第2章 第60話 その揺り籠には、誰も入っていない…
セルマ・リンドベルグは、端末に表示された日本のニュースを一つずつ確認していた。
第二回の有識者会議から、およそ2か月。
日本では先日、第三回となる有識者会議が開かれていた。
だが、今回もすべての論点について意見がまとまることはなかった。
緊急時にどこまで協力を求めることができるのか。資格停止を含む行政上の措置に、どこまで実効性を持たせることができるのか。国外で活動する場合の扱いをどうするのか。特別職国家公務員という新たな立場を設けることが適切なのか。
そして、制度の対象となり得る本人から直接意見を聞くという課題も、残されたままだった。
三度にわたって議論を重ねても、専門家の意見を一つにまとめることはできなかった。
もっとも、それは会議そのものが失敗したという意味ではない。
合意できた点、意見が分かれた点、制度化する上でなお検討を要する点。それらは整理され、有識者会議としての意見とともに政府へ提出されている。
そして日本政府は、その結果を待っていたかのように次の段階へ動き始めていた。
『高位ハンターに関する新制度、政府が法制化へ』
『有識者会議の意見を踏まえ、関係省庁が法案作成を本格化』
『“真神法”今国会提出も視野』
セルマは記事を順番に開き、必要な情報だけを拾っていく。
結論が出なかったから、さらに会議を重ねる。
そうはならなかった。
三度の会議で示された意見を参考とし、最終的な判断は政治が引き取る。残された論点についても法案作成と並行して調整を続ける方針が示されていた。
有識者会議で繰り返し指摘された、本人の意思を尊重する必要性についても、制度へ反映する方向で検討が進められている。
すべてが決まったわけではない。
それでも、法案は確実に形を持ち始めていた。
セルマは次の記事を開く。
『完全攻略済みダンジョンの一般開放を求める声、さらに拡大』
こちらの動きも、この2か月で大きくなっている。
対象となっているのは六甲山と堺東。
完全攻略後に待機状態へ移行したことで、二つのダンジョンには一般のハンターが立ち入れない状態が続いていた。
活動場所を失ったハンター。素材を扱っていた業者。それを利用する企業。そして周辺地域の事業者。
完全攻略によって安全になったのであれば、再び利用できるようにするべきだという声がある一方、待機状態を解除した後の安全性は確認されていないとして、慎重な対応を求める声もある。
セルマは関連記事にも一通り目を通し、必要なものを分類していった。
法案は、次の段階へ。
ダンジョンの開放を求める動きも、少しずつ大きくなっている。
それらを確認し終えたセルマは、しばらく画面を眺めた後、端末をテーブルへ置いた。
「……そろそろ、忙しくなりそうですね」
◇ ◇ ◇
霞が関の一室では、有識者会議とはまた違う種類の資料が机の上に並べられていた。
論点を整理するためのものではない。
すでにその先――法案として形にするための資料だった。
「では、本人の同意を必要とする部分については、こちらへ移したんですね」
「はい。特別職としての任用については当然として、継続的な活動要請についても本人の意思を前提とする形に修正しています」
大臣の問いに、担当官僚が資料を示しながら答える。
「緊急時は?」
「そこがまだ残っています。大規模な溢出など、国民の生命に重大な危険が生じている場合まで完全な任意とするのかについては、内閣法制局とも調整が必要です」
「義務にするなら、拒否した場合を決めなければならないでしょう」
「はい」
「罰則を付ける?」
「現時点では慎重です。資格停止についても、有識者会議で実効性を疑問視する意見が複数出ています」
「でしょうね」
大臣は資料を一枚めくった。
「資格を止められて困る人にしか、資格停止は罰になりませんから」
「そのため、資格制度そのものと、国からの協力要請に応じる新たな制度は分けて整理する方向です」
「その方がいいでしょう」
会議は淡々と進んでいった。
三度の有識者会議で結論が出なかった論点も、ここでは放置されているわけではない。意見が一致しなかったこと自体を一つの材料として、条文にできるもの、さらに調整が必要なもの、制度から外すべきものへと振り分けられていく。
専門家が答えを出せなかったから、法整備が止まるわけではない。
ここから先は、政治と行政が責任を負う領域だった。
「提出時期は?」
「今国会を想定しています」
「間に合いますか」
「かなり厳しいですが、関係省庁との調整を並行すれば」
「では、その前提で進めてください。有識者会議で出た慎重意見も、可能な限り反映を」
「承知しました」
「それと――」
大臣が次の資料へ手を伸ばしかけ、その手を止めた。
「真神君本人の意見聴取は、どうなっています?」
担当官僚の返事が、わずかに遅れた。
「……実施できていません」
「第三回にも間に合わなかった?」
「はい」
「大阪支部から連絡を入れてもらっているんでしょう?」
「継続して確認しています。ただ、藤堂支部長からも、本人からの折り返しはないとの回答が来ています」
大臣の眉がわずかに寄った。
「最後に連絡が取れたのは?」
官僚が手元の資料を確認する。
「正確には、関係者ごとに最後の接触時期が異なります。ただ、公的に動向を確認できなくなってからは――」
一度、言葉を切った。
「間もなく半年になります」
「……半年?」
今度は大臣だけではなかった。
何人かの視線が、一斉に担当官僚へ向いた。
「これまでにも、数か月単位でダンジョンへ入っていたことはあります。ですので、当初は特段の問題とは考えられていませんでした」
「しかし今回は、どこのダンジョンに入ったのかも分からない?」
「少なくとも、国内で確認されている活動記録はありません」
「所在は?」
「把握していません」
室内が静かになった。
「……所在確認はできないんですか?」
「理由がありません」
別の官僚が答えた。
「真神氏は成人した私人です。事件性が確認されているわけでも、行方不明届が出されているわけでもありません。政府からの連絡に応答しないことも、現在の制度上、何ら問題のある行為ではありません」
「政府が話を聞きたいから、居場所を調べるわけにはいかない、と」
「はい」
「……それはそうですね」
大臣は椅子へ深く座り直した。
理屈としては、何も間違っていない。
連絡を受けた私人に、折り返す義務などない。
どこで何をしているのかを、政府へ報告する義務もない。
だからこそ、これまでは待つことができた。
だが、その期間が半年に差しかかろうとしているとなれば、話は少し変わってくる。
「法案の作業は、このまま進めてください」
「よろしいのですか?」
「本人と連絡が取れないからといって、必要な制度の検討まで止める理由にはなりません」
そこで大臣は一度言葉を切った。
「ただし、本人の意見を聞けていないことは明記しておいてください」
「はい」
「我々が勝手に同意したことにするのだけは、絶対にやめましょう」
「承知しました」
会議は再び動き始めた。
条文を作り、関係省庁と調整し、国会への提出準備を進める。
真神幸一郎を巡る制度は、少しずつ現実の法律へと近づいていく。
その一方で。
その法律について、最も意見を聞かなければならないはずの本人だけが、どこにいるのかさえ分からなくなっていた。




