こちらから何らかの用件を作らなければ接触する理由そのものがありません」
「その用件を考えるために集まっているんだろう」
声が少し荒くなる。官僚はそれ以上言い返さなかった。
だが、問題はそこにあった。
堺東ダンジョンについて話したい。日本側の都合である。《資源庫》について情報提供を求めたい。それも日本側の都合だった。今後、日本国内のダンジョン攻略へ協力してほしい。当然ながら、それも日本側の都合である。
8年前の冤罪について話し合いたいと言ったところで、それを今になって望んでいるのが誰なのかという問題が残る。
「……我々は、何を待っているんでしょうね」
ぽつりと、一人が言った。
誰も答えなかった。
真神幸一郎が怒りを表明することか。
何かを要求することか。
日本を許さないと言うことか。
あるいは逆に、もう気にしていないとでも言ってくれることなのか。
どれか一つでも言葉にしてくれれば、日本側はそれに対して動ける。
だが、幸一郎は何も言わない。
「少なくとも一度、意思を確認する必要はある」
ようやく閣僚の一人が口を開いた。
「本人にですか?」
「……直接連絡できるのか?」
「現在、政府が把握している連絡先はありません。JHAが以前使用していた連絡経路についても、現在の活動窓口として使用することは適切ではないでしょう」
「なら、WHAだ」
そこで初めて、会議の方向が定まった。
「レイチェル・アシュフォード会長との会談を設定できないか」
「議題は?」
「真神氏との今後の関係についてだ」
「それだけでは、先方も困るかと」
「……では、どうすればいい」
「少なくとも、日本政府として真神氏との対話を希望している。その意思をWHAへ正式に伝える。その上で、本人への伝達が可能か確認する。そこまででしょう」
幸一郎との交渉ではない。交渉以前の話だった。
まず、日本政府が話したいと思っていることを、本人へ伝えてもらえるかどうか。
そのために、国家に属さない一国際組織の会長へ連絡を取る。
かつてなら考えられなかった手順だった。
◇
数日後、電話会談は設定された。
『お待たせいたしました』
通信の向こうから、レイチェル・アシュフォードの落ち着いた声が届いた。
「こちらこそ、お時間をいただき感謝します」
いくつかの形式的な挨拶が交わされた後、本題へ入った。
「今回お時間をいただいたのは、真神幸一郎氏についてです」
『はい』
「現在、日本国内では真神氏を巡って様々な議論が起きています。そのことはご存じでしょうか」
『承知しております』
「その上でお伺いしたい。真神氏は、日本政府との対話について、現在どのようにお考えでしょうか」
『存じません』
一瞬、室内の空気が止まった。
「……存じない?」
『はい。その件について、真神さんと話したことがありませんので』
「WHAとして、日本政府との接触について何らかの方針を設けているわけではない、と?」
『もちろんです。真神さんが誰と会い、誰と話すかをWHAが制限することはありません』
「では、日本政府から面会を申し入れることは可能でしょうか」
『申し入れることは可能です』
その答えに、わずかに空気が緩んだ。
「では――」
『ただし、受けるかどうかを決めるのは真神さんです』
すぐに元へ戻った。
「……当然です」
『はい』
レイチェルの声に皮肉はなかった。ただ事実を述べているだけだった。
「では、アシュフォード会長から、日本政府が真神氏との対話を希望している旨をお伝えいただくことは可能でしょうか」
『それは可能です』
「お願いできますか」
『承知しました。ただし、真神さんが応じるかどうかについて、私からお約束することはできません』
「分かっています」
そこで一度、言葉が途切れた。
用件としては、それで終わりだった。
だが、この機会を逃せば次にいつ話せるか分からない。そんな思いが、もう一つの問いを口にさせた。
「……アシュフォード会長」
『はい』
「真神氏は、我が国に対して何を望んでいるのでしょうか」
わずかな間があった。
『それは、私がお答えすることではありません』
「……そうですね」
『ただ――』
レイチェルが続けた。
『少なくとも現在、真神さんから日本政府に対して何かを求めているとは、私は聞いておりません』
怒りでもなかった。
拒絶でもなかった。
条件ですらなかった。
何も求めていない。
それは、日本政府が想定していたどの答えよりも、扱いに困る答えだった。




