第2章 第51話 選択肢
真神法案と呼ばれるものが世間を騒がせ始めてから数日が過ぎた。
ニュースでは連日のように取り上げられ、政府関係者や政治家、法律の専門家までが、それぞれの立場から意見を述べている。まだ正式な法案ですらないにもかかわらず、名前だけはすっかり定着したらしい。
幸一郎も、まったく見ていないわけではなかった。テレビをつければ流れているし、インターネットを開けば嫌でも目に入る。ただ、自分から追いかけてまで調べようとは思わなかった。
藤堂から聞いた通り、まだ何も決まっていない。ならば、決まってから考えればいい。
それよりも、別に気になっていることがあった。
机の上に置かれた一枚の名刺を手に取る。
レイチェル・アシュフォード。
琵琶湖で会ったWHA会長から渡されたものだった。
あの時に聞いた話の中で、仕事や待遇についてはそれほど印象に残っていない。金に困っているわけでもなければ、肩書が欲しいわけでもない。
引っかかっていたのは、もっと単純な部分だった。
静かに過ごせる場所。
それも、誰とも関わらずに暮らす場所という意味ではない。
必要なら外へ出たいし、祖父母にも会いたい。藤堂から連絡があれば話くらいはする。インターネットまで取り上げられて世間から隔離されるなど、冗談ではなかった。
ただ、自分が望んでもいない相手から勝手に踏み込まれるのは面倒だった。
会いたい相手には、自分から会いに行けばいい。
その逆まで受け入れる必要はない。
「……聞いてみるか」
幸一郎は名刺に記された番号をスマートフォンへ入力した。
呼び出し音が数回鳴ったところで、聞き覚えのある声が応じた。
『はい』
「真神です」
『こんばんは、真神さん』
少なくとも、突然の電話に驚いた様子はなかった。
『お電話をいただけるとは思っておりました』
「そうなんです?」
『ええ。ただ、もう少し先かとも思っていましたが』
「俺もそのつもりだったんですけどね」
幸一郎はそう言って、少し呆れたように息を吐いた。
「国内の話を見てると、あんまりゆっくり考えさせてもらえそうにないんで。面倒ではあるんですが……」
『なるほど』
「別に、今すぐどうこうするつもりはないですよ。ただ、知らないまま考えるのも面倒なんで」
幸一郎はベッドへ腰を下ろした。
「この前の話なんですけど。静かに休める場所があるって言ってましたよね」
『ええ』
「ちょっと詳しく聞いてもいいです?」
『もちろんです』
Rachelの返事はあっさりしたものだった。
幸一郎が最初に確認したのは、その場所で何ができないのかだった。そこへ行けば外出できない、人に会えないというのであれば、最初から選択肢には入らない。
『そのような制限はありません。いつ外出されても、誰とお会いになっても結構です』
「日本に戻るのも?」
『もちろんです』
「インターネットは?」
『普通にお使いいただけます』
「そこ大事なんですよ」
『ふふっ、承知しました』
電話の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
聞けば聞くほど、幸一郎が想像していたような隔離施設とは違うらしい。外へ出るのも自由なら、誰かと連絡を取るのも自由。必要なものがあれば自分で買いに行っても構わない。
「じゃあ、何が静かなんです?」
幸一郎が尋ねると、Rachelは少しだけ間を置いた。
『真神さんが望まない限り、外から誰かが入ってくることがありません』
「…………」
『お会いになりたい方がいらっしゃれば、お招きになればいい。ご自分から会いに行かれても構いません。ですが、真神さんがお会いになりたくない方を、こちらの都合でお通しすることはありません』
「ああ……」
ようやく意味が分かった。
「それは、いいですね」
『お気に召しましたか?』
「人と会うのが嫌なわけじゃないんですよ。自分からなら別に」
『ええ』
「勝手に来られるのが面倒なんです」
『そのための場所です』
短い返答だった。
そこについては、Rachelと幸一郎の認識に違いはないらしい。
ただし、以前にも聞かされた例外が1つだけある。
「秘書の人はいるんですよね?」
『はい。そこだけはお許しください』
生活上必要になるものの手配、外部との連絡、WHAとの窓口。それらを担当する人間が最低1人は必要になる。ただし行動を監視したり、予定を管理したりするための人間ではないと、Rachelは改めて説明した。
「その人とは、ずっと一緒なんです?」
『いいえ。必要がなければ呼んでいただく必要もありません』
「向こうから色々聞いてきたりとか」
『いたしません』
「今日は何するんですか、とか」
『聞きません』
「明日は?」
『聞きません』
「ダンジョン行かないんですか、とか」
『それも聞きません』
「…………」
幸一郎は少し考えた。
「ずいぶん都合のいい人ですね」
今度は、Rachelがはっきり笑った。
『だからこそ、私が選びました』
「なるほど」
そこまで言われると、逆にどんな人間なのか気になってくる。
いずれその場所を利用するなら、少なくとも顔を合わせることになる相手だ。
「その人、一回会えます?」
『もちろんです』
「合わなかったら?」
『別の者をご用意します』
「そこまで?」
『真神さんがお休みになる場所に、真神さんが一緒にいて疲れる人間を置いてどうするのです?』
「……それもそうですね」
あまりに当然のように言われ、幸一郎も納得するしかなかった。
Rachelはその場で日時を決めようとはしなかった。都合のよい日をいくつか教えてほしい。それに合わせてこちらで調整するという。
「Rachelさんも来るんです?」
『最初だけは』
「また日本に?」
『問題でも?』
「いや……この前、結構騒ぎになってたんで」
『今度は騒がれないようにいたします』
「できるんですか?」
『できますよ』
即答だった。
どうやって、とは聞かなかった。
この女なら本当に何とかするのだろうと、なんとなく思えたからだ。
「じゃあ、お願いします」
『承知いたしました』
通話を終える。
幸一郎はスマートフォンを置き、再び名刺へ目を落とした。
WHAへ移ると決めたわけではない。日本を離れると決めたわけでもなければ、真神法案への対抗措置でもない。
ただ、提示された選択肢が少し気になった。
だから、自分から詳しく聞いた。
そして、そこにいるという人間にも、自分から会ってみることにした。
それだけのことだった。




