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第2章 第53話 後悔…零れ落としていったもの

幸一郎からの連絡は、まだなかった。


電話もメッセージもなく、家を訪ねてくることもない。当初は電話が鳴るたびに誰かが反応し、知らない番号が表示されれば、もしかしたらと思ったこともあった。玄関のチャイムにさえ期待した時期がある。それもいつしかなくなった。連絡がないことに慣れたわけではない。ただ、連絡が来ることを前提に生活するのをやめただけだった。


 それとは反対に、幸一郎を見かける機会だけは増えていった。テレビをつければ名前が出て、ネットニュースを開けば写真が載っている。ワイドショーでは専門家が能力を分析し、ニュース番組ではJHAや政府関係者が彼について語る。本人からは何も届かないのに、世界の方から幸一郎の情報だけが毎日のように届いた。


 家族は3度の配信も、すべて見ていた。


 最初の配信では、まだ画面の向こうに8年前の幸一郎を探すことができた。17歳だった少年は25歳の男になり、身体つきも顔つきも変わっていたが、声やふとした仕草には記憶に残る面影があった。父にとっては特にそうだった。幼い頃には手を引いて歩き、熱を出せば病院へ連れていき、転んで膝を擦りむけば消毒をした。どこにでもいる、怪我もすれば病気にもなる息子だった。


 2度目になると、その感覚は薄れた。画面に映る場所が、家族の知る世界からあまりにも離れていたからだ。専門家は現役ハンターの活動領域とは比較にならないと説明し、普通なら撤退を考える状況だと繰り返した。その中を、幸一郎だけが当たり前のように進んでいった。


 そして3度目には、家族の誰もが昔の幸一郎を探す余裕を失っていた。


 テレビの前には全員がいたが、会話はほとんどなかった。人間とは比較にならない巨体を持つ敵を前にしても幸一郎の様子は変わらず、解説者の声だけが熱を帯びていく。何が異常なのか、何が本来ならあり得ないのか。それを説明されればされるほど、家族が知っていた幸一郎と、今そこにいる男との距離が浮き彫りになった。


「……これが、幸一郎なのか」


 父が漏らした言葉に、答える者はいなかった。


「……こんなところに、8年もいたんだ」


 しばらくして、義姉が呟いた。


 3度の配信を通して、彼女にもようやく数字の意味が分かり始めていた。何階層という表示も、危険度を示す言葉も、それだけでは実感できなかった。だが実際にそこに存在するものを見て、専門家の説明を聞き、その中を幸一郎が進む姿を見続ければ嫌でも理解する。ここは、人が暮らす場所ではない。


「……お母さん」


「なに?」


「前に言ったよね。幸一郎がダンジョンに入ったことまで、あの子の責任にするのかって」


 義母は答えなかった。あの時のことは全員が覚えていた。


 幸一郎だって勝手にダンジョンへ入った。そこまで家族の責任にされても困る。そう言った義姉に、母は問い返した。


 ――じゃあ、幸一郎はどこへ行けばよかったの。


 義姉は答えられなかった。追い詰められた末に出てきたのは答えではなく、「じゃあ、どうしろっていうのよ」という言葉だけだった。それからずっと、母の問いには答えがないままだった。


「私、あの時……分からなかった。じゃあどうすればよかったのって。本当に分からなかった」


 義姉はテレビを見たままだった。画面の向こうでは、人なら逃げ出すような場所を幸一郎がただ1人で歩いている。


「でも……今なら、1つだけ分かる。ここだったんだ」


 膝の上で手が強く握られた。


「幸一郎には、ここしかなかったんだ。こんなところだよ? こんな化け物がいて、いつ死ぬかも分からなくて、誰も助けてくれなくて……普通だったら絶対に逃げ出すようなところなのに」


 一度言葉を切り、それでも視線はテレビから離れなかった。


「それでも、家には帰ってこなかった」


 以前の義姉なら、それは幸一郎自身が決めたことだと言ったかもしれない。だが今、その言葉は出てこなかった。自分で選んだことに違いはないからこそ、その選択が意味するものを考えずにはいられなかった。


「私だったら帰る。こんなところに1人でいたら、絶対に帰る。怖くても、恥ずかしくても、どれだけ喧嘩してても……帰れるなら家に帰る。でも幸一郎は、8年帰ってこなかった」


 そこでようやく義姉はテレビから目を離し、母を見た。


「……あの時、お母さんに聞かれたこと。今なら分かる。幸一郎には、行くところなんてなかったんだね」


 再び画面へ視線を戻す。そこには8年前、自分たちの前から姿を消した少年とは似ても似つかないほど強くなった男がいた。


「だから、こんなところでも……私たちのところに帰るより、こっちにいる方がマシだったんだ」


 長い沈黙のあと、義母が小さく息を吐いた。


「……そう思わせてしまったのかもしれないわね」


「お母さん?」


「もしかしたら、比べてすらいなかったのかもしれない。幸一郎にとって、あの家はもう……帰る場所じゃなかったのかもしれない」


 誰も反論できなかった。家族にとっては当然のように「帰ってくる場所」だった家が、幸一郎にとっても同じだったという保証はない。そのことに気づくまで、あまりにも時間がかかっていた。


「普通なら、帰りたいって思うでしょう? 怖くて、痛くて、1人で……そんな場所にいたら、家に帰りたいって思うでしょう。少なくとも私は、そう思ってた」


 それでも幸一郎は帰ってこなかった。半年でも1年でもなく、8年だった。


「家に帰るっていう選択肢を、あの子の中からなくしてしまったのは……私たちなのかもしれない。だから、あそこで生きるしかなかった」


「……生きるしか?」


「17歳の子が、あんなところで8年も生きていけるはずがないもの」


 テレビからは解説者の声が流れ続けていた。常識では考えられない。比較対象が存在しない。既存のハンターの尺度では測れない。人間離れしている。家族も、もう何度となく聞いた評価だった。


「死なないように強くなって、怪我をしても生きられるようになって、あんな化け物を相手にしても生き残れるようになって……そうやって8年、生きるしかなかったから」


 義母は画面の中にいる幸一郎を見つめた。


「今の幸一郎になったのかもしれないわね」


 世間は幸一郎を、強くなったと評していた。規格外、人外、比較不能。中には世界最強という言葉まである。だが家族にとって、その強さは次第に栄光とは違うものに見え始めていた。


 生き残った結果。


 そう考えれば、今の幸一郎の姿はまるで違って見えた。


「……じゃあ、もし、あの時……帰れる家だったら」


 義妹の小さな問いに、義母は答えなかった。答えられるはずもない。いつ戻ってきたのか、どこまで潜ったのか、あるいは六甲山へ入らずに済んだのか。すべては今となっては確かめようのない話だった。


 ただ、17歳だった幸一郎が家ではなくダンジョンへ向かい、そこで8年を生き延びたという事実だけは変わらない。


 そして今、その結果として得た力を、家族とは別の場所で多くの人間が論じ始めていた。


 数日後。夕食時のテレビには、国会中継の映像が流れていた。


『これほど突出した能力を有する以上、それに応じた社会的責任を負うのは当然ではありませんか』


 義母の箸が止まった。


 活動の把握、事前手続き、国外活動との調整、場合によっては資格停止。まだ正式な法案ですらない制度案を巡って議論は膨らみ、いつしか世間はそれを分かりやすい名前で呼ぶようになっていた。


『いわゆる“真神法案”について――』


「……法案にまでなったのか」


 父が呟いた。


 画面には幸一郎の写真が映っている。政治家も評論家も、その力をどう扱うべきか、どこまで自由を認めるべきか、社会のために何を求めるべきかを論じていた。


「……勝手ね」


 義母がぽつりと漏らした。


「え?」


「必要な時には……誰もあの子の話を聞かなかったのに。生きて帰ってきたら、今度はその力を持っているんだから責任を果たせって言うのね」


 義姉が俯いた。


 それは国会にいる誰かだけへ向けられた言葉ではなかった。かつて自分たちも、幸一郎本人が何を言っているのかではなく、周囲が語る幸一郎を信じた。そして今また、本人のいない場所で大勢の人間が真神幸一郎の役割を決めようとしている。


「……幸一郎は、これをどう思ってるんだろうな」


 父の問いに答えられる者はいなかった。


 それが今の家族と幸一郎との距離だった。


 世界中の人間が真神幸一郎について語り、その名は国会で取り上げられ、ついには法案の通称にまでなった。それでも、この家にいる誰一人として、今の幸一郎が何を考えているのかを知らない。


 本人からは、今日も何も届いていなかった。


 世界が幸一郎を知れば知るほど、家族の知る幸一郎は遠くなっていった。

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