第2章 第56話 膨らみ始めた要望という名の責任
通話が切れた。
藤堂は耳からスマートフォンを離し、しばらく画面を眺めていた。やがて小さく息を吐き、椅子の背へ身体を預ける。
「……まあ、そうなるよな」
その声には、驚きよりも諦観に近いものが混じっていた。
しばらく天井を眺めたあと、藤堂はスマートフォンを机の上へ置く。
「……律儀な人だよ、本当に」
◇
「それで、これが第1回有識者会議の結果か?」
机の上に置かれた資料を前に、議員は露骨に眉をひそめた。
「はい。会議で出された意見を事務局で整理したものになります」
「社会的責任の法的根拠を再検討。緊急時における協力要請と義務の区別。資格停止措置の実効性を検証。国外活動については、国籍、国内資格、所属組織を分けて整理……」
資料に並ぶ項目を読み上げるたび、議員の声には苛立ちが混じっていった。
「何も決まっていないじゃないか」
「第1回ですから」
向かいに座る官僚は、淡々と答えた。
「有識者会議は、こちらが用意した案を承認してもらうための場ではありません。問題があるのであれば、問題があると指摘していただく必要があります」
「それでは、いつまで経っても制度ができん」
「問題のある制度を急いで作るよりはよろしいかと」
「その間に何か起きたらどうする」
「ですから、緊急時における協力要請についても整理しています」
「要請では困ると言っているんだ。断られたらどうする」
官僚は一度だけ言葉を止めた。
「そこが、今回大きく指摘された点の1つです」
「何がだ」
「断ることのできない要請は、要請ではありません」
「言葉遊びをしている場合か」
「法制度を作る以上、その言葉を曖昧にはできません」
官僚は資料を一枚めくった。
「能力がある。社会がその能力を必要としている。だから協力する義務がある。この3つを直接結びつける法的根拠が、現在の案では不足しているという指摘です」
「だから、その根拠を作るのが我々の仕事だろう」
「作ること自体が許されるのか。まずそこから検討する必要がある、ということです」
「……一私人の自由が、何万人もの生命より重いとでも?」
「その問いも出ています。同時に、何万人もの生命を救うためなら、国家は一私人に生命の危険を伴う行為を命令できるのか、という問いも出ています」
「極論だ」
「真神幸一郎という存在そのものが、これまでの制度から見れば極端な事例です」
議員は答えず、再び資料へ目を落とした。
「……資格停止措置の実効性について再検討。これも何だ」
「文字通りです。資格停止が処分として機能するのか、という指摘です」
「資格を停止されれば、ダンジョンには入れなくなる」
「国内のJHA管理下では、そうなります」
「なら機能するだろう」
「本人が困るのであれば」
資料をめくっていた議員の手が止まった。
「……何?」
「資格停止という措置は、資格を失うことを本人が不利益と感じて初めて抑止力になります。真神氏がJHAの資格をどの程度必要としているのか、現時点では把握できていません」
「なら調べろ」
「それも次回までの課題です」
「資格がなければ活動できないだろう」
「本人が活動しないことを選択した場合、より大きな不利益を受けるのは誰なのか。その点についても検討が必要だと指摘されています」
部屋が静かになった。
資格を停止された真神幸一郎が困る。それを当然の前提として組み立てられていた制度だった。だが、もし本人が「なら何もしない」と答えた場合、困るのは果たしてどちらなのか。
議員は椅子へ深く座り直し、資料の続きをめくった。
「国外活動についても同じだ。事前報告を義務付ければいい」
「どの範囲まででしょうか」
「国外のダンジョンへ入る場合だ」
「日本国籍を持つハンター全員に?」
「高位ハンターだ」
「高位の定義は?」
「それを決めるための会議だろう!」
「ですから、決めるために論点を整理しています」
官僚の口調は最後まで変わらなかった。
議員はしばらく黙っていたが、やがて資料を閉じた。
「……網を作ろうとしている間に、魚が泳いでいなくなったでは話にならんぞ」
「その点については、同感です」
急ぐ必要があることに異論はない。
だが、どれほど急いだところで、穴だらけの網を海へ投げるわけにもいかなかった。
◇
同じ頃、総理官邸でも第1回有識者会議の報告書が開かれていた。
「……随分、宿題が増えたわね」
内閣総理大臣は一通り目を通した資料を閉じ、テーブルの上へ置いた。
「当初の想定より、かなり根本的な部分から整理し直す必要がありそうです。特に社会的責任をどこまで法的義務へ置き換えられるのかについては、慎重な意見が多く出ています」
「それでいいわ。最初から答えが決まっているなら、有識者会議なんて開く必要はないもの」
総理の言葉に、同席する官房長官が頷いた。
「ただ、世論は必ずしも慎重ではありません」
「分かっているわ」
ダンジョン攻略、災害への対応、希少な素材。真神幸一郎の持つ力を社会のために使うべきだという声は決して小さくない。一方で、たった1人の人間へそこまでの責任を負わせることへの反発も強い。
そして政府が考えなければならないのは、真神幸一郎だけではなかった。
「真神君1人を見て法律を作るわけにはいかない」
総理は閉じた資料を指先で軽く叩いた。
「彼を基準に制度を作れば、次に同じ条件へ入った人間にも適用される。真神君だから許される法律も、真神君だから許されない法律も作れない。その線だけは外さないで」
「承知しています」
別の閣僚が資料を確認しながら口を開いた。
「ですが、時間を掛けすぎることにも危険があります。真神氏ほどのハンターとなれば、その活動範囲を国内だけで考えることはできません」
「国外活動ね」
「はい。現時点で具体的な動きが確認されているわけではありませんが、制度上は想定しておく必要があります」
総理は僅かに眉を寄せた。
「そこも詰めておいて。ただし――」
そこで言葉を切り、室内を見回す。
「出ていくな、という法律にはしないで」
何人かの視線が総理へ向いた。
「そんなものを作れば、管理ではなく囲い込みになるわ。国籍を持っていることと、国内の組織へ所属することも、国内だけで活動することも同じではないでしょう」
「はい」
「必要なら、協力してもらえる関係を作る。それが本来でしょう。法律は、その代わりにはならないわ」
官房長官が小さく頷いた。
「有識者会議については?」
「続けて。急ぐ必要はあるけれど、答えを決めてから専門家を集めたことにはしないこと。出てきた問題には、きちんと答えを出してもらいましょう」
「承知しました」
総理は再び報告書を開いた。
社会的責任。緊急時の協力。資格停止。国外活動。本人の意思。
第1回の会議で持ち帰られた課題は多い。
政府もまた、それらに答えを出すために動き始めていた。
◇
政府が高位ハンターの扱いについて議論を続けている一方で、別の問題も少しずつ大きくなっていた。
『完全攻略済みダンジョンの一般開放を求める署名、提出へ』
夕方のニュース番組に映し出されたのは、国会議事堂でも官庁でもない。大阪市内で開かれた、小さな記者会見だった。
『現在、国内で完全攻略されたダンジョンは六甲山と堺東の2か所です。しかし、そのどちらも現在は一般のハンターが利用できない状態にあります』
壇上に立つ男性の横には、『ダンジョン資源の公平な活用を』と書かれたパネルが置かれていた。
『特に堺東ダンジョンは、長年にわたり多くのハンターが活動し、地域経済にも貢献してきました。それが現在、たった1人の攻略者しか立ち入ることのできない状態になっています』
完全攻略後に移行した《待機状態》。
その仕組みが判明してから、一般ハンターは堺東ダンジョンへ入ることができなくなっていた。
『我々は真神幸一郎氏の攻略実績を否定するものではありません。しかし、公共的な資源でもあるダンジョンを、事実上1人の人間だけが利用できる状態が適切なのか。それについて議論する必要があると考えています』
主張そのものは、決して突飛なものではなかった。
堺東ダンジョンでは攻略以前、多くのハンターが素材を持ち帰り、その周辺には関連する商店や業者も存在していた。それが利用できなくなれば、影響を受ける者もいる。
だからこそ、賛同する声も少なくなかった。
『危険だから閉鎖って言うけど、そもそもダンジョンって危険な場所でしょ』
『前まで普通に入れてたところくらい開けてもいいんじゃない?』
『完全攻略したら1人しか入れなくなる仕様の方がおかしくないか』
『攻略者のものって言われても、元々みんな使ってたダンジョンだしな』
一方で、反対する声もあった。
『待機状態がどういう仕組みなのか、まだ分かってないんだろ』
『開ける方法があるのかすら公表されてないぞ』
『安全だから閉じてるんじゃなくて、閉じてるから安全なんじゃなかったか?』
意見は割れていた。
だが、賛成であれ反対であれ、話題になること自体が運動を大きくしていく。
そして、その声を拾う者が現れるまでに、それほど時間は掛からなかった。
『国内で完全攻略された2つのダンジョンが、現在どちらも一般利用できない状態にあります』
数日後。
国会で、1人の議員が政府へ問いかけた。
『政府は、この状況を今後どうするつもりですか?』
高位ハンターの活動をどう管理するのか。
完全攻略されたダンジョンを、どう社会へ還元するのか。
一見すれば、それらは別々の問題だった。
だが、その中心には同じ名前があった。
真神幸一郎。
彼をどう動かすのか。
彼が攻略したものを、どう扱うのか。
彼の力を、どこまで社会のために使わせることができるのか。
政府の内側でも、国会でも、そして世間でも、その議論は少しずつ大きくなっていた。




