第1章 第8話 足止め
台帳による本人確認が終わっても、幸一郎の退場手続きはすぐには終わらなかった。
八年前のハンターカードは既に規格が廃止されている。現行システムへの登録とカードの再発行に時間がかかる――受付の職員は、そう説明した。
嘘ではない。ただ、それだけが理由でもなかった。
世界中が探している人類初のダンジョン踏破者が、何の前触れもなく受付に現れたのである。しかも、六甲山ダンジョンの外には、その本人が出てくる瞬間を撮ろうと大勢の報道陣が待ち構えている。
現場だけで処理できる話ではなかった。
「少々お時間をいただくことになります。よろしければ、その間にシャワーをお使いになりますか?」
職員の提案に、幸一郎は自分の姿を見下ろした。
長く伸びた髪は刃物で適当に切ってきたため不揃いで、髭も伸び放題。衣服は何度も修繕され、元が何だったのか分からないほど魔物の皮や布が継ぎ足されている。
「使っていいのか?」
「もちろんです。ハンター専用の設備がありますので。お着替えもこちらで用意します」
幸一郎に断る理由はなかった。
職員に案内され、シャワールームへ向かう。その姿が廊下の奥へ消えた直後、六甲山ダンジョン管理事務所の空気が一変した。
「本部に繋いで。最優先」
連絡を受けたJHA本部でも、最初は報告の意味を理解するまでに数秒を要した。
――真神幸一郎、生存確認。
――六甲山ダンジョンから帰還。
――本人確認済み。現在、六甲山管理事務所内。
報告は瞬く間に上層部へ上がり、そこからさらにJHAを所管する未生物対策省へと伝達された。
鐘が鳴ってから一週間。政府もJHAも、真神幸一郎がいつ、どのような形で地上へ戻るのかを掴めずにいた。その男が今、六甲山の管理事務所でハンターカードの再発行を待っている。
しかも、誰も彼がダンジョンから出てきたところを見ていない。
出口にはJHA職員と警備員が常駐し、その外側には報道陣がひしめいている。監視映像を確認しても、それらしい人物はどこにも映っていなかった。
「では、どうやって管理事務所まで来た?」
当然の疑問だったが、答えられる者はいなかった。
JHA本部から現場へ最初に出された指示は、単純なものだった。
本人を刺激しないこと。事情聴取をしないこと。警察や家族、報道機関から接触の要請があっても、本人の意思を確認するまで取り次がないこと。
八年前の事件については、既に本部でも洗い直されている。
十七歳で痴漢事件の容疑者となり、学校を去り、家族とも離れ、そのまま六甲山ダンジョンへ入った。半年後に冤罪が確定した時には既に未帰還。そこから八年間、消息は途絶えていた。
その人間に対して、帰還直後から国家機関が質問攻めにする。それがどのような結果を招くか分からないほど、JHAも無神経ではなかった。
その頃、当の幸一郎はシャワーの下にいた。
温かい湯が頭から流れ落ちる。
ダンジョンでも水浴びはしていた。火を起こせば湯を作ることもできた。それでも、蛇口を捻るだけで温水が好きなだけ出てくる環境は、あまりにも久しぶりだった。
最初に髪を洗った時、流れ落ちる泡は酷い色をしていた。
もう一度洗う。それでも気になり、三度目を洗う。
身体も同じだった。髭まで念入りに洗い、ようやく人間らしい気分になってくる。
幸一郎はシャワーを止め、曇った鏡を手で拭った。
そこに映った男を、しばらく眺める。
伸びた髭。不揃いな髪。頬には傷があり、身体にはそれ以上の数の古傷が残っている。十七歳だった頃の面影がどれほど残っているのか、本人にも分からなかった。
「……ひでえな」
八年ぶりに鏡を見た感想は、それだけだった。
一方、未生物対策省では緊急の対応会議が招集されていた。
世界初のダンジョン踏破者が帰還した。
その情報はまだ、六甲山の外で待ち構えている報道陣には知られていない。
彼らは今もカメラをダンジョン出口へ向け、真神幸一郎が姿を現す、その瞬間を待ち続けていた。




