第3章 第75話 動き出した世界
ハワイダンジョン《資源庫》の本稼働を見届けたその日のうちに、幸一郎はハワイを離れた。
ここから先の設備運用やアメリカ側との調整はWHAの仕事になる。自分にしかできない仕事は終わった。それを確認すると、幸一郎はセルマと共に空港へ向かい、WHAが用意したセスナへ乗り込んだ。
初めて乗る小型機に最初こそ興味を示し、窓の外に広がる海を眺めていたものの、それも長くは続かなかった。
「寝ていいです?」
「どうぞ。到着しましたら起こします」
「お願いします」
シートへ身体を預け、目を閉じる。
世界では今も、年間600万バレルの石油と、ハワイで幸一郎が掲げた拳について騒ぎ続けている。
その本人は、目的地へ到着するより先に眠っていた。
◇ ◇ ◇
「真神さん、到着しました」
「…………ん」
セルマの声で目を覚ます。
窓の外には、これから幸一郎が生活することになるWHAの本格拠点が見えていた。
「……着いた?」
「はい」
「どれくらい寝てました?」
「ほとんどずっとです」
「よく寝たな……」
「まだ眠そうですが」
「寝足りないですね」
セスナを降りても、幸一郎の足取りはどこか重い。待っていたWHA職員から施設について説明を受ける予定になっていたが、幸一郎は建物へ入ったところでセルマを見た。
「詳しい説明、明日でもいいです?」
「構いません。急いで確認していただくものはありません」
「じゃあ、部屋だけお願いします」
「こちらです」
案内された部屋へ入り、幸一郎は足を止めた。
「…………」
見る。
もう一度見る。
視線の先には、大きなベッドがあった。
「キングサイズ?」
「はい。真神さんの体格を考慮して用意されています」
「おお……」
施設の設備も、警備体制も、通信環境もまだ何一つ確認していない。
だが、今の幸一郎にとっては、それよりこちらの方が重要だった。
ベッドへ腰を下ろす。そのまま後ろへ倒れ、足を伸ばした。
「……足出ない」
「そのためのサイズですから」
「広い……」
一度寝返りを打つ。
まだ余裕がある。
反対側へ転がってみる。
やはり余裕がある。
「いいな、これ」
「お気に召したようで何よりです」
「セルマ」
「はい」
「ここ、いいところですね」
「まだベッドしかご覧になっていませんが」
「今はこれで十分です」
セルマが僅かに笑った。
「では、詳しいご説明は明日にいたしましょう。おやすみなさい、真神さん」
「おやすみー」
扉が静かに閉じる。
それから間もなく、幸一郎は眠りに落ちた。
8年という時間をダンジョンで過ごし、帰還してからも六甲山、堺東、琵琶湖、ハワイと動き続けた男が、ようやく手に入れた自分の寝床。
そこがこれからどんな場所になるのか。
今の幸一郎には、まだどうでもよかった。
足を伸ばして眠れる。
今夜は、それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
真神幸一郎が眠っている間にも、世界は動いていた。
最も早く、そして大きく動き始めたのはアメリカだった。
ハワイでは《資源庫》から供給される原油を処理するため、新たな製油施設と貯蔵設備の建設計画が動き始めていた。港湾設備、パイプライン、輸送網。年間600万バレルという新たな供給源を前提として、必要となるインフラが次々と洗い出されていく。
だが、動いていたのはエネルギー関係者だけではない。
国防総省もまた、ハワイの価値を計算し直していた。
年間600万バレル。
世界全体の石油消費量から見れば、決して巨大な数字ではない。
だが、その供給源が太平洋の中央にあるアメリカ領内に存在し、最低30年間の供給まで保証されているとなれば、意味はまるで違う。
燃料備蓄施設の増強。港湾機能の拡張。航空基地の再整備。補給、整備、輸送能力の強化。
もともと太平洋戦略の要衝だったハワイを、さらに強力な兵站拠点へと変える計画が動き始めた。
その中には、第七艦隊に関わる計画も含まれていた。
明日からすべての艦艇がハワイを母港にするような話ではない。補給や整備機能の一部を移し、寄港する艦艇を増やし、関連部隊を再配置する。必要であれば指揮機能についても段階的に見直していく。
一つ一つは小さな変化だった。
だが、それらが積み重なった先に何があるのかは、誰の目にも明らかだった。
ハワイは、アメリカ海軍にとって従来以上に重要な拠点へ変わろうとしていた。
そして将来、第七艦隊の本拠地と呼ばれることになるかもしれない場所へと、その姿を変え始めていた。
◇ ◇ ◇
その動きを見ている国があった。
中国、北京。
会議室の大型画面には、太平洋を中心とした地図と、ハワイ周辺で始まった複数の計画が表示されていた。
製油施設の建設。原油貯蔵設備の増設。港湾能力の拡張。軍用燃料備蓄の見直し。そして、アメリカ軍の再配置。
個別に見れば、どれも不自然なものではない。
だが、一枚の地図の上へ重ねれば意味は変わる。
「……要塞化するつもりか」
「正確には、巨大な兵站拠点化でしょう」
年間600万バレルという数字そのものが、中国を脅かしているわけではない。
問題は場所だった。
太平洋の中央。アメリカ領内。そして、最低30年間にわたって一定量の供給が保証された資源供給源。
「第七艦隊は?」
「現時点で全面的な移転計画は確認されていません。ただし、補給、整備、関連部隊の一部をハワイへ移す案は検討されています」
「……始まったばかりでこれか」
低い声が漏れる。
だが、次に表示された資料を前に、室内はさらに静かになった。
「問題は、ハワイだけではありません」
太平洋地域に存在するダンジョンが地図上へ表示されていく。
「ハワイで可能だった、という事実です」
その言葉の意味を理解できない者は、この部屋にはいなかった。
完全踏破されたダンジョンは、ただ攻略を終えた場所ではない。
《資源庫》へ変更できる可能性がある。
そして、選択できる資源は石油だけではなかった。
「次に真神幸一郎がどこへ行くか……」
「それが問題です」
日本。
東南アジア。
オーストラリア。
地図上には、いくつものダンジョンが存在している。
そして、その中の一つで視線が止まった。
台湾。
「台湾にも、あるな」
「あります」
「WHAの優先順位は?」
「公開されていません」
「真神本人は?」
「次の攻略先について、公表していません」
再び沈黙が落ちる。
軍事衛星を増やしても分からない。
諜報員を送り込んでも、本人がまだ決めていないことまでは探れない。
真神幸一郎が次にどのダンジョンへ向かうのか。
最終的には、本人が決める。
「……接触は?」
「現時点では推奨しません」
即答だった。
「理由は?」
「日本の事例があります」
「…………」
それだけで十分だった。
圧力をかける。義務を求める。行動を制限する。
その結果、真神幸一郎がどうするのか。
攻撃してくるわけではない。
報復してくるとも限らない。
もっと単純だった。
来なくなる。
「なら、どうする」
「少なくとも――」
担当者は地図を見た。
「彼が中国を『行きたくない場所』と判断する理由を、こちらから増やすべきではありません」
反論はなかった。
やがて、一人が再び台湾へ視線を向ける。
「台湾のダンジョンについては?」
「監視を継続します」
「介入は?」
僅かな間があった。
「……するな」
「しかし、もし《資源庫》が――」
「だからこそだ」
男は地図上の小さな島を見つめた。
「今は、余計なことをするな」
◇ ◇ ◇
アメリカは、ハワイを中心とした新たな太平洋戦略を描き始めていた。
中国は、その先にある次の《資源庫》を警戒し始めていた。
日本では、真神幸一郎との関係をどうするべきか、今なお答えの出ない議論が続いている。
世界中の政府が、一人の男の次の行動を考えていた。
その頃。
「…………すぅ」
真神幸一郎は、キングサイズのベッドの真ん中で眠っていた。
誰にも邪魔されず。
足もはみ出さず。
ぐっすりと。




