第3章 第70話 今日は良い釣り日和
ハワイダンジョンの調査は、その後も続けられていた。
WHAの調査班に加え、アメリカ側から石油関連の専門家も入り、第1階層に形成された12基の採取設備について確認が進められている。
見た目だけなら、それは床から伸びた太い配管のようなものだった。だが、人間側の設備を接続するための規格らしき構造を備えており、専門家たちの確認を経て、そのうちの1基を使った試験採取が行われた。
結果は、あまりにも呆気なかった。
接続した配管の先から、本当に原油が出てきたのである。
採取されたのは分析用の少量だけだった。それ以上を取り出そうとしたところで流出は止まり、同時にシステム表示が現れた。
《試験採取を確認しました》
《試験採取可能量の上限に達しました》
《継続採取には稼働開始日の設定が必要です》
《稼働開始日――未設定》
本格的な採取には稼働開始日の設定が必要。それ以外については、拍子抜けするほど単純だった。
もちろん、原油を取り出せば終わりではない。地上側には貯蔵設備も必要になる。輸送方法も決めなければならず、品質の分析や精製先との調整も必要になる。それらはすべて、人間側の仕事だった。
一方、《資源庫》側が要求していることは単純である。
第1階層に用意された設備へ接続する。それだけで、第2階層以降へ供給され続ける原油を地上へ取り出せるらしい。
その報告を受けた幸一郎は、しばらく資料を眺めてからセルマへ尋ねた。
「じゃあ、ホース繋いだら、そのまま石油が出てくる?」
「……かなり簡略化されていますが、おおむねその認識で問題ないかと」
「便利だな」
半年近くかけてハワイダンジョンを攻略した男の感想としては、あまりにも軽かった。
「アシュフォード会長は、引き続きアメリカ側との調整を行っておられます。採取設備についても、双方の専門家による確認を継続する予定です」
「俺は?」
「現時点で、真神さんにお願いすることはありません」
「じゃあ暇ですね」
「はい」
セルマはあっさりと肯定した。
ハワイダンジョンは攻略した。《資源庫》も選んだ。堺東ダンジョンも、求められていた通り再び攻略可能な状態へ戻してきた。石油については専門家が調べており、アメリカとの面倒な交渉はレイチェルが引き受けている。
本当に、幸一郎が今すぐやらなければならないことは何もなかった。
「……何しよう」
「何かしたいことはございますか?」
「そうですねえ」
幸一郎は少し考えた。
せっかくハワイにいるのだから、観光でもいい。買い物でもいいし、海へ出てもいい。選択肢はいくらでもある。
「釣りでもしようかな」
「承知しました。船を手配いたします」
「いやいや、そんな大げさなのじゃなくて。釣り堀とかないです?」
「……釣り堀、ですか?」
「釣れないより、釣れる方が楽しいでしょう」
セルマは一瞬だけ黙った。
「お調べします」
「お願いします」
世界中がハワイの地下から出てくる石油について頭を抱えている頃、その原因を作った本人は、ハワイの釣り堀を探していた。
◇ ◇ ◇
幸一郎の希望に合う場所は、ちゃんと見つかった。
観光客でも気軽に利用でき、道具も一式借りられる。大海原へ船を出すような華やかさはないが、幸一郎が求めていたのは最初からこちらだった。
借りた竿を手に、幸一郎は水面へ糸を垂らす。その隣にはセルマが座っていたが、彼女の手に竿はない。
「セルマさん、やらないんです?」
「私は勤務中ですので」
「俺が釣りしてるの見てるのが仕事?」
「現状では、そうなります」
「……暇じゃない?」
「問題ありません」
幸一郎は水面へ視線を戻した。セルマも静かにその横へ座っている。
会話は続かなかった。
だが、別に続ける必要もなかった。
誰かが何かを尋ねてくることもない。何かを決めろと迫られることもない。ただ水面を眺め、浮きが動くのを待つ。
しばらくして、その浮きが沈んだ。
「来た」
竿を上げると思ったより強い抵抗が返ってきた。何度か魚に引かれながら、ようやく水面から引き上げる。
「釣れた」
「おめでとうございます」
「結構楽しいな、これ」
「それは何よりです」
魚を入れ、もう一度仕掛けを投げる。そこで幸一郎は、変わらず隣に座っているセルマを見た。
「……やっぱりセルマさんもやりません?」
「ですが、私は勤務中ですので」
「秘書が釣りしちゃいけない規則とかあります?」
「確認したことはありません」
「なら大丈夫でしょう」
もう一本、竿を借りてくる。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
「釣り、やったことあります?」
「ありません」
「俺もほとんどないです」
「では、条件は同じですね」
「そうですね」
二人並んで糸を垂らした。
数分後、先に動いたのはセルマの浮きだった。
「真神さん」
「はい?」
「これは」
「あ、来てます。上げて」
セルマが竿を上げる。少し手間取りながらも、ほどなく一匹の魚が水面から姿を現した。
「釣れました」
「釣れましたね」
セルマは魚を見て、それから幸一郎を見る。
「もう一度やっても?」
「どうぞどうぞ」
◇ ◇ ◇
そんな二人の様子を、少し離れた場所から眺めている者たちがいた。
黒いスーツにサングラス。ハワイダンジョンから帰還した幸一郎を迎え、その周囲を固めていたWHAの警護担当者たちである。
もっとも、今は幸一郎を物々しく取り囲んではいない。本人がそうしたものを好まないことは、すでに彼らも理解していた。視界を邪魔せず、声も届かない程度の距離を取りながら、それでも何かあれば即座に動ける位置へ自然に散っている。
警護そのものは真面目に行われていた。近づく人間、不自然な動き、周囲を通る車両。複数の視線が絶えずそれらを追っている。
ただ、その合間に釣り堀の様子もしっかり見ていた。
「また釣れたな」
「秘書の方か?」
「ああ」
セルマが2匹目を釣り上げていた。
「初めてなんだろ?」
「らしいな」
「上手いじゃないか」
さらにしばらくして、3匹目。
そして4匹目。
一方の幸一郎は、まだ2匹だった。
「ダブルスコア」
「言うなよ」
「本人には聞こえないだろ」
「どうかな」
その時だった。
遠くにいた幸一郎が、ふと顔を上げた。
サングラス越しの視線と、幸一郎の視線が重なる。
「…………」
警護担当者たちが黙った。
数秒後、幸一郎は何事もなかったように水面へ視線を戻した。
「……聞こえてると思うか?」
「分からん」
「聞こえてる顔だったぞ」
「黙って仕事しよう」
「そうだな」
再び、彼らは周囲へ視線を巡らせる。
警護対象は、ハワイダンジョンを単独で完全踏破し、世界中を騒がせている男である。
その男は今、釣り堀で秘書に負けていた。
少なくとも今日に限っては、彼らの仕事は平和だった。そして彼らもまた、その平和を少しだけ楽しんでいた。
◇ ◇ ◇
「これ、持って帰れるんです?」
帰る頃になって、幸一郎は二人で釣った魚を見ながら尋ねた。
「確認いたします」
セルマがスタッフと話し、ほどなくして戻ってくる。
「可能だそうです」
「食える?」
「はい」
「じゃあ、今日の晩飯にしません?」
「承知しました」
持ち帰った魚は、夕食になる頃には見事な料理へ姿を変えていた。
幸一郎は目の前に並べられた皿を眺める。
「……すごいことになってるな」
「調理担当の方にお願いしました」
「俺たちが釣った魚ですよね?」
「はい」
一口食べる。
「美味い」
「はい」
「自分で釣ったからかな」
「調理された方の腕も大きいかと」
「そこは夢を持たせてくださいよ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
幸一郎はもう一口食べた。
やはり美味かった。
「また行ってもいいな」
「では、機会があれば」
「次は負けませんよ」
「勝負だったのですか?」
「今決めました」
「そうですか」
セルマはそれ以上何も言わず、静かに魚を口へ運んだ。
ダンジョンには入らなかった。鐘も鳴らさなかった。誰かから何かを求められることもなかった。
釣りをして、釣った魚を食べた。
ただそれだけの一日だった。
幸一郎にとっては、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
「明日の予定ですが」
食事を終えたところで、セルマが口を開いた。
「何かありました?」
「アシュフォード会長より連絡がありました。アメリカ側との協議が、最終段階に入ったそうです」
「まとまりそうです?」
「はい。ただ、最終的な契約については、真神さんにも出席していただきたいとのことです」
「俺も?」
「真神さんご自身の取り分を含む契約ですので」
「ああ……」
それなら仕方がない。
「交渉事、苦手なんですけど」
「アシュフォード会長も承知されています」
「なら、ほとんどレイチェルさんに任せていい?」
「そのために会長がいらっしゃいます」
「じゃあ出ます」
「ありがとうございます」
話はそれで終わった。
幸一郎は部屋へ戻り、その日のうちに眠りについた。
一方、彼が眠っている間にも、人間の側は動いていた。
アメリカでは採取された原油の分析が進められ、ハワイでは設備接続の検討が続いている。さらに、まだ本格採取すら始まっていないにもかかわらず、複数の石油タンカーがハワイへ向けて動き始めていた。
《稼働開始日――未設定》
その表示は、まだ変わっていない。
年間600万バレル。最低稼働保証期間30年。
アメリカも、WHAも、すでにその先を見据えて準備を始めていた。
そして翌日。
その利益をどう分けるのか。
事前に合意された条件を最終的な契約へ落とし込むため、アメリカ、WHA、そして真神幸一郎を交えた話し合いが行われることになっていた。




