第3章 第80話 新しい日常
幸一郎が目を覚ました時、部屋の中は静まり返っていた。
しばらく天井を眺め、それからゆっくりと身体を起こす。身体のどこにも痛みはない。疲労感もほとんど残っていなかった。それでも、ずいぶん長く眠ったという感覚だけはある。
「……寝たな」
ベッドから降りて軽く身体を伸ばす。キングサイズのベッドは相変わらず快適だった。足がはみ出さない。それだけで、この部屋に対する評価はかなり高い。
顔を洗い、身支度を整えて部屋を出ると、ほどなくしてセルマが姿を見せた。
「おはようございます、真神さん」
「おはよう。なんか食べるものある?」
「もちろんです。お食事になさいますか?」
「いや、とりあえず軽食で。まだ頭起きてないし」
「承知しました」
案内されたラウンジで待っていると、サンドイッチと温かいスープ、それに飲み物が運ばれてきた。半年近くダンジョンに籠もっていた反動なのか、こうして普通の椅子に座り、普通の食事を取れることが妙にありがたい。
壁際のモニターではニュースが流れていた。映っているのは日本。画面には、8年前の冤罪事件について議論する出演者たちの姿がある。
「……まだやってんのか」
「かなり大きな話題になっています」
「へえ」
幸一郎はそれだけ答えて、サンドイッチを一口かじった。
画面の中では、冤罪が一人の人間の人生にどれほど長く影響を残すのか、警察や社会はそれをどこまで認識できていたのか、そんな議論が続いている。
セルマは何も尋ねなかった。
ハワイからここまでの流れを、彼女はほとんど幸一郎の隣で見ている。今さら答え合わせをする必要もなかった。
「コーヒーもある?」
「はい。すぐにお持ちします」
「ありがとう」
やがて軽食を終えると、セルマは昨日できなかった施設の案内を始めた。
昨日の幸一郎は、到着するなり部屋の場所を聞き、ベッドを確認してそのまま眠ってしまった。考えてみれば、自分がこれから生活する場所について、ほとんど何も知らない。
施設内には食堂やラウンジのほか、医務室、トレーニング設備、会議室など、一通りのものが揃っていた。通信環境も整っており、インターネットの利用にも特別な制限はない。
「食事って、いつでも?」
「基本的には対応できます。時間外でも必要でしたらお申し付けください」
「ネットは普通に使える?」
「はい」
「外出は?」
「ご自由に。ただ、遠出される場合は移動手段と警備の手配がありますので、私に一言いただければ」
「別に許可がいるわけじゃない?」
「もちろんです。真神さんの行動を制限するための施設ではありませんから」
「なるほど」
外へ出ることはできる。誰かに連絡することもできる。必要なら祖父母のところへ行くことだってできる。その一方で、外から勝手に人が押しかけてくることはない。取材の申し込みが届いたとしても、それを受けるかどうかは幸一郎自身が決められる。
閉じ込められているわけではない。
自分から外へ出る自由と、他人を勝手に中へ入れない自由。その両方がここにはあった。
「……いいところじゃないか」
「お気に召したのでしたら何よりです」
セルマの案内が一通り終わった頃、レイチェルとの通話の時間になった。
レイチェルはまだハワイに残っている。幸一郎が休暇に入った一方で、《資源庫》の本格稼働を受けたアメリカ側との調整は続いていた。
セルマが端末を準備し、ほどなく画面にレイチェルの姿が映る。
『おはようございます、真神さん。よくお休みになれましたか?』
「ああ。久しぶりによく寝た」
『それは何よりです。施設はいかがです?』
「今、彼女に一通り案内してもらった」
『お気に召しましたか?』
「かなり。……いいところじゃないか」
『でしたら、用意した甲斐がありました』
レイチェルは満足そうに頷くと、ハワイの現状について簡単に説明した。《資源庫》そのものは問題なく稼働しており、ここから先の設備運用やアメリカ側との調整はWHAが担当する。現時点で幸一郎が参加しなければならない案件はないという。
「じゃあ、俺は?」
『休暇です』
「まだ休んでていい?」
『もちろんです』
「……いい会社だな」
『協会です』
「ああ、そうだった」
隣でセルマが僅かに視線を逸らした。
『それと、真神さんに一つご報告があります』
「ん?」
『WHAへの融資の申し出が増えています。ハワイの件以降、金融機関から提示される条件もかなり良くなりました』
「融資?」
『ええ。今回の契約によって、WHAには長期的かつ安定した収益が見込めるようになりましたから。信用力そのものが大きく変わっています』
「へえ……」
『特に、あなたがご自身の取り分を1%とし、WHAを29%へ変更した影響は小さくありません』
幸一郎は少し考えた。
「じゃあ、使える金も増える?」
『ええ。相当に』
「攻略の方は?」
レイチェルの目が僅かに細くなった。
『調査、輸送、現地拠点の確保を含め、いくつか前倒しできるでしょう。これまで資金面から優先順位を付けざるを得なかった案件についても、再検討できます』
「なら、よかった」
『……そちらも考えておられましたか?』
「WHAに金があれば、攻略の準備も早くなるだろ?」
『なりますね』
「なら、俺が行ける場所も増える」
『ええ』
「だったら、その方がいいじゃないか」
画面越しに幸一郎を見ていたレイチェルが、小さく息を吐いた。
『真神さん』
「ん?」
『まず1か月、じっくりお休みください』
「……1か月?」
『半年近くハワイダンジョンに籠もっていた方を、帰還してすぐ次のダンジョンへ送り込む組織だと思われては困ります』
「いや、俺は別に行けるけど」
『知っています』
「なら――」
『行けることと、行かせることは別です』
「…………」
『その1か月で、こちらも優先リストを整理します。現地調査も進めます。真神さんが次の攻略先を選ばれる頃には、今より多くの選択肢をご用意できるでしょう』
「……なるほど」
『ですから今は、攻略のことはWHAに任せてください』
「じゃあ、1か月?」
『最低1か月です』
「増えたぞ」
『半年分ですから』
「……はいはい」
どうやら、ここについては交渉の余地がなさそうだった。
とはいえ、休暇中の行動まで制限されるわけではない。出掛けてもいい。買い物をしてもいい。釣りに行ってもいい。何もせず寝ていても構わない。ただ、ダンジョンへ潜るなというだけだ。
半年近く潜っていた人間に1か月休めというのだから、むしろ随分まともな話なのだろう。
『それと、もう一つ』
「まだあんの?」
『日本では、なかなか興味深いことになっていますよ』
「ああ。テレビで少し見たよ」
『《静かな復讐》だそうです』
「らしいな」
『…………』
レイチェルは何も言わなかった。
ただ、画面の向こうでその口元がほんの僅かに上がる。
幸一郎はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「楽しんでんだろ? 特等席だもんな?」
『とても興味深く拝見しています』
「それ、否定になってないぞ」
『否定する必要がありますか?』
「ないけどさ……」
いつもの冷静な表情は崩れていない。それでも、その薄い笑みだけはどう見てもこの状況を楽しんでいる人間のものだった。
その後、いくつか簡単な確認を済ませて通話は終了した。
暗くなった画面をしばらく眺めてから、幸一郎は隣にいるセルマへ顔を向ける。
「……絶対楽しんでるよな、あの人」
「楽しんでおられると思います」
「だよなー……」
「はい」




