第2章 第58話 防衛省の苦悩
防衛省。
会議室の中央に置かれた資料には、簡潔な題目が記されていた。
『高位ハンターに対する特別職国家公務員制度の創設について』
先日の有識者会議で提示された案を受け、防衛省として制度上の問題点を整理するために設けられた会議だった。出席者は防衛大臣をはじめ、内局の幹部、自衛隊の制服組、法務を担当する職員など十数名。もっとも、資料を読み終えた彼らの表情を見る限り、検討すべき問題が少ないとは到底言えそうになかった。
「――で」
資料を閉じた防衛大臣が、集まった面々を見回した。
「誰が、この真神君に命令するんです?」
最初の問いから、会議室は静まり返った。
制度上は防衛大臣の指揮監督下に置くことも考えられる。既存の自衛官とは異なる特別な身分を設け、ダンジョン災害や大規模スタンピードといった国家的危機に際して任務を与える。それだけなら、制度の形として説明することはできた。
だが、それを実際に運用するとなれば話は別だった。
「大臣、よろしいでしょうか」
制服組の一人が手を上げた。
「どうぞ」
「命令に従わなかった場合、どうするのでしょう」
「……服務上の義務を課すのであれば、何らかの処分規定は必要になるでしょうね」
「停職、あるいは免職ですか?」
「そうなるでしょう」
「免職された真神氏は、困るのでしょうか」
再び、室内が静かになった。
有識者会議で議論された資格停止と、本質的には同じ問題だった。何かを失わせることで行動を促すためには、まず本人がそれを失いたくないと思っていなければならない。
国家公務員という身分も例外ではない。
強制力を持たせたところで、本人がその身分を必要としていなければ、最終的には辞めるという選択肢が残る。そして現在までに判明している真神幸一郎の能力を考えれば、辞めた彼を国家が強制的に任務へ就かせる現実的な手段もなかった。
さらに問題は階級にも及んだ。
真神には部隊指揮の経験も、自衛官として教育を受けた経歴もない。だからといって一から教育隊へ入れるという話でもなく、能力だけを理由に高位の階級を与えたところで、何を指揮させるのかという別の問題が生じる。
階級を与えないのであれば、今度は自衛官という身分そのものの意味が問われた。
「……話が一周しましたね」
誰かの呟きに、わずかな苦笑が漏れた。
防衛大臣は腕を組み、しばらく資料を眺めていた。
「そもそも、我々が必要としているのは自衛官なんですか?」
視線が集まる。
「真神君に部隊を率いてほしいわけではない。通常の防衛任務へ組み込みたいわけでもない。必要なのは、通常の手段では対処できないダンジョン災害や大規模スタンピードが発生した時に、国家として正式に協力を求められる関係でしょう」
大臣は資料を指先で軽く叩いた。
「だったら、自衛官にするところから考えるのが間違っているんじゃないですか?」
その指摘を境に、議論の方向が変わった。
自衛隊への編入ではなく、既存の指揮命令系統から独立した特別職国家公務員。本人の同意を前提として身分を付与し、協力を求める事態を限定する。活動についても一律の出動義務ではなく、案件ごとに要請する形が検討された。
当然、拒否を認めれば強制力は弱くなる。
しかし強制力を求めるのであれば、今度は真神がその身分を受け入れるだけの利益を国家側が用意しなければならない。
給与。装備。活動支援。身分保障。補償。
候補はいくつも挙がったが、そのたびに「真神幸一郎がそれを必要としているのか」という疑問がついて回った。
給与に困窮しているという情報はない。装備についても、450階層を単独で攻略する者へ国家が何を提供できるのか分からない。救援や補償についても同様だった。そもそも彼が救援を必要とする状況で、自衛隊に救援が可能なのかという根本的な問題さえある。
「……ずいぶん難しい人を公務員にしようとしているんですね、我々は」
「逆でしょう」
防衛大臣が答えた。
「公務員になる必要のない人に、どうすれば公的な立場を選んでもらえるのかを考えているんです」
その言葉で、室内の空気が少し変わった。
能力があるから義務を負わせるのではない。国家がその能力を必要としているのであれば、国家の側も相応のものを提示する。
少なくとも、有識者会議で積み重ねられてきた議論を踏まえるなら、そこを無視して制度だけを作るわけにはいかなかった。
やがて自衛隊への編入を前提とする案は外され、独立した特別職国家公務員という方向へ議論は収束していった。
そこで次の問題が浮かび上がる。
「所管はどうします?」
防衛省単独で所管する理由は、すでに薄くなっていた。
国家的危機への対応を目的とするなら、内閣直属とする案もある。特定の省庁へ所属させず、必要に応じて内閣から協力を要請する。既存の組織へ無理に押し込まないという意味では、比較的筋の通った案だった。
「内閣直属……それは検討する価値がありますね」
「ただ、その場合でも平時の窓口は必要です。内閣官房に専任部署を置くほか、内閣情報調査室との連携も考えられます」
防衛大臣の眉がわずかに動いた。
「連携なら分かります。ただし、所属や指揮監督とは分けてください。情報共有が必要だからといって、情報機関の管理下へ置く理由にはなりません」
国外活動まで想定する以上、安全保障上の情報共有は避けられない。その点について異論はなかった。
問題になったのは、その次に出された案だった。
「治安上の観点から、警察庁との連携を重視する案もあります。能力の規模を考えますと、警備・公安部門を窓口とすることも――」
「却下です」
最後まで言わせなかった。
それまで比較的淡々と議論を進めていた防衛大臣が、顔を上げる。
「それは駄目です」
「しかし大臣、安全保障上――」
「安全保障の話をしているんじゃありません。真神君の資料、読みましたよね?」
「……はい」
「8年前、彼の話をまともに聞かなかったのはどこです?」
答えは分かりきっていた。
「警察でしょう」
17歳だった少年の訴えを退け、結果として冤罪だった事件。その当事者に対し、8年後になって国家が力を必要としているから協力してほしいと求める。
そこまでは、まだいい。
問題は、その窓口として何を差し出すのかだった。
「その警察の公安部門を窓口にして、『今度は国家のために協力してください』と?」
「所属ではなく、あくまで窓口として――」
「本人にとって、その区別に意味がありますか?」
言葉が途切れた。
「制度上可能かどうかを聞いているんじゃありません。本人がどう受け取るかを考えてください」
「ですが、真神氏の能力を考えれば、治安上の観点を無視するわけには――」
「無視しろとは言っていません!」
初めて、強い声が会議室に響いた。
「警察が必要な情報を持つことと、警察を本人との窓口にすることは別でしょう。ようやく、能力があるから義務を負わせるのではなく、本人の同意を得られる制度を考えようというところまで来たんです。その最初の窓口に、彼が最も信用していない可能性のある組織を置いてどうするんです!」
反論はなかった。
「では、公安調査庁であれば――」
「名前を変えればいいという話ではありません!」
再び声が飛ぶ。
警察庁と公安調査庁は別の組織である。制度上の違いを説明することはいくらでもできる。
だが今ここで問題にしているのは、組織図ではなかった。
「我々が作ろうとしているのは、真神君を監視するための制度ではないでしょう。国家が必要とする時に、協力してもらえる関係を作るための制度です」
大臣は一度息を吐き、椅子へ深く座り直した。
「だったら、まず相手から信用されることを考えてください。我々が必要としているからといって、真神君が我々を必要としているとは限らないんです」
その認識だけは、会議に参加する者たちの間でも共有され始めていた。
国家は真神幸一郎を必要としている。
しかし、真神幸一郎が国家の用意する資格や身分を必要としているという保証はない。
結局、内閣直属案を中心に制度を詰め、関係省庁や機関は必要に応じて情報を共有する一方、本人との関係を特定の組織による管理へ結びつけない方向で検討を続けることになった。
「それと、本人の同意を前提から外さないこと。これは変えません」
何人かが頷く。
その時、一人の職員が遠慮がちに手を上げた。
「……大臣」
「まだ何か?」
「その本人の同意についてなのですが」
「はい」
「現在、真神氏本人と連絡が取れていません」
防衛大臣の動きが止まった。
「…………いつから?」
「正確には、連絡を取ろうとしてから一度もです。JHA大阪支部の藤堂支部長からも連絡を試みてもらっていますが、現在まで折り返しはありません」
「所在は?」
「確認できていません。ただし、成人した私人ですので、所在を報告する義務もありません」
数秒の沈黙のあと、防衛大臣は片手で額を押さえた。
「……それを先に言ってください」
制度の形は、少しずつ整い始めていた。
国家はようやく、真神幸一郎に何をさせるかではなく、何を提示すれば彼自身に選んでもらえるのかを考え始めている。
その答えを聞かせるべき本人が、どこにいるのかも分からないままに。




