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序章 第5話 変わらない者たち

かつて主人公を糾弾した側の目線です



義姉がそのニュースを知ったのは、職場の休憩室でだった。


同僚がスマートフォンを見ながら、「これ、真神幸一郎って、もしかして……」

と呟いた瞬間、心臓が跳ねた。だが顔には出さなかった。

出す必要などない、と自分に言い聞かせた。


 ――だから、なに。


スマートフォンでニュースを確認しながら、頭の中では、既に理屈が組み上がっていた。


あの時の自分の主張は、間違っていない。痴漢という行為がどれほど女性を傷つけるか、

社会がどれほど加害者に甘いか、義姉はSNSでもずっとそのことを訴え続けてきた。

あの子が結果的に冤罪だったとしても、それは個別の事案の話であって、

自分が声を上げてきた"構造"そのものの正しさとは、また別の話だ。


 ――結果論で、私の主張全部が否定されるわけじゃない。


そう結論づけると、義姉は休憩室でコーヒーを一口飲み、

いつも通りの顔でスマートフォンをしまった。


ただ、その日の帰り道、ふと信号待ちで足を止めた時、

通行人の視線が、いつもより自分に集まっている気がした。


気のせいだ、と思うことにした。




義妹は、ニュースを見た瞬間、真っ先にSNSのアプリを閉じた。


何日か、誰とも連絡を取らずに部屋に閉じこもった。

友人からの「これって、まさか」というメッセージにも、既読をつけずに放置した。


頭の中では、ずっと同じ言葉が繰り返されていた。


 ――私は、何もしていない。


直接、義兄に罵声を浴びせたことはない。

ただ、家の中で、あの子と顔を合わせないように、視線を合わせないように、

廊下ですれ違う時も気配を消すように、それだけを徹底していた。


それの、何がいけなかったというのか。


むしろ自分は、あの空気の中で、精一杯静かに耐えていた側だ。

誰も自分の苦しさになど気づいていない。

義姉のように声高に何かを主張したわけでもなく、

父のように叱りつけたわけでもない。

ただ、息を潜めていただけの自分にまで、責任が及ぶというのなら――それこそ理不尽ではないか。


そう思うと、少しだけ、涙が出た。

自分がひどく気の毒な人間に思えて、義妹はしばらく、その感傷に浸っていた。




実父がそのニュースを知ったのは、会社のデスクだった。


同僚たちがざわつく声を、遠くに聞きながら、父はしばらく画面を見つめていた。


――仕方なかったんだ。


あの時、家に帰れば、義母も義姉も、あの子を疑う空気で満ちていた。

世間も、連日あの子を犯罪者として報じていた。

そんな中で、自分だけが「信じる」などと言えるはずがなかった。

父親として、家庭の秩序を保つためには、ああするしかなかった。

あれは、判断であって、悪意ではなかった。


父は、自分の中でそう結論づけると、静かにスマートフォンをポケットにしまい、

何事もなかったかのように仕事に戻ろうとした。


だが、指先だけが、妙に冷たかった。


あの日、怒鳴りつけた自分の声が、ふと耳の奥に蘇った。


――お前が潔白だと言うなら、なぜ誰も味方してくれない。周りに合わせられないお前が悪い。


あれは、確かに自分の声だった。世間に合わせて放った、その一言だった。


今更それを取り消したところで、あの日、あの言葉を浴びせられた人間の中から、

それが消えるわけではない。



 *


校長がそのニュースを目にしたのは、校長室の、いつもと変わらぬ執務机の上でだった。

テレビをつけっぱなしにしていた校長室で、その名前を聞いた瞬間、湯呑みを持つ手が止まった。


 ――あの生徒か。


当時、保護者会や近隣住民への説明に追われながら、

「学校の秩序を守るため」という言葉を、何度も口にした記憶がある。

あの子を退学に追い込んだのではない、

あくまで「本人が自主的に判断した」という体裁を、最後まで崩さなかったはずだった。

書類の上では、そうなっている。


 ――学校としては、適切に対応した。


 校長は、その結論を、今もまだ手放していなかった。

ただ、テレビの中で語られる「ダンジョン初クリアの英雄」という言葉と、

当時の記憶とが、うまく結びつかず、

頭のどこかで小さな違和感だけが、いつまでも消えずに残っていた。




教頭は、当時のことをよく覚えていた。むしろ、覚えすぎていた。


 あの時、退学の手続きを直接進めたのは、自分だった。

校長の意向、学年主任の要請、保護者からの苦情の板挟みになりながら、

「これが一番、丸く収まる方法だ」と判断し、粛々と書類を整えたのは、

他でもない自分自身だった。


ニュースを見た瞬間、真っ先に浮かんだのは、罪悪感ではなかった。


 ――責任の所在は、どこになるのだ…。


自分は、あくまで実務を処理しただけだ。

決定したのは校長であり、声を上げたのは学年主任であり、苦情を入れたのは保護者たちだ。

自分は、その調整役に過ぎなかった。そう頭の中で整理をつけながら、

教頭は、誰にも聞かれていないのに、小さく独り言のように呟いていた。


「……私は、指示に従っただけだ」




学年主任は、当時、最も強硬に「あの生徒を学校に置いておくべきではない」と主張していた人間だった。


ニュースを知った日、同僚たちの視線が、心なしか自分に集まっている気がして、

学年主任は一日中、職員室で俯いたまま過ごした。


弁明の言葉なら、いくつも用意できた。あの時は他の生徒たちへの影響を第一に考えた。

保護者たちの不安の声も無視できなかった。

学校という組織を守るためには、あの判断以外になかった――

そのどれもが、当時は確かに、自分にとって正当な理由に思えていた。


だが今、その理由のどれ一つとして、あの子が奪われた八年間を償えるものではないことにも、

薄々気づき始めていた。気づいてはいた。

だが、それを認めることと、実際に何かをすることの間には、まだ大きな隔たりがあった。


学年主任は、結局その日、誰にも何も言わないまま、いつも通りに定時で職員室を後にした。



その週刊誌編集部には、今、重苦しい沈黙が漂っていた。


八年前、まだ「冤罪」という結論が出るより前、この編集部はいち早く、当時未成年だった少年の実名と顔写真を、卒業アルバムから引き伸ばした画質のまま誌面に載せていた。


『少年の素顔――「大人しそうに見えて、実は」同級生証言』


そんな見出しで、周辺取材と称した憶測記事を書き連ねていたのも、この編集部だった。

当時、それは「特落ちしないための当然の取材」であり、社内では誰も、それを問題視していなかった。


だが今、その事実が、静かに重くのしかかり始めていた。


「……あの記事、まだアーカイブに残ってますよね」


若手の記者が、恐る恐る、デスクに尋ねた。


「消せるものなら消したいが、もう魚拓が何百件も取られてる。今更消しても、火に油だ」


デスクは、苦い顔で答えた。


「当時の執筆者、まだうちにいますよね」


「……いる。今、有給扱いにしてる。何かあった時に、矢面に立たせるわけにはいかんからな」


部屋の空気が、さらに重くなった。


ダンジョンクリアした英雄の実名を、冤罪確定前に暴いた雑誌。

ネットでは既に、当時の記事のスクリーンショットが掘り起こされ、拡散され始めていた。


『これ書いた記者、今どうしてんの』

『出版社、謝罪はよ』

『この雑誌、不買運動きてもおかしくない』


編集長は、社長室に呼ばれた際の会話を、まだ頭の中で反芻していた。


「――何か、報復措置のようなものは、来ると思うか」


「分かりません。相手は……我々が想像もつかない力を持っています」


その一言で、社長室は、しばらく誰も口を開かなくなった。


誰も、具体的に何が起こるかを予測できなかった。だからこそ、その分からなさが、何より恐ろしかった。


 *


義姉も、義妹も、父も、校長も、教頭も、学年主任も、そして名前も出ていないあの週刊誌の記者も――誰一人として、まだ気づいていなかった。


彼の前では何一つ終わっていないのだと…


そして、それを本当の意味で理解している者は、この時点では、まだ一人もいなかった。

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