第3章 第78話 終わっていなかった…8年前に続き
《静かな復讐》。
ある情報番組で使われたその言葉は、翌日になっても消えることなく、むしろ形を変えながら広がり続けていた。
真神幸一郎は、本当に社会へ復讐しているのか。
《資源庫》について日本社会へ積極的に説明することはなかった一方、WHAには自ら情報を持ち帰った。ハワイではその情報をもとにアメリカとの協議が行われ、石油を選択。その存在と規模が世界へ知られた直後、堺東ダンジョンは再初期化された。
並べれば、確かにそう見える。
だが議論が続くうち、別の疑問が生まれ始めた。
『そもそも、なんで真神は日本を信用してないんだ?』
その一言が、流れを変えた。
『日本というより警察じゃね?』
『17歳の時の冤罪か』
『待て。WHAには自分から情報渡してるんだよな?』
『渡してる』
『アメリカとも話し合えてる』
『WHA経由だけどな』
『じゃあ人間不信じゃないじゃん』
『最初からそうだろ。ハワイで普通に拍手に応えてたぞ』
『じゃあ何で日本には話さなかった?』
『だから8年前だろ』
そして、人々は8年前を掘り始めた。
当時17歳だった高校生が痴漢の疑いをかけられ、補導され、取り調べを受けたこと。本人は一貫して否認していたこと。それでも疑いは晴れず、高校を事実上去ることになり、やがて祖父母の家へ身を寄せたこと。そして六甲山ダンジョンへ入り、姿を消したこと。
失踪から半年後、事件は冤罪だったことが明らかになった。
そこまでなら、すでに何度も報じられている。
だが今回、その過去と現在が一本の線で繋がった。
『真神氏が帰還した際、警察側は改めて事情を聞くため、接触を試みています』
ニュース番組で、過去の報道が掘り起こされていた。
『その際、真神氏が警察側に返したとされる言葉が、現在ネット上で再び注目されています』
画面に大きく文字が表示される。
――人の話を聞かなかった連中が、今になって話を聞けは都合が良すぎる。
『当時は、8年前の冤罪事件に対する強い不信感を示した言葉として受け止められていました。しかし今回、WHAには自ら情報を提供していることが明らかになったことで、改めて注目されているようです』
『つまり、誰とも話したくないわけではなかった?』
『少なくとも現在確認できる行動を見る限り、そう考える方が自然でしょう』
画面がハワイへ変わった。大勢から送られた拍手に戸惑いながら右手を上げ、やがて拳を握る幸一郎。さらに、ハワイを離れる直前、セルマと言葉を交わして自然に笑う数秒間の映像が続く。
『WHAには情報を提供する。アメリカ側との協議にも参加する。仕事を終えた現地スタッフからの拍手にも応える。つまり、真神氏が社会との関わりそのものを拒絶しているとは考えにくい』
『だとすれば……』
『誰とも関わりたくないのではなく、誰と関わるのかを本人が選んでいる。そう見ることはできると思います』
そこで司会者は、しばらく言葉を選んだ。
『では、その選択肢から日本の警察が外れている理由は――』
最後まで言う必要はなかった。
◇ ◇ ◇
「……こっちに来たか」
テレビを見ていた男が、小さく呟いた。
8年前、17歳だった真神幸一郎を実際に取り調べた警察官の一人だった。
あの日の取調室を、忘れたことはない。
少年は否認していた。やっていない。自分ではない。何度聞いても答えは変わらなかった。
それでも被害を訴える少女がいた。証言があった。当時の自分たちは、少年を疑うだけの理由があると考えていた。否認を続けることより、認めた方が本人のためになる。そう考えていた者もいた。
そして、自分たちは聞いた。
少年の言葉を、聞いたつもりになっていた。
実際には、信じなかった。
『弱いから主張は届かない』
そんな言葉まで浴びせた。
「…………」
今なら、嫌というほど意味が分かる。
弱かったのは、あの少年だった。
警察官と17歳の高校生。どちらの言葉が社会へ届きやすいかなど、考えるまでもない。
半年後、冤罪だったことが明らかになった。
その時にはもう、少年はいなかった。
そして8年後。帰ってきた彼は、自分たちとは比べものにならないほど強くなっていた。
だが、報復には来なかった。
謝罪を要求することもなければ、当時の担当者を探し出すこともしなかった。
ただ、自分たちを信用しなかった。
男のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、しばらく迷ってから通話を取る。
『……見てるか』
「ああ」
『えらいことになってきたな』
「なると思ってただろ」
『まあな』
二人とも、当時の取調べに関わっていた。
テレビでは、先ほどと同じハワイの映像が流れている。
「俺さ。あいつが帰ってきた時、ちょっと思ってたんだよ」
『何を?』
「8年もダンジョンにいたんだ。もう人間なんか信用できなくなったんじゃないかって」
電話の向こうが静かになった。
「……違ったな」
『ああ』
「WHAには自分から話す。アメリカとも話し合える。大勢から拍手されたら、ちゃんと応える。秘書とは普通に笑ってる」
『ああ』
「普通に、人とやっていけるんだな」
今度は、少し長い沈黙があった。
『俺たちが信用されてないだけだ』
「…………そうだな」
その方が、ずっと重かった。
人間そのものを信じられなくなったのなら、8年間という時間やダンジョンでの生活を理由にできたかもしれない。
だが違った。
真神幸一郎は今も人を信じることができる。
誰を信じるかを、自分で選んでいる。
その中に、自分たちがいないだけだった。
◇ ◇ ◇
世論も、同じところへ辿り着き始めていた。
『今回の問題を、《資源庫》だけに限定して考えるべきではないと思います』
別の番組で、専門家がそう切り出した。
『堺東に《資源庫》が存在したのかどうかは分かりません。存在したとして、ハワイと同じ選択肢があったのかも分からない。ですから、失われた資源について具体的な数字を挙げる議論には意味がありません』
『では、何が問題なのでしょう?』
『現在、確実に確認できるものです。真神氏はWHAには情報を提供している。そして、WHAを通じて他国とも協議できている』
『つまり?』
『日本が失った可能性がある最大のものは、石油でも鉱物でもなく――真神幸一郎という人物との信頼関係ではないでしょうか』
その言葉は瞬く間に切り抜かれた。
《日本が失った最大の資源は「真神幸一郎との信頼」だった?》
刺激的な見出しが並び、それまで《資源庫》や堺東へ向いていた世論の視線が、一気に過去へ向かった。
『じゃあ誰が信用ぶっ壊したんだよ』
『冤罪事件』
『警察だろ』
『結局そこに戻るのか』
『だって真神、WHAとは普通にやってんじゃん』
『警察が壊した信用をWHAがゼロから積み上げたってこと?』
『ゼロじゃないだろ。日本がマイナスにしたんだから』
『それ一番きついやつ』
『堺東の資源がどうこうは分からん。でも今後も重要な情報が日本に来ない可能性はあるよな』
『それ国家レベルの損失じゃね?』
『8年前の冤罪対応がまだ現在進行形で効いてるってこと?』
『笑えねえ』
警察への批判は、急速に強くなっていった。
なぜ17歳の少年の訴えをもっと慎重に聞かなかったのか。なぜ冤罪を防げなかったのか。失踪後、冤罪が判明した時に何が行われたのか。当時の取調べは適切だったのか。
やがて、その中に別の種類の言葉も混ざり始めた。
『当時の担当者の名前出せ』
『今どこに勤務してる?』
『人生壊したんだから責任取らせろ』
『退職してても逃がすな』
だが、それに対する反発もすぐに現れた。
『待て、それは違うだろ』
『警察の責任追及と個人へのネットリンチは別だ』
『真神本人がそいつら探して復讐してるのか?』
『してない』
『じゃあ何でお前らが真神の名前使って私刑始めてんだよ』
『当時の事実を検証するのは必要だろ』
『それと住所勤務先特定は別だって話』
『疑って決めつけて追い詰めるの、8年前と何が違うんだよ』
その一言で、流れが一瞬止まった。
真神幸一郎が何を望んでいるのか、誰も知らない。
警察を罰してほしいと言ったことはない。当時の担当者を晒してほしいとも言っていない。むしろ彼自身は、その誰かを探そうとすらしていなかった。
《静かな復讐》。
そう呼ばれ始めたものの中心にいる本人は、誰にも復讐を命じていなかった。
◇ ◇ ◇
『日本が失った可能性がある最大のものは、真神氏との信頼関係ではないでしょうか』
テレビから流れる言葉を、別の元担当者が一人で聞いていた。
「……言われるよな」
反論する気にはなれなかった。
画面にはWHAのレイチェル・アシュフォードが映り、次にセルマ・リンドベルグと並んで歩く幸一郎が映る。さらにハワイで拍手を送る人々と、それに応える幸一郎。
誰とも話せない人間ではない。
誰も信じられない人間でもない。
社会を憎んで背を向け続けている人間でもない。
それが映像として世界中へ流れてしまった。
「……俺たちが壊したって言われたら、否定できないな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
もし幸一郎が怒鳴り込んできたなら、謝ることはできた。
責任を問われたなら、答えることもできた。
恨みをぶつけられたなら、受け止めることもできたかもしれない。
だが、何も来ない。
幸一郎から連絡が来たことはない。当時の担当者の名前を公の場で口にしたこともない。自分たちの人生を壊そうとしたことなど、一度もない。
ただ、必要とされていない。
「……こっちの方が、きついな」
恨まれているなら、まだ自分は相手の中にいる。復讐されるなら、自分はまだ彼の人生に関係している。
だが今の真神幸一郎の人生に、自分たちの姿はどこにもなかった。
レイチェルがいる。セルマがいる。WHAの人間たちがいる。アメリカの技術者たちが彼へ拍手を送り、幸一郎はそれに応えた。そして仕事が終われば、彼は自分の居場所へ帰っていった。
男はテレビの中で、セルマと言葉を交わして笑う幸一郎をしばらく見ていた。
「……元気そうで、よかったじゃないか」
口にしてから、小さく苦笑する。
「俺が言うことじゃないか……」
それでも、他に言葉は浮かばなかった。
8年前、自分たちは17歳の少年の言葉を聞かなかった。
今、警察も社会も、その男の言葉を聞きたがっている。
だが今度は、誰に話すのかを決める権利が、真神幸一郎自身の手にある。
そして、その選択を無理に変えさせる権利は、もう誰にもなかった。




