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第1章 第6話 8年ぶりの帰還

鐘の音が、六甲山ダンジョンの最奥に響き渡った。

それまで聞いたことのない音だった。

澄んでいて、それでいて腹の底まで震わせるような、奇妙な鐘の音。


俺は、足元に転がる巨大な骸を見下ろしながら、顔を上げた。

つい先ほどまで、この広間を埋め尽くすほどの巨体で暴れ回っていた、このダンジョンの最後の主。

何本もの腕は力なく地面に投げ出され、胸の中心を貫いていた巨大な核は、既に光を失っている。

死んでいる。

間違いなく。


「……なんだ?」


また何か出てくるのか。

反射的に武器へ手を伸ばしかけ――やめた。

敵意がない。

殺気もない。


魔力の流れにも異常は感じられなかった。

代わりに、視界の中央へ淡い文字が浮かび上がった。


《六甲山ダンジョン――最終試練の突破を確認》


《踏破者を認証します》


そこまではいい。


問題は、その次だった。

鐘が、もう一度鳴った。


今度はダンジョンの中だけではない。

どこまでも、どこまでも遠くへ響いていくような、不思議な感覚があった。


そして。


『――六甲山ダンジョンにて、最終エリアへの挑戦を確認しました』


声が響いた。

俺は眉を寄せた。

嫌な予感がした。


『ハンター、真神幸一郎が、試練を突破したことを、ここに祝福します』





「…………」

待て。

今、何と言った。



『なお、六甲山ダンジョンは、待機状態に移行します』



声が消えた。

静寂が戻ってくる。

俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

やがて、ゆっくりと片手で顔を覆った。



「……名前」



言った。

間違いなく言った。

真神幸一郎。

俺の名前だ。


「なんで名前まで言うんだよ……」


誰に向けた文句なのか、自分でも分からない。

返事もない。

ただ、倒したばかりの化け物の骸が、少しずつ光の粒へと変わって消えていく。

俺はその場に座り込んだ。

長かった。

途中から日付を数えることをやめた俺には、どれほどの時間が経ったのか、もう正確には分からない。

その間、俺は人間のいる場所を避け続けた。

人の声が聞こえれば道を変えた。

他のハンターらしき気配を感じれば、さらに奥へ潜った。

そうしてようやく、人間とは滅多に遭遇しない場所まで来た。

そのはずだった。

なのに最後の最後で。


「……余計なことしやがって」


あの声がどこまで届いたのかは分からない。

だが、少なくとも俺一人に聞かせるためのものではなかった。

生きている。

六甲山ダンジョンにいる。

そして、最奥まで辿り着いた。

ご丁寧に、その全部を名前付きで知らせてくれたらしい。



「…………」



頭が痛くなってきた。

魔物に殴られた時とは、まったく違う種類の痛みだった。

俺は仰向けに寝転がった。

遥か頭上には、岩とも空ともつかない黒い天井が広がっている。

このまま、しばらくここにいるか。

そんな考えが、本気で頭をよぎった。

その時、新たな表示が視界へ浮かんだ。


《踏破者権限の付与を開始します》


《六甲山ダンジョン:管理権限を一部開放》


《通常攻略状態を終了》


《待機状態へ移行》


《待機状態における機能について――》


「……ん?」

俺は身体を起こした。

流れていく文字を目で追う。

一行。

二行。

三行。

途中から、眉間に寄っていた皺が少しずつ消えていった。

最後まで読み終える。


「…………なるほど」


そういうことか。

もう一度、最初から内容を確認する。

読み違いではない。

待機状態。

地上の人間がこの言葉をどう受け取るのかは知らないが――少なくとも、単なる閉鎖ではないらしい。


「まあ……今はいいか」


表示を閉じた。

今すぐどうこうする必要もない。

必要になれば、その時に考えればいい。

それよりも問題なのは。

広間の中央。


先ほどまで何もなかった場所に、白い光の柱が立っていた。

見ただけで分かる。

出口だ。

かつて、あれほど探し求めたもの。

何度も夢に見たもの。

地上へ戻る道。

俺は立ち上がった。

光の前まで歩く。

そして、止まった。


「…………」


白い光が静かに揺らめいている。

一歩踏み出せばいい。

それだけだ。


「…………」


踏み出さない。

もう一度、光を見る。

それから後ろを振り返った。

誰もいない。

魔物の骸も、既に消えていた。

静かだった。


俺が長い時間をかけて、ようやく慣れた静けさだった。

対して、あの向こうには人間がいる。

家族。

警察。

学校。

俺を知っていた人間。

俺を知らない人間。

そして、たった今、俺の名前を聞いた人間たち。

冤罪を証明する。

いつかは、そんなことばかり考えていた。

地上へ戻って、全部間違いだったと証明してやる。

そう思っていた時期もある。

だが。


「……今さらな」


何を証明する。

誰に証明する。

そもそも、今がいつなのかすら分からない。

外の世界がどうなっているのかも知らない。

俺がいなくなった後、あの事件がどうなったのかも。


知りたいかと聞かれれば――。


「…………」


少し考えた。


「別に」


我ながら、酷い答えだった。


それでも足は動かなかった。

竜と戦った。

巨人とも戦った。


名前すら知らない化け物に、何度殺されかけたか分からない。


それでも、ここまで来た。


今なら、このダンジョンの中で俺を殺せるものなど、そう多くはないだろう。

なのに。

目の前の白い光へ足を踏み入れることの方が、妙に億劫だった。

「……明日にするか」

呟いてから、気づく。

明日。

久しぶりに使った気がする。

俺は小さく鼻で笑った。

そして、本当にその日は帰らなかった。



翌日。

俺は光の前に立っていた。


「…………」


白い光が、昨日とまったく同じように揺らめいている。

一歩踏み出せば、地上だ。

「…………」

踵を返した。

まだ保存していた肉が残っている。

腐らせるのも勿体ない。

それを食ってからでも遅くはない。



さらに翌日。

「…………」

光を見る。

座る。

しばらく考える。

立ち上がる。

帰る。

いや、地上ではない。

広間の隅に作った寝床へ、だ。

急ぐ理由はない。

これだけ長い間戻らなかったのだ。

二日や三日増えたところで、何が変わる。

何日目だったか。

俺は焚き火の前で、最後の干し肉を齧っていた。

最終エリアには、もう魔物が湧かない。

あれほど濃かった魔力も穏やかになり、耳障りな咆哮も、地面を伝ってくる足音もない。

静かだった。

悪くない。

むしろ、今までで一番住みやすい。


「…………ここで暮らすか?」


口に出してみる。

案外、本気だった。

水はある。


食料は――。

手の中を見る。

最後の一切れだった。


「…………」


食べる。

なくなった。


「…………」


光を見る。

白い光は、相変わらずそこにある。

まるで、好きにしろと言わんばかりに。

なんとなく腹が立った。


結局、一週間ほど経った。

正確に七日かどうかは知らない。

途中から数えるのも面倒になった。

ただ、食料が尽きた。

それだけだった。

俺は荷物をまとめ、立ち上がった。

刃こぼれだらけの剣。

魔物の皮を無理やり縫い合わせた袋。

何度修繕したか分からない服。

地上へ帰還する英雄というものがどんな姿をしているべきなのかは知らないが、少なくとも俺ではないだろう。

光の前に立つ。


「…………」


やはり、帰りたくない。

一週間経っても、その気持ちはまったく変わらなかった。

むしろ、このまま一ヶ月くらい粘ってやろうかとも思う。

だが、腹は減る。


人間は食わなければ生きていけない。

――俺がまだ人間なら、だが。

「……飯、どうすっかな」

長い時間を経て、地上へ戻る理由が、これだった。

冤罪を晴らすためでもない。

家族に会うためでもない。

世界に何かを訴えるためでもない。

ただ、食料が尽きた。

我ながら、締まらない。

俺は一度だけ、後ろを振り返った。

暗闇。

長い間、俺が生きてきた場所。

怖くはない。

むしろ、こちらの方がよほど落ち着く。

そして前を見る。

光。

その向こうには、人間がいる。

竜と戦った。

巨人とも戦った。

名前すら知らない化け物にも、何度も殺されかけた。

それでも、ここまで来た。

だが。


「……人間か」


思わず、ため息が漏れた。

今さら魔物程度なら、どうとでもなる。

しかし、人間となると話は別だ。

面倒くさい。

とにかく、それに尽きる。


「……帰りたくねえな」


一週間前と、まったく同じ言葉だった。

結局、答えは変わらなかった。

それでも腹は減る。

俺は諦めて、白い光へ足を踏み入れた。

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