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第2章 第49話 真神法案

 堺東ダンジョンの開放を求める声が、まだ小さな燻りに過ぎなかった頃。東京では、それとは別に、真神幸一郎という存在を既存の制度の中へ収めるための検討が続けられていた。


 議員会館の一室で、関係省庁によってまとめられつつある草案に目を通していた男は、その内容を端的に「首輪」と表現した。


 高危険度ダンジョンへ入る際の事前手続き。長期間活動する場合の定期的な連絡。国外で活動する際の情報共有。必要に応じた活動制限。そして、それらに従わなかった場合の資格停止。そこに並んでいる文言だけを見れば、確かにそう見えなくもなかった。


「その表現は適切ではありません」


 向かいに座る官僚は、当然のように否定した。行政が求めているのは個人の行動を自由に決定する権限ではなく、これまでの制度では想定されていなかった高位攻略者との連携体制である。本人、JHA、関係省庁の間で必要な情報を共有し、社会的な影響が大きい活動について一定の手続きを求める。それが制度の建前であり、官僚自身もその必要性を疑ってはいなかった。


 問題は、客観的な条件をいくら並べても、現時点で該当する人物が1人しかいないことだった。


 六甲山ダンジョン、500階。堺東ダンジョン、450階。国内で完全攻略された2つのダンジョンを攻略した人物は、どちらも真神幸一郎である。


「なら、結局は真神を想定した制度だろう」


「現状として真神氏が該当することは否定しません。ただし、制度として特定の個人を対象にすることはできません」


 政治家にとって、それは建前に過ぎなかった。突出した力を持つ者が存在し、その行動が社会へ大きな影響を与えるのであれば、国家がある程度それを把握し、必要なら制限する。それ自体は当然のことだと考えている。


 だからこそ、首輪が必要なのだと男は繰り返した。


 官僚はその言葉を好まなかったが、今度は単純には否定しなかった。


「仮に首輪と呼ぶのであれば、1つ問題があります」


「なんだ?」


「首輪は、繋ぐ場所があって初めて意味を持ちます」


 真神幸一郎が17歳で六甲山ダンジョンへ入った当時、現在のハンター制度は存在していない。彼はJHAの資格があったから500階まで到達したわけでも、国家の支援を受けたから生還できたわけでもなかった。


 現在はハンター資格を持っている。堺東ダンジョンへの突入も、現在の制度に従って行われた。だが、資格を与えたのはJHAでも、その力を与えたのはJHAではない。


 資格停止という処分は、資格を失うことを恐れる者に対して初めて抑止力になる。


「停止すれば、国内では活動できなくなる。それで十分だろう」


「真神氏が活動しなくなる可能性があります」


「本人も困るだろう」


「本当にそうでしょうか」


 官僚が問題にしていたのは、そこだった。


 資格を停止された真神幸一郎が、それでもハンターとして働きたいと行政へ頭を下げる。その前提を裏付けるものは、現在までの彼の行動には何もない。むしろ資格を失えば、そのまま活動をやめる可能性すらJHAから指摘されている。


 さらに、彼を必要とする組織がJHAだけとも限らない。


「日本人だぞ」


「国籍と所属する組織は別の問題です」


 国外での活動まで制限すべきだという意見に対しても、官僚は慎重だった。相手国が正式に認めた活動を日本の法律でどこまで制限できるのか。国外への移動そのものを制限するのか。国外組織への所属まで規制するのか。そこまで踏み込めば、もはやハンター制度だけでは収まらない。


 政治家は抜け道を塞ぐべきだと主張したが、官僚はそれについては明確に否定した。


「それは抜け道ではありません。合法的に認められている行動まで、真神氏1人を国内へ留めるために塞ぐのであれば、客観的な基準による制度ではなくなります」


 真神幸一郎の肩を持っているわけではない。むしろ制度を機能させるための警告だった。締めれば従う者と、締めればその場から離れることのできる者では、同じ制度でも意味が変わる。


 ならばどうするのかと問われ、官僚は、日本の制度の中で活動することに本人が利点を感じられる状態を維持する必要があると答えた。


「飴を与えろと?」


「その表現も適切ではありません」


「首輪よりはましだろう」


「……否定はしません」


 政治家は、結局は首輪と餌ではないかと笑った。


 官僚は、本人の前では絶対にその言葉を使わないよう念を押した。国会でも同様だと付け加えると、政治家は分かっていると不機嫌そうに答えた。


 話し合いが終わったあとも、官僚の手元にはJHAから提出された意見書が残った。その中には、資格停止措置が取られた場合、対象者が活動そのものを停止する可能性について考慮を要する、との一文が記されていた。


 首輪をつけることはできるかもしれない。


 だが、その先にある縄を誰が握れるのか。


 制度を作る側にも、その答えはまだなかった。


 ◇


 同じ頃、JHA東京本部でも、政府側から示された草案についての検討が行われていた。


 東京本部の反応は一様ではなかった。突出した能力を持つハンターについて、従来とは異なる手続きが必要になること自体には理解を示す者が多い。450階まで潜った人物が数か月間連絡不能になることを、これまでと同じ制度のまま放置してよいのかという問題もある。


 一方で、資格停止を含む活動制限が本当に有効なのかという疑問も強かった。


 大阪から上がってきた報告には、草案の概要を見せられた幸一郎の反応も記録されていた。


 大部分については、「ふーん」。


 社会的責任という文言については、「能力を発揮しなければ、社会的責任を負わないって理屈も通るか……」。


 その一文を読んだ会議室の空気は、決して明るいものではなかった。


 資格を停止された場合にどうするのか。


 働かなくなるのではないか。


 そうなった場合、困るのは本当に真神幸一郎だけなのか。


 現在、国内の一般的なハンターが活動できる深度と、彼が単独で到達した領域との間には、比較すること自体が馬鹿らしくなるほどの隔たりがある。資格を取り上げることはできる。だが、それによって失われる戦力を補う方法を、JHAは持っていなかった。


 それでもJHAに法律を止める権限はない。


 求められた意見は提出した。危険性も伝えた。その先は行政と政治の領域になる。


「……このまま進むんでしょうか」


「さあな」


 会議の終わりに交わされた会話は、それだけだった。


 机の上に残された草案は回収され、関係者それぞれの手元へ戻っていった。


 ◇


 数日後。


 その草案の内容が、新聞社の政治部へ持ち込まれた。


 出所は明らかにされなかった。記者も情報源について口を閉ざし、複数の関係者から内容が事実であることだけを確認した。


 まだ正式名称すら決まっていない。条文も確定しておらず、国会へ提出される法案になるかどうかも分からない。それでも、中身には十分なニュース価値があった。


 高危険度ダンジョンへの入域に関する事前手続き。長期間活動する場合の定期連絡。国外活動についての情報共有。一定条件下での活動制限。そして資格停止。


 政治部のデスクが最初に確認したのは、その制度によって誰が規制されるのかという点だった。


「……1人?」


「現時点では」


「真神幸一郎だけ?」


「条件に当てはめると、そうなります」


 草案のどこにも、真神幸一郎という名前は書かれていない。将来、同等の条件を満たす者が現れれば、その人物も対象となる。制度としては、特定個人を名指ししたものではなかった。


 だが、今は1人しかいない。


 六甲山500階。堺東450階。その2つを完全攻略した人物だけが、現在想定されている基準へ該当する。


 デスクはしばらく資料を眺めたあと、ぽつりと言った。


「……真神法案だな」


「まだ法案ですらありませんけど」


「じゃあ、真神規制案?」


「そっちの方が露骨ですよ」


「長いな」


「知りませんよ」


 その日の夜、新聞社の電子版に1本の記事が掲載された。


 『政府、“真神法案”を検討か 高位ハンターの活動に新たな規制』


 それは正式名称ではない。


 政府がそう呼んだわけでもない。


 最初は、ただ1つの記事につけられた呼び名に過ぎなかった。


 だが、あまりにも分かりやすかった。


 翌朝には別の新聞社が《いわゆる真神法案》と記し、昼には情報番組が《通称・真神法案》として取り上げた。夕方のニュースでも同じ呼称が使われ、政府会見でも記者の口からその名前が飛び出した。


『今回報道されている、いわゆる“真神法案”についてお伺いします』


『まず、その名称の法案が存在するという事実はありません』


 政府側は、特定個人を対象とした制度を検討しているわけではないと説明した。報道された草案については個別の検討内容であるとして明言を避けたものの、現時点で条件に該当する人物が真神幸一郎ただ1人であることは、すぐに広く知られることになった。


「……名前、付いちゃいましたね」


 会見中継を見ていた職員が呟くと、例の官僚は小さく息を吐いた。


「正式名称ではありません」


「政府から訂正を求めますか?」


「必要ありません」


 官僚は机の上に置かれた草案へ視線を戻した。


「通称まで行政が関知する必要はありません」


 まだ条文すら固まっていない。国会へ提出されてもいない。成立するかどうかも分からない。


 にもかかわらず、その名前だけは一足先に政府の手を離れた。


 真神法案。


 その呼び名は、法案そのものより早く世の中へ広がり始めていた。

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