序章 第4話 蒸し返される過去
鐘が鳴ってから、まだ一時間と経っていなかった。
それなのに、ネットはすでに祭騒ぎである。
『真神幸一郎って誰?』
『名前強すぎん?真の神で幸せの一郎て』
『どこの誰だよ、聞いたことねえ』
『絶対偽名だろこれ』
『いや草生えてる場合か、人類史上初のダンジョン踏破だぞ』
『六甲て地元やん、誰か知り合いおらんの』
最初のうちは、そんな軽口ばかりが並んでいた。
誰もがこの名前の主が何者であるかを知らず、
だからこそ好き勝手に囃し立てていた。
まとめサイトは既に「速報:謎の男、世界初のダンジョン踏破」という見出しを立て、
ニュース番組は号外のような扱いでテロップを回し続けていた。
空気が変わり始めたのは、投稿から二時間ほど経った頃だった。
匿名掲示板の片隅に、ひとつの書き込みが投下された。
『これって、あの事件の……?』
それだけだった。だが、そこにぶら下げられたリンクが、全てを変えた。
八年前の報道記事。とある高校生が痴漢の容疑で逮捕され、後に冤罪だったと判明した事件。
行方不明となり、半年後に六甲山ダンジョンへの入場記録だけが見つかったという、
当時それなりに話題になった――そして、その後は忘れ去られていった一件。
その記事に書かれていた名前と、鐘が告げた名前が、一致していた。
最初は半信半疑の反応が並んだ。
『さすがにこれは草も生えん』
『同姓同名じゃないの』
『いやいや、六甲ダンジョン、未帰還、この二つが一致してる時点で偶然とは思えん』
だが、誰かが当時の裁判資料や報道アーカイブを次々と掘り起こし始めると、
掲示板の空気は急速に色を失っていく。もう、誰も笑っていなかった。
『……待って、これマジの話か』
『8年間、ずっとダンジョンの中にいたってこと?』
『冤罪だって発表される前に、行方不明になってるんだよな』
『それで見つかった記録が「未帰還」……』
誰かが、当時の報道映像のスクリーンショットを貼った。
パネルを掲げて糾弾する司会者。
訳知り顔で「家庭に問題があったのでは」と語るコメンテーター。
実名こそ伏せられていたが、それでも判別できる範囲で晒された、
当時の教師や同級生とされる人物のコメント。
冤罪と判明した後も、ろくに訂正報道される事がなかった番組のリスト。
スレッドの空気は、いつしか最初の祭り騒ぎとは別のものに変わっていた。
軽口は目に見えて減り、代わりに、重く沈むような書き込みが積み重なっていった。
『これ、笑えるようなことじゃないだろ』
『8年間、何を思ってあそこにいたんだろうな』
『俺たちが忘れてただけで、本人にとっては一日も終わってなかったんじゃないか』
『ダンジョンをクリアした人間を、この国は一度、社会的に殺しかけてたわけだ』
その一言だけが、既視感のように、あらゆる媒体に転載され、拡散され続けた。
同じ頃、とあるワイドショーの控室では、
放送開始三十分前だというのに、台本が完全に宙に浮いていた。
「――ちょっと、これ本当にうちで扱って大丈夫なんですか」
ADの一人が、震える声でスマートフォンの画面をプロデューサーに突きつけた。
そこには、八年前、この番組が特集を組んで「加害少年の家庭環境」を語っていた
当時の映像のキャプチャが、まとめサイトに転載されている画面が映っていた。
司会者は、控室の隅で椅子に座り込んだまま、
台本を握る手を小刻みに震わせていた。
顔から血の気が引き、何度も口を開きかけては、言葉にならないまま閉じている。
「……あの時のコメンテーター、今日も出演予定ですよね」
誰かがそう言った瞬間、部屋の空気が凍りついた。
当時、訳知り顔で「家庭のしつけの問題」と語っていたコメンテーターは、控室の奥で、
青ざめた顔のままスマートフォンを握りしめていた。
画面には、自分自身が写り込んだ八年前の映像のキャプチャと、
それに対する無数のコメントが流れ続けている。
「……僕、あの時、何て言いましたっけ」
誰にともなく漏らしたその呟きに、答える者はいなかった。手が、震えていた。
プロデューサーの携帯が鳴ったのは、そんな時だった。局の上層部――報道担当役員からの直電だった。
「今すぐ差し替えろとは言わない。だが、今日の放送内容次第では、かなり拙い事になる。分かってるな」
その一言だけを告げて、電話は切れた。プロデューサーは、
しばらく画面を見つめたまま動けずにいた。
番組の存続そのものが、今夜の三十分にかかっている。
そう告げられて、冷静でいられる人間などいなかった。
「……今からでも、謝罪コメントの準備を」
「間に合うわけないでしょう、生放送まであと少ししかないのに」
怒鳴り合うような声が、控室のあちこちで上がり始めていた。
同じ頃、警察庁でも、静かな、しかし確実な動きが始まっていた。
八年前の事件――冤罪と断定されながらも、行方不明者の捜索という形で辛うじて継続されていた案件が、この日を境に、最優先の扱いへと格上げされた。当時の担当者への聴取、記録の再確認、そして何より、「本人との接触」に向けた体制構築が、上層部の指示のもと、急遽決定された。
本人への直接謝罪はいまだ行われていないのだ。
誰も口には出さなかったが、その空気の底には、はっきりとした恐れがあった。
かつて自分たちが踏みにじった相手が、今や世界で唯一、ダンジョンを踏破した人間になっている。
その事実の重さを、この時点で正確に理解していた者は、まだ多くはなかった。
一方、ハンター協会本部では、まったく異なる温度の動きがあった。
各国の攻略記録を管理する国際的なハンター協会(WHA)の一部門では、
すでに真神幸一郎という名前が浮上した瞬間から、迎え入れる準備が静かに進められていた。
「本人がいつ、どのような形で地上に姿を現しても構わないように、最優先で対応を」
現場責任者のその一言で、専用の応対チーム、警護、そして各種手続きの簡略化が、異例の速さで整えられていく。
世間やマスコミがどれほど騒ごうと、彼らにとって重要なのはただ一点――世界で最初にダンジョンを踏破した人間を、可能な限り丁重に、そして可能な限り早く迎え入れることだけだった。




