第3章 第71話 大きすぎる一滴
翌日、幸一郎はレイチェル、セルマとともに、アメリカ側との最終協議の席に着いていた。
ハワイダンジョンの《資源庫》から産出される石油については、すでに大枠の合意が成立している。
アメリカ70%、WHA20%、そして真神幸一郎10%。
これは年間産出量が判明する以前、《資源庫》で石油を選択するための前提として決められたものだった。
その後、実際に石油が選択され、年間予定産出量600万バレル、最低稼働保証期間30年という数字が明らかになった。さらに第1階層には12基の採取設備が形成され、試験採取にも成功している。
もはや議題は、石油が本当に取り出せるのかではない。
どう取り出し、どう運び、どう扱い、その利益をどう分配するのか。
実務の話だった。
原油の品質、価格の算定基準、採取設備から地上施設への接続、輸送、維持管理費用の負担。専門的な話が次々と進められていく。
幸一郎も席には着いていたが、その大半をレイチェルに任せていた。
「その条件であれば、WHAとして異論はありません。ただし価格算定については、短期間の市場変動をそのまま反映する方式ではなく、一定期間の平均価格を基準とすることを提案します」
「合理的でしょう。我々としても、短期的な変動によって支払額が大きく上下する方式は望んでいません」
双方の担当者が資料を確認し、細かな条件を詰めていく。
幸一郎には、半分も分からなかった。
だから口を挟まない。
分からないことを分かったふりで決めるより、分かる人間に任せればいい。そのためにレイチェルがいる。
やがて話題は、利益配分へ移った。
「続いて、年間産出量600万バレルを前提とした分配について確認します」
資料が切り替わる。
アメリカ、年間420万バレル相当。
WHA、年間120万バレル相当。
真神幸一郎、年間60万バレル相当。
事前に合意された7対2対1を、そのまま年間産出量へ当てはめた数字である。
もちろん、幸一郎のところへ毎年60万バレルの原油が届けられるわけではない。採取と流通はアメリカ側が中心となって行い、契約で定めた基準価格から必要経費などを処理した上で、それぞれの持ち分に応じた金額が支払われる。
その試算額も、資料には記載されていた。
「…………」
幸一郎の視線が止まった。
一度見る。
もう一度見る。
「レイチェルさん」
「何でしょう?」
「これ、俺の分?」
「はい」
「年間?」
「はい」
「毎年?」
「原油価格によって変動しますが、最低稼働保証期間中、現在の条件が継続するならそうなります」
「…………」
再び数字を見る。
今度はセルマを見る。
「多くない?」
「一般的な個人所得と比較するのであれば、極めて大きな金額かと」
「ですよね」
10%という割合だけを聞いていた時には、それほど実感がなかった。
だが、年間600万バレルという数字が入り、それが金額に置き換えられると話が違う。
幸一郎は少し考え、資料をテーブルへ置いた。
「俺、1%でいいっすよ」
会議室が静かになった。
レイチェルが幸一郎を見る。セルマも見る。
向かい側に座るアメリカ側の出席者たちも、彼へ視線を向けていた。
「……真神さん」
「はい」
「確認します。現在、あなたに割り当てられているのは10%です」
「はい」
「それを1%へ変更したいと?」
「そうです」
「残りの9%は?」
「WHAに乗せてください」
今度は、レイチェルが黙った。
アメリカ側の70%には触れない。幸一郎自身の10%を1%へ減らし、その9%をWHAへ移す。
最終的な比率は、アメリカ70%、WHA29%、幸一郎1%となる。
「理由を伺っても?」
「1%でも十分なんでしょう?」
「十分かどうかを決めるのは真神さんですが、少なくとも生活に困るような金額ではありません」
「じゃあ、それでいいです」
「9%は、決して小さな権利ではありません」
「それも今、数字見て分かりました」
「その上で?」
「はい」
幸一郎は特に迷っていなかった。
「静かに寝れて、温かくて美味い飯食えて、好きな時に出掛けられるでしょう?」
「はい」
「ネットもあるし」
「ございます」
「昨日は釣りにも行けたし」
「行かれましたね」
「美人の秘書までいる」
「……真神さん」
セルマがゆっくりと幸一郎へ顔を向けた。
その時、向かい側に座っていたアメリカ側の出席者の一人が、わずかに俯いた。
肩が小さく揺れている。
幸一郎は気づかなかったが、レイチェルは気づいていた。
アメリカ側の代表団にも、日本語を理解できる者は何人かいた。正式な協議である以上、発言は通訳を介して共有されているが、全員が英訳を待たなければ会話を理解できないわけではない。
通訳が、ほんの一瞬だけ間を置いた。
それでも仕事は仕事である。
幸一郎の発言が英語へ訳されると、今度は別の出席者まで口元を緩めた。
「何です?」
「私を契約条件に含めないでください」
「含めてないですよ」
「今、含まれていたように聞こえました」
「環境の話です」
「そういうことにしておきます」
通訳の口元まで、わずかに緩んだ。
レイチェルは何も言わなかったが、その表情にも普段より少しだけ柔らかなものが混じっている。
「それで、他に何が要るのかなって」
幸一郎だけは、至って真面目だった。
「これだけあれば、十分でしょう」
「……なるほど」
「それに、これから石油を管理するのはWHAですよね?」
「アメリカ側との役割分担になりますが、WHAも継続的に関与します」
「契約の管理も?」
「はい」
「アメリカとの交渉も?」
「必要なものについては」
「俺の金の管理とかも、頼めばやってくれる?」
レイチェルが隣へ視線を向けた。
「セルマ」
「対応いたします」
「ほら」
幸一郎は満足そうに頷いた。
「だったら、実際に仕事するところが多く取ればいいでしょう。WHAがちゃんと儲かってた方が、俺も楽できるし」
その言葉も通訳によって英語へ訳されていく。
先ほどまで笑いを堪えていたアメリカ側の出席者たちから、今度は笑みが消えた。
単に金銭感覚がないわけではない。
9%がどれほどの権利になるのかを理解した上で、自分には必要ないと判断している。そして、その分を今後も管理と交渉を担う組織へ回した方が、自分にとっても都合がいいと考えている。
少なくとも、彼の中では筋が通っていた。
レイチェルも、それを理解した。
「つまりこれは、WHAへの贈与ではなく、今後の管理と運用を含めた契約条件そのものを変更したい、ということでよろしいですか?」
「そんな感じです」
「そこは明確にしてください」
「あ、はい。それでお願いします」
小さな笑いが漏れた。
今度は幸一郎にも聞こえた。
「……何か変なこと言いました?」
アメリカ側の出席者の一人が、隣の者と視線を合わせる。
そして、通訳が口を開くより先に、日本語で答えた。
「いいえ。非常に興味深い交渉だと思いまして」
幸一郎がそちらを見る。
「日本語喋れるんですか」
「少しだけ」
「先に言ってくださいよ」
「申し訳ありません」
そう答えた本人は、まったく申し訳なさそうではなかった。
それを見たレイチェルが、小さく息を漏らす。
「真神さん。この場では、誰も日本語を理解しないと思わない方がよろしいかと」
「……覚えておきます」
「そうなさってください」
セルマが静かに付け加えた。
「特に、秘書について発言される際には」
「まだ言う?」
「はい」
今度は、会議室のあちこちからはっきりと笑いが漏れた。
年間600万バレル、最低30年間。
国家と国際組織、そして世界でも類を見ないハンターが、その巨大な権益について話し合う場である。
それでも、そこに座っているのは人間だった。
しばらくして笑いが収まると、レイチェルが資料へ視線を戻した。
「では、改めて」
会議室の空気が切り替わる。
「WHAより、利益配分について契約条件の変更を提案します」
アメリカ70%。
WHA20%。
真神幸一郎10%。
そこからアメリカ側の取り分には触れず、WHAと幸一郎の間で9%を移す。アメリカ側に直接の不利益はなくとも、三者間で結ばれる契約である以上、正式な修正と確認が必要になる。
協議は再開された。
幸一郎が一言で済ませた提案は、数字となり、条文となり、契約上の権利と義務へ置き換えられていく。
レイチェルはその過程で、何度も幸一郎本人へ確認を取った。
変更後の利益配分。
契約期間。
価格の算定方法。
WHAが担う管理と交渉。
そして、一度締結すれば原則としてその条件が継続すること。
幸一郎は説明を聞き、一つずつ了承していった。
やがて、修正された契約案が三者の前へ戻ってくる。
アメリカ――70%。
WHA――29%。
真神幸一郎――1%。
幸一郎は自分の名前の横に記された数字を見た。
「これでも多いんだよな……」
「多いです」
セルマが答えた。
「じゃあいいか」
「はい」
それだけだった。
どこで眠るか。何を食べるか。どこへ行くか。誰と関わるか。そして、何を自分でやり、何を他人に任せるのか。
幸一郎が欲しかったものは、数字の大きさではなかった。
それを自分で決められることだった。
こうして、ハワイダンジョン《資源庫》を巡る利益配分は、当初の7対2対1から――7対2.9対0.1へ。
誰かに奪われたのではない。
真神幸一郎自身が選んだ契約として、書き換えられることになった。




