第1章 第7話 旧世代…
白い光を抜けた幸一郎が最初に感じたのは、久しく忘れていた地上の空気だった。
土と草の匂い。木々の間を抜ける風。遠くから聞こえてくる鳥の声。ダンジョン深層の濃密な魔力に慣れきった身体には、そのどれもが妙に薄く、頼りなく感じられた。
だが、それを懐かしむ暇はなかった。
人の声がする。それも、一人や二人ではない。
六甲山ダンジョンの出口周辺には、既に大勢の報道関係者が集まっていた。テレビ局の中継車が並び、規制線の向こうではカメラを抱えた記者たちが、今か今かと入口を見つめている。
鐘が鳴ってから一週間。世界初のダンジョン踏破者である真神幸一郎は、いまだ姿を現していない――そんな内容を伝える記者の声が、幸一郎の耳にも届いていた。
最奥部で食料を消費しながら地上へ戻るかどうか悩んでいた本人としては、随分と大事になってしまったものだった。
幸一郎はしばらく人の群れを眺めた後、小さく息を吐いた。
まともに姿を見せて出ていけば、どうなるかは想像するまでもない。
幸一郎の姿が、ゆらりと揺らいだ。
《イリュージョン》。
深層で身につけた魔法の一つだった。光を屈折させて姿を周囲へ溶け込ませ、同時に気配も希薄にする。深層では獲物から身を隠すために使っていた程度のものだが、地上の人間相手なら十分すぎた。
透明になった幸一郎は、そのまま報道陣の脇を通り抜けた。
「真神氏がいつ地上へ戻るのか、JHAからも現在まで正式な発表はありません」
そんな声をすぐ横で聞きながら、幸一郎は六甲山ダンジョンの入口管理事務所へ向かった。
建物には記憶にない増築が施され、設備も随分と様変わりしていた。八年前の幸一郎がそれを知る由もなかったが、ダンジョン利用者の増加に伴い、管理施設も何度か改修されていた。
幸一郎は人目のない場所まで入ると、イリュージョンを解除した。
案内板を頼りに退場受付へ向かう。外の騒ぎとは対照的に、事務所内部は比較的静かだった。もっとも、職員たちの多くが落ち着かない様子で、時折窓の外へ視線を向けていた。
受付の女性職員は、幸一郎を見ると普段通りの調子で声をかけた。
「お疲れさまでした。退場手続きですね。ハンターカードをお願いします」
幸一郎は荷物を探り、長年持ち歩いていた一枚のカードを差し出した。
女性職員はそれを受け取り、すぐに首を傾げた。
見たことのない規格だった。
端末の読み取り機に通しても反応しない。何度か試した後、近くにいた年配の職員が呼ばれたが、彼もカードを見るなり表情を曇らせた。
「……これ、旧規格じゃないか」
しかも、一世代前という程度ではないらしい。現在使用されているカードとは仕様そのものが違い、現行の端末では情報を読み取ることができなかった。
職員はカードを裏返しながら、幸一郎に尋ねた。
「失礼ですが、お名前を確認してもよろしいですか?」
「真神幸一郎」
その瞬間、受付の空気が止まった。
女性職員が顔を上げた。年配の職員も幸一郎を見る。近くで作業していた別の職員まで、聞き覚えのある名前に反応して手を止めた。
外では、一週間にわたってその名前が繰り返し報道されている。
そして今、その名前の本人を名乗る男が、古びた装備と見たこともないほど古いハンターカードを持って、何食わぬ顔で退場受付に立っていた。
「……真神、幸一郎さん?」
「ああ」
確認され、幸一郎は当然のように答えた。
女性職員の顔から血の気が引いた。
騒ぎになりかけたところを、年配の職員がどうにか制した。まず本人確認と退場記録の照合が必要だった。
ところが、名前を現行システムへ入力しても入場記録が見つからない。
幸一郎本人は、確かにこの六甲山ダンジョンから入ったと言う。しかし、いつ入ったのかと尋ねても「覚えていない」としか答えない。
カードの発行番号を調べた職員が、ようやく原因に気づいた。
そのカードが使われていたのは、現在の入退場管理システムが導入されるよりも前だった。
現行データベースをいくら検索しても、出てくるはずがない。
事務所の奥から旧記録が引っ張り出された。電子化された過去データだけでは足りず、最後には倉庫に保管されていた紙の台帳まで持ち出されることになった。
既に事務所内では、誰もが薄々答えを理解していた。
それでも、記録による確認が必要だった。
何冊もの台帳が捲られ、やがて一人の職員の手が止まった。
そこには確かに名前が残っていた。
真神幸一郎。
入場日は、八年前。
退場を示す記録はなく、その横には後から赤字で追記された二文字があった。
――未帰還。
誰も声を出さなかった。
幸一郎だけが、開かれた台帳をしばらく見つめていた。
八年。
自分がどれほど長くダンジョンにいたのか、途中から数えることをやめていた彼にとって、それは初めて突きつけられた具体的な数字だった。
その頃、事務所の外では、何も知らない報道陣がダンジョン入口へカメラを向け続けていた。
世界初の踏破者はいまだ姿を現さない。
少なくとも、彼らはそう信じていた。




