第3章 第79話 冤罪という罪過
世論の矛先が警察へ向かい始めた頃、警察内部でも対応を協議する会議が開かれていた。
議題そのものは珍しいものではない。過去の事件に対する批判が再燃した以上、事実関係を確認し、当時の捜査や対応について検証する。必要であれば説明を行う。それだけなら、これまでにもあったことだった。
だが、今回だけは少し事情が違った。
「……つまり、現時点で真神幸一郎氏から、警察に対する要求は一切ないんだな?」
「ありません」
「謝罪要求も?」
「ありません。当時の担当者に対する処分要求、情報公開、金銭的な要求についても確認されていません」
報告を受けた幹部の一人が、資料を閉じた。
「何もない、か」
それが救いなのかどうか、誰にも分からなかった。
むしろ今となっては、何も要求されていないことの方が重かった。
「今回の世論については?」
「かなり厳しい状況です。当時の捜査そのものだけではありません。現在の真神氏とWHAとの関係が比較対象になっています」
「……だろうな」
大型モニターには、すでに何度も見た映像が映されていた。ハワイダンジョンから戻った幸一郎を、大勢の人々が拍手で迎える。その中で戸惑いながら右手を上げ、最後には拳を握った男へ歓声が上がる。
続いて、WHAへ《資源庫》に関する情報を自ら持ち帰った経緯。アメリカとの協議。そして、ハワイを離れる際にセルマ・リンドベルグと言葉を交わし、自然に笑う姿。
「人間不信ではない」
誰かが言った。
「そう見るしかないでしょう」
「社会との関係を拒絶しているわけでもない」
「はい」
「……警察を信用していないだけか」
誰も答えなかった。
だが、その沈黙そのものが答えだった。
しばらくして、当時の事件を管轄していた警察署の責任者が口を開いた。
「我々は、冤罪というものを……どこかで、事件が終われば終わるものとして扱っていなかったか」
何人かが顔を上げた。
「誤った疑いをかけた。後にそれが判明した。捜査を検証する。必要なら謝罪する。再発防止策を作る。それで、組織として一つの事件を終わらせる」
「…………」
「だが、本人の人生はそこで終わらない」
17歳だった。
学校があった。家族がいた。これから先、何十年と続いていくはずの人生があった。
そこへ警察が入り込んだ。
疑った。
訴えを信じなかった。
そして、間違えた。
「我々にとっては過去の一件でも、本人にとっては、その後の人生の前提になってしまうことがある」
別の幹部が、静かに資料へ目を落とした。
「真神氏の場合、それが極端な形で表面化したということですか」
「極端だから、見えるようになっただけかもしれん」
その言葉に、室内が静かになった。
「普通の人間なら、見えなかっただけなのかもしれない」
冤罪によって仕事を失った者が、その後どんな職業を選んだのか。
人間関係を失った者が、その後どれだけ他人を信用できたのか。
警察を信用できなくなった者が、犯罪被害に遭った時、もう一度助けを求めることができたのか。
家族を作ったのか。作れなかったのか。どこかで人生を立て直したのか。それとも、立て直せなかったのか。
事件記録の最後には、そんなことまで書かれない。
「……我々は、知らなかっただけか」
「そうかもしれません」
「真神氏は、見えるんだな」
誰かが呟いた。
あまりにも大きな力を持って帰ってきたからこそ、その後の選択が世界中から見える。
誰と話すのか。
誰に情報を渡すのか。
どの組織に所属するのか。
どの国と協力するのか。
そして、誰を信用しないのか。
8年前の一つの冤罪が、そのすべての根に繋がっていると断定することはできない。人間の選択を一つの原因だけで説明することなどできない。
それでも、無関係だと言い切ることも、もはやできなかった。
「ハワイの件だけでも、アメリカは今後30年以上を見据えて動き始めています」
「ああ」
「WHAとの関係も、今後さらに深まるでしょう。真神氏が次にどのダンジョンを攻略するのか、その結果として何が生まれるのかは分かりません」
「そして我々には、彼に情報を共有してもらえる保証すらない」
「はい」
そこまで言われて、誰も言葉を続けなかった。
警察が一人の少年にかけた疑い。
その結果として失われれた信頼が、8年を経てなお回復していない。
そして今、その影響は一個人と警察との関係だけに留まらなくなっていた。
「……国家レベル、か」
重い声だった。
「我々の失敗の影響が、そこまで広がったと?」
「そう断定するのも危険でしょう」
一人が慎重に答えた。
「真神氏が現在どのような判断基準で動いているのか、我々には分かりません。《資源庫》について日本へ積極的に情報を提供しなかった理由も、本人は説明していません。すべてを8年前の事件へ結びつければ、それもまた本人の意思を勝手に決めつけることになります」
「……そうだな」
「ですが」
そこで言葉を切った。
「警察に対する信頼を失わせた原因については、推測する必要がありません」
誰も反論しなかった。
帰還した幸一郎本人から、すでに答えを突きつけられている。
――人の話を聞かなかった連中が、今になって話を聞けは都合が良すぎる。
「そこだけは、我々の責任です」
室内から音が消えた。
「真神氏がWHAを選んだことまで我々の責任だとは言えません。アメリカと協力したことも、《資源庫》を日本へ公表しなかったことも、堺東を再初期化したことも、それぞれ本人の判断です」
「ああ」
「しかし、その判断をする時に、警察という組織が『信用できる相手』として残っていなかった。その原因の一つを我々が作った。それは否定できません」
責任の範囲を広げすぎることも、狭めすぎることもできなかった。
警察がハワイから石油を奪ったわけではない。
堺東の《資源庫》を失わせたと決まったわけでもない。
真神幸一郎をWHAへ追いやった、と単純に断定することもできない。
だが、17歳の少年から警察への信頼を奪った。
それだけは事実だった。
「……冤罪というものを、もっと重く考えなければならんな」
署長の言葉に、一人の幹部が苦い顔をした。
「今さら、でしょうか」
「今さらだ」
否定しなかった。
「だからといって、向き合わなくていい理由にはならん」
誰も口を挟まなかった。
「一人の人生を狂わせる。それだけでも十分に重い。だが、その人間は事件が終わった後も社会の中で生き続ける。警察を信用するのか、しないのか。国家を信用するのか、しないのか。その後の選択すべてに、我々の失敗が残り続ける可能性がある」
モニターには、再びハワイの映像が流れていた。
幸一郎が右手を上げる。
開いた手を、ゆっくりと握る。
歓声が上がる。
「今回は、それが国家という単位で見えるところまで大きくなった」
だから気づけた。
だからこそ、気づかなければならなかった。
「真神氏だけの話として終わらせるな」
「……はい」
「冤罪を出さない。当たり前だ。だが、もし間違えた時に何が残るのかまで考えろ。謝罪した、補償した、再発防止策を作った。それで被害者の人生まで元に戻ったと思うな」
そこで署長は、一度言葉を止めた。
「我々にとって事件が終わっても、被害を受けた人間にとって終わるとは限らない」
8年前。
一人の少年の言葉は届かなかった。
そして今、その少年だった男は、世界を動かすほどの力と情報を持ちながら、自分の言葉を誰に届けるのかを自分で選んでいる。
その選択の外側に警察がいる。
それを不当だと言える者は、この部屋にはいなかった。
「真神氏への接触は?」
「現状、必要性はありません」
「なら、するな」
即答だった。
「この状況で我々から接触して、『もう一度信用してほしい』などと言うのは、結局またこちらの都合だ」
「では、何を?」
「我々がやるべきことをやる」
署長は机の上に置かれた、8年前の事件資料へ視線を落とした。
「信用を失った本人に、信用を返せと要求するな」
静かな言葉だった。
「取り戻せるかどうかを決めるのは、我々じゃない」
それは8年前には認めることのできなかった、真神幸一郎自身の選択権だった。
今度こそ、それを奪ってはならなかった。




