第3章 第77話 静かな復讐
ハワイダンジョン《資源庫》の本稼働から、世界中の報道機関は同じ映像を何度も繰り返していた。
12か所に設置された採取設備。その計器がほぼ同時に動き始め、接続された設備へ原油が流れ込んでいく。試験採取の段階ですでに石油そのものは確認されていたが、今回は意味が違う。ハワイダンジョン最下層で真神幸一郎が稼働開始操作を行い、《資源庫》が正式に動き始めた瞬間だった。
『こちらが、実際に原油の採取が始まった際の映像です。改めて確認しますが、年間600万バレルという数字で間違いないんですね?』
『正確には、ダンジョン側が提示した年間予定産出量が600万バレルです。そして最低稼働保証期間が30年。単純計算すれば、最低でも1億8000万バレルということになります』
『かなりの量に聞こえますが』
『もちろん大きな数字です。ただ、世界全体の石油市場をこれだけで塗り替えるほどではありません。今回注目すべきなのは、むしろ供給の仕組みです』
日本の情報番組でも、映像に合わせて通常の油田とハワイダンジョンを比較する簡単な図が表示されていた。
『通常の油田では調査を行い、埋蔵量や採掘可能量を推定します。しかし今回は違います。先にダンジョン側から、年間予定産出量と最低保証期間が提示されている』
『つまり、30年間はこの規模で出ると?』
『少なくともシステムはそう表示しています。そしてアメリカ政府もWHAも、その数字を前提に動き始めています』
石油が出た。それだけなら、まだ理解できる話だった。だが、人類が掘り当てた油田ではない。完全踏破されたダンジョンを《資源庫》という状態へ変更し、そこで石油を選択した結果として生まれた供給源だった。
当然、世間の興味は次へ向かった。
『そもそも、この《資源庫》では石油以外も選択できたんですよね?』
『公表されている情報では、石炭、天然ガス、メタンハイドレート、鉱物、そして《異鉱物》などが確認されています』
『異鉱物というのは?』
『分かりません』
『……分からない?』
『現時点では、具体的に何を指しているのか公表されていません』
石油が本当に出たのなら、他の資源も本当に出るのではないか。その疑問が広がるまでに時間はかからなかった。エネルギー企業だけではない。鉱山会社、商社、素材メーカー。これまでダンジョンを自分たちとは遠い存在として見ていた企業まで、《資源庫》という言葉を調べ始めていた。
そして日本では、どうしても避けて通れない名前が浮上する。
『ここで当然、疑問になるのが堺東ダンジョンです。堺東も完全踏破後には待機状態にありました。ハワイと同じですね』
『では、堺東にも《資源庫》があったのでしょうか?』
『分かりません。そこは明確にしておく必要があります。堺東に同様の《資源庫》が存在したのか、仮に存在したとして何を選択できたのか、石油が含まれていたのか。そのいずれも確認されていません』
『では、比較すること自体が間違いですか?』
『いいえ。むしろ問題は、確認できないことです』
再初期化後の堺東ダンジョンと、ハワイから原油が流れ出す映像が並べて表示された。
『堺東はすでに再初期化され、待機状態ではありません。つまり、待機状態のままであれば何ができたのかを、現在の状態から確認することができない。何かを失ったと断定することもできませんが、何も失っていないと断定することもできません。私たちは、ダンジョンについて知らないことが多すぎるんです』
その言葉から始まった議論は、そこで終わらなかった。
「ここで一つ、私は少し違う観点から気になっていることがあります」
口を開いたのは、心理学を専門とするコメンテーターだった。
「真神氏は、《資源庫》というものの存在を以前から知っていた可能性があるわけですよね?」
「少なくとも、六甲山を完全踏破した際には、その存在を確認する機会があった可能性があります」
「しかし、それを公表しなかった」
「結果としては、そうなります」
コメンテーターは少し考えてから続けた。
「これはあくまで心理面から考えた一つの可能性です。真神氏本人の意図を断定するものではありません。その上で申し上げるのですが――これは、彼なりの社会に対する復讐だったのではないでしょうか」
「……復讐、ですか?」
「ええ。17歳の時、彼は冤罪によって社会から居場所を失った。本人は訴えたにもかかわらず、その言葉は届かなかった。そしてダンジョンへ入り、失踪から半年後になって冤罪だったことが明らかになった。その彼が8年後に帰還し、世界の資源事情すら変えかねない情報を持っていた。それでも、自分から社会へ教えようとはしなかった」
「知っていたなら、教えればよかったと?」
「そういう意味ではありません。彼に法的な説明義務があったという話でもありません。ただ、『自分の話を聞かなかった社会に、自分から親切に教える必要はない』。もし彼の中にそうした感情があったとしても、心理的には不自然ではないと思います」
あくまで一つの仮説だった。しかし、別の専門家が口を開いたことで、話はそこで終わらなくなった。
「少し、時系列を整理してみませんか」
画面が切り替わり、六甲山ダンジョン完全踏破、堺東ダンジョン完全踏破、WHAへの移籍と、これまでの出来事が時系列に並べられていく。
「真神氏が《資源庫》をいつ、どこまで理解したのかは分かりません。ただし、少なくともWHAはハワイ攻略以前に《資源庫》というものの存在を把握し、独自に調査を始めています。そして、ハワイダンジョンを完全踏破した真神氏は、その場で資源を選択していません」
「選ばなかった?」
「はい。選択可能な資源や関連する表示を記録し、WHAへ持ち帰っています」
「自分から?」
「そうです」
スタジオが僅かに静かになった。
「つまり、日本社会には広く公表しなかった情報を、WHAには自分から持ち帰った?」
「観測できる行動だけを見れば、そうなります。その情報を受けたWHAはアメリカ側との協議に入り、その後、真神氏が石油を選択した。そこで初めて、年間600万バレル、最低30年という数字が世界へ公開されました」
画面上の時系列がさらに伸び、《選択資源――石油》《年間予定産出量――6,000,000バレル》《最低稼働保証期間――30年》の文字が並ぶ。そして、そのすぐ後ろにもう一つの出来事が表示された。
堺東ダンジョン――再初期化。
「そして、ここです。ハワイで《資源庫》の存在と、その規模が世界へ知られた直後、堺東ダンジョンの待機状態が解除されています」
「……偶然でしょうか?」
「分かりません。そこは絶対に断定してはいけません」
専門家はすぐに否定した。
「WHAが後に公表した説明では、真神氏は日本国内で行われていたダンジョン開放運動を把握しており、その要望に応じて完全踏破者に与えられた管理権限を使用した、とされています。本人の説明も、『開放してほしいという要望があったため、その要望に応じた』というものです」
「ですが、時系列だけを見ると……」
「ええ。だからこそ、先ほどの指摘が議論になるのでしょう」
再び心理学のコメンテーターへ視線が集まった。
「先ほど私は『復讐』という言葉を使いました。ただ、一般的に想像する復讐とは少し違うのかもしれません。真神氏は誰かを攻撃していません。何かを奪ったわけでもない。堺東についても、むしろ社会から求められたことを実行しています」
「ダンジョンを開放してほしい、という要望ですね」
「そうです。ですから――もしこれを復讐と呼ぶのであれば、非常に静かな復讐です」
その言葉は、放送が終わるより早くネットへ流れた。
『静かな復讐ってそういうことか』
『WHAには自分から情報渡してるのか』
『日本には言わない→WHAには教える→ハワイ石油→直後に堺東リセット』
『並べるな怖いから』
『これ狙ってやってたら怖すぎる』
『でも堺東開けろって言ったのこっちじゃん』
『真神「要望に応えました」』
『怖い怖い怖い』
『いや何もしてなくね?』
『堺東リセットしただろ』
『だから開けろって言っただろ』
『無限ループ始まってて草』
『資源庫のこと教えてないじゃん』
『教える義務あったの?』
『世界規模の情報だぞ』
『重要な情報なら私人に無条件で公開義務が生えるのか?』
『17歳の時に本人の話聞かなかった社会が「知ってたなら言え」は強すぎる』
『それ以上はいけない』
復讐だったのか、違うのか。意図的に日本へ損失を与えたのか、そんな証拠はないのか。WHAには情報を渡している以上、単に信頼する相手を選んだだけではないのか。そもそも、なぜ日本社会へ説明することが当然だと思っているのか。議論は急速に膨らみ、翌日には別の番組でも同じ話題が取り上げられていた。
『私は、「復讐」という言葉を使うこと自体に少し違和感があります』
そう語ったのは、社会制度を専門とするコメンテーターだった。
『真神氏が日本社会へ損害を与えることを目的として行動した証拠があるのであれば、そう呼ぶこともできるでしょう。しかし、実際に確認できる行動を整理してください。WHAには情報を提供した。ハワイではアメリカ側と協議した。そして堺東では、開放を求める声に応じて再初期化した。それだけです』
『では、復讐ではないと?』
『分かりません。本人ではありませんから。ただ、私たちは今、「真神氏が日本社会の利益になるよう、先回りして行動しなかったこと」を復讐と呼ぼうとしているのではないでしょうか』
『…………』
『それは本当に、復讐なのでしょうか』
今度は、その言葉が切り抜かれた。さらに別の出演者が、少し違った角度から言葉を重ねる。
『もしかすると、私たちは期待していたのかもしれません』
『期待、ですか?』
『これだけの力を持って帰ってきたのだから、最終的には日本のために動いてくれるだろう、と。でも、真神氏はそんな約束を一度でもしたのでしょうか』
その問いにも、明確な答えは出なかった。
議論は収束するどころか、さらに大きくなった。そして当然のように、一つの声へ集約されていく。
――本人に聞けばいい。
《資源庫》を公表しなかったのはなぜなのか。WHAにはなぜ情報を渡したのか。堺東の再初期化は、ハワイの《資源庫》が世界へ知られる時期に合わせたものだったのか。そして、社会に対する復讐という意図は本当にあったのか。
各社の取材申し込みがWHAへ殺到した。
『取材申請については受け付けております』
「では、真神氏へ直接お話を伺いたいのですが」
『取材を受けるかどうかは、真神氏本人が判断いたします』
「今回の『復讐』との指摘について、本人から何かコメントは?」
『ございません』
「否定もされていない?」
『コメントを出していない、という意味です』
「現在、真神氏はどちらに?」
『回答いたしかねます』
「ハワイには?」
『すでに離れております』
「では、現在はWHAの施設に?」
『回答いたしかねます』
「次の攻略予定は?」
『公表できる情報はございません』
「いつ取材を受けてもらえるのでしょうか?」
『それも真神氏本人の判断となります』
WHAは取材を禁止しているわけではなかった。申し込みは受け付け、必要なものは本人へ伝える。だが、その先へ進むかどうかを決めるのは幸一郎だった。居場所は教えない。連絡先も渡さない。直接電話を繋ぐこともなければ、セルマを経由して接触させることもない。
WHAへ移籍した意味を、報道機関もようやく実感し始めていた。
真神幸一郎は、社会から隔離されたのではない。本人が望めば、いつでも社会へ出ていける。変わったのは逆方向だった。社会の側から、本人の意思を無視して勝手に踏み込むことができなくなったのだ。
そしてネットでも、別の意味で困惑が広がっていた。
『で、真神どこ行った?』
『知らん』
『ハワイ出たよな』
『出た』
『どこ行った?』
『知らん』
『次のダンジョンは?』
『知らん』
『今何してんの?』
『知らん』
『セルマさんは?』
『一緒にハワイ出た』
『その後は?』
『知らん』
『何なら知ってるんだよ』
『石油が出た』
『それは世界中知ってるわ』
世界中が、真神幸一郎について語っていた。復讐なのか、違うのか。次はどこへ行くのか。何を考えているのか。
だが、その中心にいる本人だけが、どこにもいなかった。
正確には、誰も彼が今どこで何をしているのかを知らなかった。
WHAだけが、その境界線を静かに守っていた。




