第2章 第48話 小火を大火にする準備
同じ資料を、別の場所で見ている者がいた。
「堺東ダンジョンの開放運動?」
国会議事堂からほど近い議員会館。その一室で、男は秘書から渡された資料に目を落とした。
わずか数枚。
次の国会へ向けて積み上げられた資料の中では、埋もれてしまってもおかしくない薄さだった。
「はい。数日前からSNSを中心に広がり始めています。現在はオンライン署名が中心です」
「規模は?」
「まだ2,000程度です」
「……それを俺に?」
男が顔を上げる。
秘書も、この数字だけで国会議員が動くとは考えていない。
「堺東だけなら、お持ちしなかったと思います」
「というと?」
「六甲山があります」
男の指が止まった。
「……続けろ」
「現在、国内で完全攻略されたダンジョンは2つ。六甲山ダンジョンと堺東ダンジョンです。そして、どちらも攻略者は真神幸一郎」
「それは知っている」
「攻略後の状態も同じです」
秘書が資料を1枚めくった。
「待機状態。入口には障壁が発生し、内部からモンスターが出ることはない。一方、一般のハンターも内部へ入れません」
「入れるのは真神幸一郎だけ」
「はい」
男は資料へ目を落とす。
六甲山。
500階。
堺東。
450階。
どちらも、それまで人類が到達していた領域を遥かに超える巨大ダンジョンだった。
そして現在、その2つともが同じ状態にある。
「堺東が待機状態になってからは?」
「まだ1か月も経っていません」
「なら、政府の対応が遅いと叩くには早すぎるな」
「私もそう思います」
秘書はあっさり認めた。
「ですが、問題はそこではありません」
「六甲山か」
「それもあります。正確には――今後です」
男が顔を上げた。
「今後?」
「真神幸一郎が、3つ目を攻略したらどうなります?」
「…………」
「4つ目は?」
部屋が静かになった。
男は椅子の背へ身体を預けた。
六甲山だけなら特殊な事例だった。
8年間、人が立ち入れなかった異常なダンジョン。その最奥から帰還した男が完全攻略者だった。
堺東だけなら、それもまた個別の事例として扱えたかもしれない。
だが、2つ続いた。
完全攻略。
待機状態。
一般ハンターの立入禁止。
そして、そのどちらにも同じ男の名前がある。
「……なるほど」
男が小さく呟いた。
「この運動、堺東を開けろという話じゃないのか?」
「現状ではそうです。ただ、少しずつ六甲山について触れる投稿も増えています」
「内容は?」
「なぜ完全攻略された国内2つのダンジョンが、どちらも一般利用できない状態になっているのか。今後も完全攻略されたダンジョンは同じ扱いになるのか。政府やJHAに何か基準はあるのか――その辺りですね」
「政府の方針は?」
「公表されていません」
「JHAは?」
「同じです」
男は黙って資料をめくった。
そこには攻略前の堺東ダンジョンについても記載されている。
多数のハンターが活動し、主な活動圏は70階台。そこから魔石やモンスター素材が持ち帰られ、市場へ供給されていた。
それが現在は止まっている。
「六甲山の方は?」
「こちらは事情が違います。長期間、通常のダンジョンとして利用されていませんでした。ですから、堺東と同じように『以前利用できていた資源を返せ』という論理は使いにくいでしょう」
「当然だな」
「ただし、完全攻略された500階のダンジョンです」
「……中に何があるのか、か」
「はい」
分からない。
だからこそ、人は想像する。
500階まで存在するダンジョン。
そこにどれほどの資源が存在しているのか。
堺東でさえ、真神幸一郎の配信には一般市場では滅多に見られない素材がいくつも映っていた。
「運動側は、真神幸一郎を批判しているのか?」
「一部には過激な意見もあります。ただ、中心的な主張はそこまでではありません。攻略者個人が悪いというより、完全攻略後のダンジョンをどう扱うのか、何のルールも見えてこないことへの疑問ですね」
「それなら……」
男はそこで言葉を切った。
もう一度、最初のページへ戻る。
署名、2,000。
小さい。
あまりにも小さい。
だが――問題そのものは2,000人では終わらない。
「真神幸一郎は、またダンジョンへ入ると思うか?」
「分かりません。ただ、六甲山から帰還した後、ほどなく堺東へ入っています」
「なら、3つ目があってもおかしくない」
「はい」
「そして、また完全攻略したら?」
「少なくとも過去2例と同じなら、待機状態を選択する可能性はあります」
「3つ閉じる」
「可能性としては」
「4つ攻略すれば?」
「4つですね」
「…………」
男は小さく息を吐いた。
「これ、真神幸一郎の問題じゃないな」
「はい」
秘書も頷いた。
「**完全攻略されたダンジョンを、この国はどう扱うのか。**その制度が存在しないことの方が問題です」
そこで初めて、男の表情が変わった。
2,000人の署名活動を見る政治家の顔ではなくなっていた。
「……使えるな」
秘書は答えなかった。
「勘違いするなよ。真神幸一郎を攻撃する必要はない」
「はい」
「むしろ逆だ」
男は資料を机へ置いた。
「六甲山を500階まで攻略した。堺東を450階まで攻略した。それは本人の功績として認めればいい」
その上で――。
「その結果生まれたものを、国がどう扱うのかは別問題だ」
攻略者の権利。
公共の安全。
ハンターの活動。
ダンジョン資源。
そして、今後さらに完全攻略されたダンジョンが増えた場合の扱い。
論点はいくらでも作れる。
「政府は今、何か考えているのか?」
「少なくとも、完全攻略後のダンジョンについて包括的な方針を発表したことはありません」
「だったら、聞けばいい」
「国会で?」
「ああ」
男は資料を指先で叩いた。
「堺東を開放しろ、なんて言う必要はない。そんなものは安全性も分からない段階で言えば、こっちが突っ込まれる」
秘書が頷く。
「聞くのはもっと簡単なことだ」
男は笑った。
「国内で完全攻略された2つのダンジョンが、現在どちらも一般利用できない状態にあります。政府は、この状況を今後どうするつもりですか?」
答えがあるなら、それを聞けばいい。
答えがないなら――それ自体が材料になる。
「それと、この開放運動」
「はい」
「少し追っておけ。こちらから接触する必要はまだない」
「分かりました」
「自然に大きくなるなら、それでいい」
男は数枚の資料を、元の山には戻さなかった。
机の端。
すぐ手の届くところへ置いた。
まだ2,000人。
まだ小さな声。
そして堺東が閉ざされてから、1か月すら経っていない。
今すぐ大きく動く必要などない。
だが男は政治家だった。
火を点けることと同じくらい――。
どの火が燃え広がるのかを見極めることも、彼らの仕事だった。
その動きを、与党側が把握するまでに時間はかからなかった。
「堺東の開放?」
党本部の一室。
報告を受けた議員の1人が、露骨に眉をひそめた。
「まだ完全攻略されて1か月も経っていないだろう」
「はい。現時点ではオンライン署名も小規模です。野党の一部が関心を示しているようですが、正式に党として動いているわけではありません」
「なら放っておけ。今反応すれば、こちらから話を大きくするだけだ」
別の議員も頷いた。
「そもそも待機状態について、まだ分かっていないことが多すぎる。六甲山と堺東、2例しかないんだぞ」
「しかも、どちらも真神幸一郎による完全攻略です」
その名前が出ると、室内の空気がわずかに変わった。
今や、党内でその名を知らない者はいない。
「野党が国会で取り上げる可能性は?」
「あります。ただし、現段階では開放そのものを要求するというより、完全攻略後のダンジョンについて政府の方針を問う形になるかと」
「……そこを突いてきたか」
議員の1人が苦い顔をした。
六甲山と堺東。
国内で完全攻略された2つのダンジョンは、どちらも待機状態にある。
モンスターが外へ出ないという安全性を得た一方で、攻略者以外は内部へ入ることができない。
偶然ではない。
だが、それを今後どう扱うのかという制度も、まだ存在していなかった。
「答弁は慎重に作らせろ。『安全性と公益性の双方を考慮し、関係機関と検討中』。今はそれ以上言う必要はない」
「妥当でしょう」
「間違っても開放時期なんか口にするなよ」
そこで。
「だが、いつまでも閉じておくわけにもいかんだろう」
それまで黙っていた男が口を開いた。
何人かがそちらを見る。
「六甲山はともかく、堺東は以前からハンターが利用していたダンジョンだ。そこから得られていた資源もある」
「だからといって、すぐ開放できるものではありません」
「すぐとは言っていない」
男は腕を組んだ。
「だが、完全攻略されたダンジョンを、攻略者1人しか利用できない状態のまま維持する。それが本当に国益にかなうのかという議論は必要だろう」
「……真神氏が利用しているとは限りませんよ」
「なら、なおさらだ」
「…………」
「誰も利用していないなら、貴重な資源を眠らせているだけじゃないか」
数人が視線を交わした。
「六甲山は500階。堺東は450階だったな」
「はい」
「そこまで完全攻略されたダンジョンに、どれほどの資源が残っていると思う?」
「それは分かりません」
「分からないから調べるんだろう」
男にとって、それは当然の理屈だった。
「真神幸一郎ほどの能力を持つ人間が2つものダンジョンを攻略した。その成果を本人だけのものとして終わらせていいのか。国民にも還元される仕組みを考えるのが政治じゃないのか?」
「その言い方はやめた方がいい」
即座に別の議員が止めた。
「なぜだ?」
「攻略したのは真神氏だ。政府から依頼したわけでもない。それを後から『成果を国民へ還元しろ』と言えば、本人に何かを要求しているように聞こえる」
「社会の中で生きている以上、一定の責任は――」
「それを公の場で言うな」
以前にも聞いた言葉だった。
男が不満そうに口を閉じる。
「今議論しているのは、真神氏の責任じゃない。完全攻略されたダンジョンをどう扱うかだ。混同すれば話がおかしくなる」
「だが無関係ではないだろう」
「だから難しいんだ」
短い沈黙が落ちた。
野党が見つけた問いは、与党にとっても簡単に切り捨てられるものではなかった。
完全攻略されたダンジョンをどう扱うのか。
安全を優先して待機状態を維持するのか。
それとも、内部に存在する資源の利用を考えるのか。
そして今後、真神幸一郎が3つ目、4つ目を攻略した時にも、同じ状態を認め続けるのか。
「……とにかく、今は動くな」
最後に、まとめ役の議員が言った。
「野党が質問するなら答える。ただし、こちらから開放を約束する必要はない。安全性の確認が先だ」
異論は出なかった。
少なくとも、表向きには。
だが会議が終わり、それぞれが席を立った後も、先ほどの男だけは資料を眺めていた。
六甲山、500階。
堺東、450階。
完全攻略された2つのダンジョン。
その内部へ入れるのは、ただ1人。
「……もったいない」
小さく呟き、資料を閉じた。




