第3章 第68話 情報量が多すぎる
鐘が鳴り終わってから、しばらく誰も口を開かなかった。
石油。
年間予定産出量、600万バレル。
最低稼働保証期間、30年。
稼働開始日、未設定。
つい先ほど世界へ告げられた内容を、この会議室にいる全員が聞いていた。
「……600万バレル?」
アメリカ側の一人が、確認するように口にした。
「そう聞こえました」
レイチェル・アシュフォードは平然と答えた。
「この数字は、事前に把握されていましたか?」
「いいえ」
「最低30年という期間も?」
「今、皆さんと同時に知りました」
「…………」
再び沈黙が落ちた。
この場で事前に話し合われていたのは、ハワイダンジョンで石油が選択された場合の取り扱いについてだった。
管理、安全保障、採取、輸送、環境への影響。そしてアメリカ、WHA、真神幸一郎、それぞれの権利と利益をどう整理するのか。
だが、その前提となる産出量も稼働期間も分からなかった。
だからこそ、石油が選ばれた場合に備え、まず大枠だけを決めようとしていた。
そして今、その前提を大きく左右する数字が、当事者への事前通知すらなく世界中へ公開された。
「年間600万バレル……」
資料へ数字を書き込んでいた一人が呟く。
「日量換算で、およそ1万6400バレル。世界市場そのものを左右する規模ではありません」
「問題は量だけではないでしょう」
「ええ」
別の男が頷いた。
「最低30年間、この産出量が保証される。しかも通常の油田ではない」
その通りだった。
埋蔵量という概念が通用するのかさえ分からない。
そもそも鐘が告げたのは、30年後に枯渇するという情報ではない。
最低稼働保証期間。
少なくとも30年間は、この産出能力が維持される。
分かっているのは、それだけだった。
「アシュフォード会長。稼働開始日が未設定というのは?」
「文字通りと考えるべきでしょう」
「誰が設定するのです?」
「現時点では回答できません」
「真神氏が?」
「その可能性はあります」
レイチェルはそこで一度言葉を切った。
「ですが、確認されていないことを事実として扱うべきではありません」
アメリカ側から反論はなかった。
彼らとて、推測だけで国家の方針を決めるつもりはない。
今必要なのは、分からないことを分かったつもりになることではなく、何が分かっていないのかを整理することだった。
その時、レイチェルの端末に新たな連絡が入った。
「失礼」
画面を確認する。
ハワイダンジョンへ入ったWHAの現地調査班からだった。
石油が選択されたことで、待機状態にあったハワイダンジョンは《資源庫》として再構成されている。
その変化を確認するため、WHAは第1階層へ調査班を入れていた。
送られてきた報告に目を通していたレイチェルの指が止まる。
「……これは」
「何かありましたか?」
「第1階層に変化が確認されました」
室内の視線が集まった。
「採取設備と思われるものが、12基形成されています」
「12基?」
「はい」
レイチェルは送られてきた画像を確認する。
第1階層。
かつて魔物が存在していた空間の一部が、明らかに以前とは異なる形へ変化していた。
そこに並んでいるのは、12基の設備。
大掛かりな掘削装置ではない。
床から伸びた太い管の先端に、それぞれ外部設備との接続を前提としたような接続口が設けられている。
「調査班の暫定報告では、外部の配管を接続するための設備ではないか、と」
「配管を?」
「ええ」
「それだけですか?」
「現時点では断定できません。規格、圧力、原油の性状、必要となる設備。確認すべきことはいくらでもあります」
レイチェルは資料へ視線を落とした。
幸一郎が撮影したシステム画面には、こう記されていた。
第2階層以降を石油貯留領域へ変更。
第1階層に採取設備接続領域を形成。
資源は第2階層以降へ継続的に供給され、第1階層より採取可能。
そして今、その第1階層に12基の接続設備が実際に形成されている。
「……つまり、第2階層以降に存在する石油を、第1階層から取り出せる?」
「システム表示と現地の状況を合わせれば、その可能性が高いでしょう」
「油井を掘削する必要は?」
「分かりません」
レイチェルは即答した。
「ですが少なくとも、ダンジョン内部を掘削して石油を探す必要はなさそうです」
また一つ、これまでの前提が崩れた。
油田を探す必要がない。
地下へ向けて井戸を掘り進める必要もないかもしれない。
第2階層以降へ供給される石油を、第1階層に用意された12基の設備から取り出す。
もし外部の配管を接続するだけでそれが可能なら、人間側に必要なのは、その先だった。
貯蔵。
処理。
輸送。
そして精製施設への接続。
「接続口から直接、地上設備へ送れる可能性は?」
「調査班もそれを確認しています」
「サンプルの採取は?」
「まだ許可していません」
レイチェルの返答に、何人かが顔を上げた。
「理由を伺っても?」
「現時点で、どの操作が《稼働開始》に該当するのか分からないからです」
「……なるほど」
稼働開始日は未設定。
その状態で採取口から石油を取り出そうとすることが、単なる調査になるのか。それとも資源庫の本稼働を意味するのか。
分からない以上、触らない。
その判断に異論を唱える者はいなかった。
「これは……一度、持ち帰った方がよさそうですね」
やがてアメリカ側の一人が口にした。
「私も、それがよろしいかと」
レイチェルも同意した。
数時間前とは前提が違いすぎる。
年間600万バレル。
最低30年間の稼働保証。
稼働開始日は未設定。
第2階層以降に形成された石油貯留領域。
そして第1階層に並ぶ、12基の採取設備。
その場で詳細を決められるような話ではなくなっていた。
アメリカ側は、エネルギー、設備、輸送、環境、安全保障。それぞれの分野から専門家を集め、改めて検討する必要がある。
WHAも同じだった。
現地調査班から情報を集め、幸一郎が持ち帰ったシステム表示と照合し、《資源庫》がどのような設備なのかを把握しなければならない。
「では、本日の協議内容はいったん双方で持ち帰る。それでよろしいでしょうか」
「異存ありません」
「こちらでも政府内で整理します」
「WHAでも情報を精査します。その上で改めて協議しましょう」
双方の意見は一致した。
幸い、今すぐ結論を出さなければならない理由もない。
稼働開始日は、まだ設定されていない。
石油は逃げない。
少なくとも、システムの表示を信じる限りは。
会談はいったん終了となった。
アメリカ側の人間たちが資料をまとめ、席を立ち始める。
レイチェルも端末を閉じようとした。
その時だった。
鐘が鳴った。
「…………」
全員の動きが止まる。
今日は、よく鳴る。
『――堺東ダンジョンの待機状態が解除されました』
レイチェルが顔を上げた。
『再初期化を確認しました』
『堺東ダンジョンを攻略可能状態へ移行しました』
席を立っていた者たちも、そのまま動きを止めている。
『各階層へモンスターを再配置します』
『堺東ダンジョンへの入場が可能となりました』
鐘が終わった。
今度の沈黙は、先ほどとは少し種類が違った。
「堺東というのは……」
アメリカ側の一人が口を開く。
「日本のダンジョンでしたね?」
「ええ」
「確か、真神氏が完全攻略した?」
「そうです」
「何が起きたのでしょう?」
「さあ」
レイチェルにも分からない。
少なくとも、鐘が告げた内容だけでは。
彼女は端末を取り出した。
「少々失礼します」
セルマへ連絡する。
『アシュフォード会長』
「セルマ。真神さんは?」
一瞬だけ間があった。
『現在、日本です』
「…………」
レイチェルは数秒、黙った。
「何をしに?」
『堺東ダンジョンの開放を求めている方々の要望を叶えてくる、と』
「……そう」
今度は、先ほどより少し長い沈黙になった。
「それで、彼は?」
『すでに用事を終えられました。こちらへ戻られる予定です』
「…………そう」
レイチェルは通話を終えた。
顔を上げる。
まだ部屋に残っていたアメリカ側の人間たちが、揃ってこちらを見ていた。
「何か分かりましたか?」
レイチェルは少しだけ考えた。
「WHAでも、持ち帰って確認することが一つ増えたようです」
「…………」
アメリカは、年間600万バレルと最低30年、そして12基の採取設備という情報を持ち帰る。
WHAは、それに加えて堺東で起きた事象まで調べることになった。
数時間前には存在しなかった問題が、次々と増えていく。
そして、その中心にいる本人は。
すでに堺東での用事まで終え、帰路についていた。




