第3章 第74話 システムが権限を与えた日…
ハワイダンジョン《資源庫》、本稼働開始当日。
予定された時刻が近づくにつれ、関係者たちはそれぞれの持ち場へと散っていった。第1階層では、アメリカ側の技術者たちが12か所の採取設備接続領域に分かれ、最後の確認を進めている。
試験採取はすでに成功していた。この先に原油が存在することも、接続した設備から実際に採取できることも確認されている。だが、今日から始まるのは試験ではない。
年間予定産出量600万バレル。最低稼働保証期間30年。
ハワイダンジョンの《資源庫》が、本格的な資源供給を開始する最初の日だった。
WHAの職員も各所に配置され、アメリカ政府の担当者たちも状況を見守っている。レイチェルとセルマも、第1階層にいた。
「地上側、準備完了しました」
「第1から第12系統まで、異常ありません」
報告が次々と上がる。レイチェルが時計を確認した。
「開始5分前ね」
「はい」
セルマも手元の端末へ目を落とす。ここまで来れば、残る作業は一つだけだった。そして、それだけは第1階層にいる誰にもできない。
「真神さんから連絡は?」
「ありません」
「そう」
レイチェルは特に気にした様子もなく答えた。連絡がないのなら予定通りなのだろう。
今頃、彼はここにはいない。
◇ ◇ ◇
ハワイダンジョン、480F。最下層。
そこに立っている人間は、真神幸一郎ただ一人だった。
「……便利だよな、これ」
幸一郎は背後の転送ポータルを振り返った。第1階層から480もの階層を踏破してきたわけではない。完全踏破者だけが利用できる管理者用ポータルを使えば、一度で最下層まで移動できる。
もっとも、そのポータルを利用できるのは幸一郎だけだ。レイチェルもセルマも同行できない。第1階層の設備側は彼女たちに任せ、幸一郎は一人でここまで来ていた。
目の前に管理画面を呼び出す。
《資源庫――石油》
《年間予定産出量――6,000,000バレル》
《最低稼働保証期間――30年》
《第2階層以降――石油貯留領域》
《第1階層――採取設備接続領域》
《稼働開始日――未設定》
表示内容は、これまで何度も確認したものと変わらない。幸一郎は時刻を見る。まだ少し早い。
「…………」
やることがない。もう一度時計を見る。当然ながら、大して進んでいなかった。
「こういう待ち時間が一番長いんだよな……」
その頃、第1階層では多くの人間が緊張した面持ちで設備を見守り、地上にも関係者が待機している。アメリカ政府もWHAも、そして生中継を見守る世界中の人々も、この瞬間を待っていた。
だが、480Fにいる本人には関係がない。
やがて指定された時刻になった。
「じゃ、始めますか」
稼働開始日を今日の日付に設定する。確認画面が表示され、幸一郎は迷わず決定を押した。
《確認しました》
《資源庫――稼働開始》
《第2階層以降への資源供給を開始します》
《第1階層――採取可能》
「…………」
待つ。
新しい表示は出ない。
「……終わり?」
もう少し何かあるのかと思ったが、本当にそれだけらしい。
「まあ、終わりか」
◇ ◇ ◇
第1階層。
「来ました!」
技術者の声が響いた。直後、計器の数値が動き始める。
「第1系統、圧力上昇!」
「第2、流入確認!」
「第3も来ています!」
一つ、また一つ。12か所の設備が次々と反応を示し、それまで静かだった現場が一気に慌ただしくなった。
「押しましたね」
「はい」
レイチェルの言葉にセルマが答える。480Fにいる幸一郎が開始操作を行った。それ以外に、この変化が起こる理由はない。
「全12系統、採取開始!」
「地上側への送出、正常!」
「流量、安定しています!」
報告が出揃うと、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。誰かが大きく息を吐き、別の誰かが隣の人間と握手を交わす。まだ確認すべきことは残っている。それでも、成功した。
年間600万バレル。最低30年。
これまで契約書と管理画面の上に存在していた数字が、現実のものとして動き始めた。
レイチェルもようやく僅かに表情を緩める。
「本稼働開始を確認。予定通り、次の工程へ移行してください」
各所から返事が上がり、セルマも記録を更新する。
その時、第1階層の一角にある管理者用転送ポータルが淡い光を放った。
「あ」
誰かが気づく。光が収まり、その中から幸一郎が姿を現した。
「出ました?」
第一声が、それだった。
「出ています。全12系統、正常稼働中です」
「おー。ちゃんと出るんだな」
幸一郎が動き続ける設備へ視線を向けた、その直後だった。
拍手が聞こえた。
「……ん?」
最初は一人だった。だが、すぐに二人目が続いた。アメリカの技術者たちが手を叩き始め、WHAの職員、政府関係者、設備の設置に携わった作業員たちも続く。
誰かが命じたわけではない。自然に広がった拍手は、やがて第1階層を満たす大きな音となり、歓声まで混ざり始めた。
「…………」
幸一郎が立ち止まる。笑っている人がいる。親指を立てている人がいる。大きく手を振っている人もいる。
「……俺?」
「他に誰がいるんですか」
セルマに言われ、幸一郎はもう一度周囲を見回した。
大勢の人間から見られることには慣れていた。好奇の視線も、疑いの視線も、恐れる視線も、何かを求める視線も、嫌というほど知っている。
だが、こういう目で見られた記憶はあまりなかった。
誰も責めていない。何かを要求しているわけでもない。ただ、自分たちが取り組んできた仕事が成功したことを喜び、その仕事を終えて戻ってきた自分へ拍手を送っている。
「…………」
幸一郎はしばらくその光景を眺め、やがて、すっと右手を上げた。
開いた掌を人々へ向ける。それだけで歓声が一段大きくなった。
「うわ……」
思わず声が漏れる。それでも手は下ろさず、周囲を見渡したあと、開いていた手をゆっくりと握った。
拳を掲げる。
歓声が爆発した。
「……マジか」
隣でセルマが僅かに笑った。
「人気者ですね」
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
「では、どういうつもりだったのですか?」
「なんとなく?」
「そうですか」
セルマはそれ以上追及しなかった。少し離れた場所では、レイチェルも拍手を送りながらその様子を見ている。
人が多いのは、今でも苦手だ。勝手に期待されるのも、勝手に役割を決められるのも好きではない。
けれど、こうして同じ結果を喜ぶために集まるのなら。
「……こういうのは、悪くないか」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、別に」
幸一郎は掲げた拳を下ろした。
◇ ◇ ◇
その光景は、世界へ向けて生中継されていた。
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
関係部署の担当者たちは、ハワイから送られてくる映像を食い入るように見つめていた。
『全12系統、採取開始!』
「Yes!」
「全系統か?」
「全12系統です!」
「地上側は?」
「正常! 安定しています!」
「Yes!」
いくつもの拳が上がる。年間600万バレル、最低30年。数字としては何度も確認し、試験採取にも成功している。それでも、本当に動き始めた瞬間の意味は違った。握手を交わす者、隣の人間と肩を叩き合う者。部屋はしばし歓喜に包まれた。
だが、その喜びが一段落しかけたところで、画面の中の転送ポータルが光った。
「彼が戻ってきた」
真神幸一郎が姿を現す。現地スタッフから拍手が起こり、それが技術者、WHA職員、政府関係者へと広がっていく。
幸一郎が立ち止まった。
なぜかホワイトハウス側まで静かになった。
「……どうする?」
「分からん」
画面の中で、幸一郎が周囲を見回す。そして右手を上げた。
「お?」
開いた掌が、ゆっくりと握られていく。
拳になった。
「Yes!」
一人が立ち上がった。
「Yes! Yes! Yes!」
「Yes!」
今度はホワイトハウス側で、いくつもの拳が突き上がった。
「やった!」
「彼が応えたぞ!」
「自分からだ!」
「分かってる、見てた!」
「……君たち、石油が出た時より喜んでないか?」
「石油は出ると分かっていました!」
「こっちは分かってなかったんです!」
「それもそうか……?」
「そうです!」
もちろん、幸一郎がアメリカへの忠誠を示したわけではない。アメリカを特別扱いしたわけでもない。政治的な意味など、本人は何も考えていないだろう。
それでも十分だった。
「広報、この映像は?」
「使いたいです」
「WHAに確認を取れ。勝手に使うなよ」
「もちろんです」
「『アメリカとの絆』だの『歴史的友好』だの、余計な意味も付けるな」
「分かっています」
そこだけは慎重だった。真神幸一郎に、本人が望んでもいない意味や役割を勝手に背負わせる。それが何を招くのかについては、すでに十分すぎるほどの先例がある。
「ただの拍手だ。ただの拍手に、彼が応えてくれた。それでいい」
「ああ」
仕事を頼み、本人が引き受ける。本人にしかできない仕事をしてもらい、それ以外はこちらが引き受ける。成功すれば、一緒に喜ぶ。
「この関係は大事にしよう」
その言葉には、誰も異論を挟まなかった。
◇ ◇ ◇
そして、同じ生中継を見ながら、歓声とは無縁の静けさに包まれている場所があった。
日本、JHA東京本部。
大型モニターには、拳を掲げた真神幸一郎と、それに応えるハワイの人々が映し出されていた。
「……あんなこと、するんだな」
誰かが呟いた。
「人付き合いが嫌いなんだと思ってた」
「俺もだ」
短い会話が途切れる。
集団を嫌う。組織を嫌う。社会との関わりを嫌う。だから扱いが難しい人間なのだと、そう考えていた者はこの部屋にもいた。
だが、画面の中にいる幸一郎は、大勢から向けられた拍手を拒んでいない。歓声から逃げてもいない。それどころか、自分から応えていた。
「……人が嫌いだったわけじゃないのか」
その言葉に、返事はなかった。
アメリカの技術者が笑っている。WHAの職員が拍手している。レイチェル・アシュフォードがいて、セルマ・リンドベルグがいる。そして、その中心に真神幸一郎がいる。
もし、堺東ダンジョンが待機状態のままだったなら。もし、あの場所にも《資源庫》が存在していたなら。もし、それを選択するところまで話を進められていたなら。
あそこで作業していたのは、日本の技術者だったかもしれない。採取開始を見守っていたのはJHAの職員だったかもしれない。そして、真神幸一郎へ拍手を送っていたのは、自分たちだったかもしれない。
「……いや。同じにはならなかったかもしれないな」
誰も理由を尋ねなかった。
WHAと日本では、最初から立っていた場所が違う。
17歳だった真神幸一郎の訴えを、社会は拾えなかった。疑われ、追い詰められ、居場所を失い、彼が姿を消してから半年後になって、ようやく冤罪だったことが明らかになった。
家族だけの問題ではない。学校だけの問題でもない。警察もまた、その中にいた。
「……マイナスからだったんだよな。俺たちは」
重い言葉だったが、反論はなかった。
WHAは何もないところから信用を積むことができた。日本は違う。まず失った信用を取り戻すところから始めなければならなかった。
それなのに、その途中で再び彼の能力をどう社会へ組み込むかを考え、責任を定義し、制度の中へ収めようとした。必要な議論ではあった。だが、必要であることと、真神幸一郎がそれをどう受け取るかは別の話だった。
「……もし、堺東だったら」
誰かが呟いた。
日の丸の付いたヘルメット。日本の技術者。JHAの職員。その人々に囲まれ、拳を掲げる真神幸一郎。
あり得たかもしれない光景だった。
◇ ◇ ◇
同じ問いは、永田町にも落ちていた。
『現地では真神氏への大きな拍手が続いています!』
テレビでは、先ほどの映像が繰り返されている。
「……参加できない人じゃなかったんだな」
一人の議員が呟いた。
「俺たちは、あの人をどう社会に参加させるかって話ばかりしてた」
能力に応じた責任、公共の利益、ダンジョン資源の活用、制度への参加。どれも国家として考えなければならないことであり、制度そのものが不要だったわけでもない。これから第二、第三の真神幸一郎が現れない保証など、どこにもないのだから。
「場所を用意して、本人にしかできないことを頼む。それ以外はこちらで引き受ける。終わったら、ありがとうと言う」
「……それだけでよかったのか?」
「それだけじゃないだろう。我々は、その前に信用されるところから始めなきゃならなかった」
「……冤罪か」
「ああ」
信用は、法律を一本作れば生まれるものではない。まして、一度失った信用ならなおさらだった。
画面には再び、拍手を受けた幸一郎が手を上げ、開いた掌を拳へ変える瞬間が映し出される。
「それでも……もっと違う接し方は、できたんだろうな」
「……ああ」
もし、堺東だったなら。
日本の技術者がいて、JHAの職員がいて、政府の担当者がいて、その中心に真神幸一郎がいたのかもしれない。拍手を受け、右手を上げ、拳を掲げる。そんな光景が日本にもあったのかもしれない。
だが、それは《資源庫》一つを失ったことで消えた未来ではない。
もっとずっと前から積み重ねてきたものの、その先にある光景だった。
◇ ◇ ◇
「で」
そんなことを世界各地で考えられているとは知らず、幸一郎はレイチェルを見た。
「俺の仕事、これで終わりですよね?」
「今回の稼働開始については」
「よし」
即答だった。レイチェルが小さく息を吐く。
「選択と稼働開始は、真神さんにしかできません。ここから先の管理、運用、アメリカ側との調整はWHAの仕事です」
「じゃあ、本当に終わりですね」
「はい」
幸一郎の表情が明らかに明るくなる。
「飯行きません?」
「……切り替えが早すぎませんか?」
「仕事終わったんですよ?」
「私はまだ終わっていません」
「大変ですね」
「誰のせいだと思っているんですか?」
「ダンジョン?」
「……間違ってはいませんね」
レイチェルが僅かに眉間を押さえる。幸一郎はセルマを見る。
「セルマは?」
「同行します」
「じゃあレイチェルさんも行きましょうよ」
「ですから、私はまだ――」
セルマが端末を確認した。
「次の予定まで、多少の余裕はあります」
「セルマ」
「事実です」
レイチェルは数秒黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「昼食だけです」
「よし。何食います?」
「もう決めている顔ですね」
「肉」
セルマが幸一郎を見る。
「ステーキですか?」
「せっかくだから」
「昨日も肉を召し上がっていましたよね」
「昨日の肉と今日の肉は別物ですよ」
「同じ牛肉では?」
「セルマ、それ言ったら駄目なやつ」
世界で初めて本格稼働を始めた《資源庫》を背に、世界中がその意味を考え続ける中。
当の本人は、今日の昼食を考えていた。




