第2章 第59話 鏑矢の進む先へ…
大きな窓の向こうには、見慣れぬ街並みが広がっていた。
高層の建物が並ぶその景色を背に、レイチェル・アシュフォードは広い執務机へ向かっていた。室内に置かれているものは少ない。壁際の書棚とキャビネット、来客用のソファとローテーブル。そして机の上には、いくつかの資料と一台の端末が置かれている。
その中の一冊を開いたまま、レイチェルは耳元の端末へ意識を戻した。
「ええ。その認識で結構です」
返ってきた言葉に、眼鏡の奥の瞳がわずかに細められる。
「優先順位を引き上げた理由は、以前お伝えした通りです。島嶼部という地理的条件を考えれば、溢出が発生した場合の避難には限界があります」
机上の資料には、あるダンジョンについて集められた情報が並んでいた。確認されている階層構造、これまでに到達した深度、出現する魔物の傾向、過去の死傷者数。周辺地図には避難経路と、万一の溢出発生時に想定される被害範囲まで書き込まれている。
「WHAとしては、完全攻略を前提として対応を進めています」
再び、相手の声を聞く。
「攻略を担当するハンターについては、お答えできません」
少し間が空いた。
「申し訳ありません。それについても同様です」
レイチェルの声は終始穏やかだった。
「今回、そちらにお願いしたいのは、必要となる現地での協力と周辺区域への立ち入りの制限。そして、本件に関する情報の非公開です」
相手の返答を待ち、レイチェルは小さく頷いた。
「はい。すべてが完了するまで、一切」
しばらく続いたやり取りの後、ようやく彼女の口元がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます。では、そのようにお願いいたします」
通話が切れる。
レイチェルは端末を机へ置き、椅子の背へ身体を預けた。長い金髪がスーツの肩を滑る。その視線が先ほどまで見ていたダンジョンの資料から外れ、隣に置かれたもう一冊の資料へ向かった。
《資源庫》。
現在までに集めることのできた情報を、WHAの調査部門が整理したものだった。
そして、その傍らにはもう一つ。日本で受け取った、ずっしりと重い金属の塊が置かれている。
オリハルコンのインゴット。
『わざわざ時間取ってもらったんで。お土産です』
あの時の幸一郎の声を思い出し、レイチェルの表情がふっと柔らかくなった。
「……とても大きなお土産を、いただいてしまったわね」
その価値を考えれば、とても土産などという言葉で済ませられるものではない。それでも、渡した本人にとっては本当にその程度のつもりだったのだろう。
困ったような、それでいてどこか楽しそうな笑みを浮かべながら、しばらくインゴットを眺める。
やがて、レイチェルの視線が《資源庫》の資料へ戻った。
「さて……先方は、どんな反応をしてくれるかしら」
眼鏡の奥の瞳を細め、今度は薄く笑った。
◇ ◇ ◇
セルマ・リンドベルグは、端末に表示された日本のニュースを一つずつ確認していた。
高位ハンターの社会的責任。緊急時における協力要請。資格停止措置の実効性。そして最近では、特別職国家公務員という新たな案まで浮上している。
有識者会議で交わされた議論も、その後に報じられた各省庁の動きも、セルマは可能な限り目を通していた。
次の記事を開く。
『政府、高位ハンターとの新たな連携制度を検討』
内容を最後まで読み、必要な部分だけを別の画面へ移す。
さらに次。
『完全攻略済みダンジョンの一般開放を――署名活動、さらに拡大』
対象となっているのは六甲山と堺東。どちらも完全攻略後に待機状態へ移行し、現在は一般のハンターが立ち入ることができない。
開放を求める側にも理由はあった。長くダンジョンから供給されてきた素材。それによって成り立っていた仕事。活動場所として利用していたハンター。そして周辺地域への経済的な影響。
一方で、待機状態を解除した場合の安全性を疑問視する声もある。
セルマは賛成とも反対とも判断せず、関連記事をいくつか確認してから一つの項目へまとめた。
日本では今、様々な立場の人間が真神幸一郎について語っている。
制度の中でどう扱うべきか。どこまで協力を求めることができるのか。二つのダンジョンをどうするべきか。その力を社会のためにどう活用するべきなのか。
記事を読み進めるほど、そこに描かれる真神幸一郎という人物は大きくなっていった。
セルマの指が止まる。
数日とはいえ、本人とは一緒に過ごしていた。
『インターネットは?』
島の説明をしていた時に確認されたことだった。
『Amazonとか届きます?』
それも、かなり早い段階で聞かれた。
そしてWHAの会長にオリハルコンを渡した理由は、
『わざわざ時間取ってもらったんで。お土産です』
だった。
セルマは再び画面を見る。
社会的責任。国家安全保障。希少資源。資格。公的立場。ダンジョンの公共性。
画面の中にいる真神幸一郎は、随分と大きな人物だった。
「……随分、違いますね」
どちらが本当なのかと問われれば、おそらくどちらも間違ってはいない。
世界が見ているのは、真神幸一郎が持つ力と、その力によって生じる影響だ。そしてセルマが数日の間に見たのは、その力を持ったまま普通に食事をし、通販が利用できるかを気にし、自分の持っている物の価値すらろくに把握していない一人の男だった。
ただ、それだけの違いなのかもしれない。
セルマはしばらく画面を眺めた後、別の資料を開いた。
そこに表示された名前は、藤堂。
JHA大阪支部長。そして、真神幸一郎が地上へ戻ってから継続して接点を持っている人物の一人だった。
六甲山、堺東。その後の記録も追っていく。
目立ったものはない。
特別な便宜を図っているわけでもなければ、幸一郎を積極的に説得した記録もない。必要なことを伝え、判断を本人へ委ねている。聞いていないことは知らないと答え、本人に義務のないことまで追おうとはしていない。
「……なるほど」
数日間本人と接してみれば、その理由も少しだけ分かる。
真神幸一郎は、人と関わることそのものを嫌っているわけではない。必要なら話す。聞かれれば答える。自分から連絡することもある。
ただ、自分のことを自分以外の誰かに決められることを嫌う。
藤堂という人物は、おそらくそれを理解している。
だからこそ、今も関係が切れていない。
セルマはさらに最近の記録へ目を通した。
真神幸一郎との連絡状況。所在。今後の活動予定。本人の意向。
東京から大阪支部へ寄せられる照会は、少しずつ増えている。
それでも藤堂の回答は変わらない。
分からないものは分からない。聞いていないものは聞いていない。
セルマはしばらく、その記録を眺めていた。
「……この方は、大変ですね」
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
真神幸一郎が自分から連絡を取る相手は、それほど多くない。
藤堂は、その一人だった。
その事実だけは覚えておくべきだろう。
セルマは藤堂の名前を残したまま、次の資料を開いた。




