第3章 第76話 今は遠き信頼の先
真神家の居間では、テレビがついたままになっていた。
最近では珍しいことではない。幸一郎が帰還してからというもの、ニュースでその名前を聞かない日の方が少なくなっていた。六甲山、堺東、琵琶湖、そしてハワイ。ほんの少し目を離しただけで、画面の向こうにいる幸一郎は家族の知らない場所へ進んでいく。
今日流れているのは、ハワイダンジョン《資源庫》を巡る契約締結会見だった。壇上に幸一郎はいない。いるのはアメリカ大統領と、WHA会長レイチェル・アシュフォード。幸一郎本人は休暇中だという。契約を決める場には参加した。だが、その内容を世間へ説明するための会見にまで出席する必要はない。WHAはそう判断し、そもそも幸一郎へ出席を求めてすらいなかった。
それだけでも、この家族にとっては理解しにくい話だった。
さらに会見では、契約の内容が明らかになっていく。年間予定産出量600万バレル。最低稼働保証期間30年。そして利益配分は、アメリカ70%、WHA29%、真神幸一郎――1%。
「……1%?」
義妹が思わず声を漏らした。
聞き間違いではなかった。当初の協議では幸一郎に10%が割り当てられる予定だった。それを1%へ変更するよう求めたのは、幸一郎本人だったという。当然、記者からはWHAによる圧力や要求があったのではないかと質問が飛んだが、レイチェルは明確に否定した。幸一郎本人からの提案であり、WHAへの贈与ではなく、今後の管理や運用、各国との交渉を含めた契約条件そのものを変更したもの。アメリカ側の代表者もその場に立ち会っており、圧力も強制もなかったと証言した。
理由も伝えられた。今の生活を維持するだけなら、1%でも十分すぎる。そして管理や交渉を引き受けるWHAが安定した利益を得ることは、自分にとっても利益になる。
「…………」
誰も何も言わなかった。
金額そのものより、幸一郎が自分に必要なものを自分で決めていることの方が大きかった。かつてなら、家族として口を挟めることはいくらでもあった。これからどうするのか。仕事はどうするのか。生活は大丈夫なのか。将来のために金を残しておいた方がいいのではないか。そんな言葉を、家族だからという理由で口にすることもできただろう。
だが、年間600万バレルの1%で十分だと言い切った男に、金の心配をする意味などあるのだろうか。
しかも幸一郎は、大金を前に投げやりになっているわけではない。自分にはどれだけ必要なのか、残りをどこへ回せば自分がより楽に暮らせるのか。その基準で、自分の取り分まで決めている。
テレビの中では、レイチェルが記者からの質問に答え続けていた。幸一郎が苦手とする交渉を引き受け、契約をまとめ、その内容を社会へ説明する。あの女性がいる限り、幸一郎が政治家や企業を相手に一人で立ち回る必要はないのだろう。
やがてニュースは、ハワイダンジョン《資源庫》の本稼働を伝える映像へ切り替わった。
石油が出た。予定されていた12か所すべてで正常な稼働が確認され、現場にいた技術者や関係者から歓声が上がる。そして最下層で稼働開始操作を終えた幸一郎が戻ってくると、今度は周囲から拍手が起こった。
最初、幸一郎は自分へ向けられたものだと分からなかったらしい。隣にいた銀髪の女性――セルマ・リンドベルグに何かを言われ、周囲を見回す。やがて右手を上げ、開いた掌をゆっくりと握る。その手が拳になった瞬間、歓声はさらに大きくなった。
「……笑ってる」
父親が呟いた。
ほんの僅かだった。困ったような、照れたような表情。それでも、嫌そうではなかった。周囲にいる者たちも幸一郎を恐れてはいない。人外の力を持つ危険人物を見る目ではなく、一緒に一つの仕事を終えた人間を称えるように、笑い、拍手し、歓声を送っている。幸一郎も、それを拒絶しなかった。
義母は黙って、その姿を見つめていた。
幸一郎は、人間が嫌いになったわけではなかった。誰とも関わりたくなくなったわけでも、社会の中で生きられなくなったわけでもない。画面の中の幸一郎は大勢の人間の中に立ち、その場所で受け入れられていた。
さらに映像が切り替わった。仕事を終え、ハワイを離れる時のものだった。
少し前を歩いていたセルマが振り返り、何かを言う。中継のマイクは二人の声まで拾っていない。幸一郎が何かを返すと、セルマが笑った。それを見た幸一郎も、ふっと笑う。
ほんの数秒。何でもない光景だった。
それなのに、居間にいる誰もが画面から目を離さなかった。
見たことのない笑顔ではない。昔は、この家でも見たことがあった。だからこそ分かってしまう。幸一郎は笑えなくなったわけではない。誰かを信じられなくなったわけでも、誰かが隣にいることを嫌うようになったわけでもない。
ただ、その隣にいる人間が、自分たちではなくなっただけだった。
「……仲、いいんだね」
「そうみたいね」
義妹の言葉に義母が答える。それ以上の言葉は続かなかった。
セルマ・リンドベルグ。幸一郎の秘書。ニュースを通して知っているのは、それだけだった。だが、今の数秒間に映った二人は、仕事だから一緒にいるだけの関係には見えなかった。幸一郎の機嫌を取っているわけでもなければ、幸一郎も相手に気を遣って笑ったようには見えない。ただ何かを話して、セルマが笑い、幸一郎も笑った。それだけの光景が、妙に遠かった。
ちゃんと食べているの。生活は大丈夫なの。無理をしていないの。一人で困っていることはないの。
義母の中にあった、母親なら口にしてもおかしくないはずの言葉が、一つずつ意味を失っていく。
金には困らない。仕事は自分で選べる。自分には必要のない交渉を引き受けてくれるレイチェルがいて、日々を支え、隣を歩き、何でもないことで笑い合えるセルマもいる。大勢の人間から拍手を向けられれば、それに応えることもできる。
家族がいなくても、真神幸一郎の生活は何一つ困ることなく成立していた。
画面の中では、幸一郎とセルマがセスナへ向かって歩いていく。
「……帰るんだ」
義妹の言葉に、義母が僅かに目を伏せた。
帰る。その言葉が妙に胸に残った。日本へではない。この家へでもない。仕事を終えた幸一郎には、もう帰る場所がある。世界中が石油で騒ぎ、アメリカ政府が動き、WHAが動き、各国の報道機関が彼の名前を追い続けていても、自分の仕事が終わればそこを離れ、自分の生活へ帰っていく。
その姿を見つめていた義姉が、ぽつりと口を開いた。
「……私たち、もう何も言えること、ないんじゃない?」
父親も、義母も、義妹も答えなかった。否定できなかった。
幸一郎から絶縁を告げられたわけではない。家族に近づくなと言われたわけでも、恨み言をぶつけられたわけですらなかった。ただ、幸一郎は自分の人生を自分で選び、その先へ進んだ。その結果として仕事ができ、十分すぎる収入を得て、自分の意思を尊重する組織に所属し、苦手なことを任せられる相手ができた。何でもないことで笑い合える人もでき、帰る場所までできた。
そのどれにも、自分たちは関わっていない。
気がつけば、幸一郎の人生はもう、家族という言葉だけで介入できる場所にはなかった。
義姉の脳裏に、以前の自分の言葉が蘇る。
『幸一郎だって勝手にダンジョンに入ったんでしょ。そこまで家族の責任にされても困るわ』
そして母に聞かれた。
『じゃあ幸一郎は、どこへ行けばよかったの』
あの時、自分は答えられなかった。最後には、『じゃあ、どうしろっていうのよ』と話を終わらせた。
画面の向こうでは、幸一郎がセスナへ乗り込んでいく。
今なら、あの問いへの答えが分かる。
「……行く場所が、なかったんだ」
「え?」
「あの時……幸一郎には、行く場所がなかったんだ。だから、ダンジョンに行ったんだ……」
誰も口を挟まなかった。
勝手に行った。その言葉だけなら間違ってはいない。誰かに引きずられて入ったわけではなく、最後にその足でダンジョンへ向かったのは幸一郎自身だった。
けれど、家にいられない。学校にもいられない。訴えても信じてもらえない。居場所を一つずつ失った17歳の少年が、最後に残った場所へ自分の意思で向かったことを、自分はずっと――勝手に行ったと呼んでいただけだった。
義姉は俯いた。
謝ればいいのか。帰ってきてほしいと言えばいいのか。もう一度家族としてやり直そうと言えばいいのか。何一つ分からなかった。
なぜなら幸一郎は今、困っていない。
助けを求めてもいない。
帰る場所を失ってもいない。
むしろ、あの頃にはなかったものを、自分で一つずつ手に入れている。
テレビの中から幸一郎の姿が消え、セスナの扉が閉じる。やがて機体は動き始め、ハワイを離れていった。
「……よかった」
小さな声がした。
誰が言ったのか、誰も確かめなかった。
少なくとも、今の幸一郎には帰る場所がある。
それを喜ぶことだけなら、まだ自分たちにも許されているような気がした。




