第2章 第47話 ダンジョン開放運動
レイチェル・アシュフォードの来日から数日が経った。
結局、彼女が何のために日本を訪れたのかは分からないままだった。突然現れ、大阪を観光し、その日のうちに帰国したWHA会長。数日はテレビやネットを賑わせたものの、新しい情報が出なければ人々の興味も次第に薄れていく。
JHA東京本部も同じだった。
占術師が残した言葉を忘れたわけではない。
『すでに、時は動き始めています』
『鏑矢は、すでに放たれました』
不吉というより、理解できない言葉だった。何かが起きるのではなく、すでに起き始めている。そう言われたところで、何が動いているのか分からなければ対処のしようもない。
結局、JHAにできることは日々積み上がっていく案件を1つずつ処理することだけだった。
そんな中、定例会議に提出された資料の中に、小さな項目が1つ追加された。
「堺東ダンジョンの開放を求める署名?」
「はい。まだ大きな動きではありません」
担当者がタブレットを操作し、資料を表示する。
「発端はSNSです。堺東ダンジョンが待機状態になって以降、一般ハンターが内部へ入れなくなったことについて、一部から疑問の声が上がっています」
「待機状態なんだから当然だろう」
「我々にとっては、です」
その返答に、資料を読んでいた男が顔を上げた。
「一般には、そこまで仕組みが理解されていない?」
「待機状態へ移行したこと自体は公表されています。ただ、世間の認識として強いのは『真神幸一郎が完全攻略した』『モンスターが外へ出てこなくなった』『現在は真神氏以外、中へ入れない』の3点です」
「……なるほど」
並べ方を変えるだけで、見え方も変わる。
完全攻略された。安全になった。なのに入れない。
そう受け取る者が出てくること自体は、不思議ではなかった。
「現時点で署名は?」
「オンラインで2,000ほどです」
「それだけか」
「はい。ですので、現状では対応が必要な規模ではないと考えています」
数千人規模のオンライン署名など、社会全体から見れば小さなものだ。JHAが公式に反応すれば、かえって注目を集める可能性すらある。
「具体的には、何を求めている?」
「大きく分けて2つです。1つは、完全攻略されたダンジョンを特定の個人しか利用できない状態にしておくことへの疑問。もう1つが、内部に存在する資源の活用です」
「資源?」
「真神氏の最初の配信が、また掘り返されています」
画面に表示されたのは、堺東ダンジョンへ入って間もない頃に行われた最初の配信だった。
幸一郎にとっては、ただ手元にあったものを使っただけなのだろう。だが、見る者が見れば違う。現在の市場ではほとんど流通していない希少な素材が、あの配信にはいくつも映り込んでいた。
「特に話題になっているのが、ドラゴンの鱗です」
「……あれか」
「『これほど希少な素材が存在するダンジョンを、事実上閉鎖したままでいいのか』という主張ですね」
「気持ちは分からなくもないな」
誰かがそう言った。それに反論する者はいなかった。
ダンジョンから得られる素材は、すでに日本経済の一部となっている。医薬品、工業材料、魔道具。既存の資源では代替できないものも少なくない。もし堺東ダンジョンに大量の希少素材が存在するのであれば、それを利用したいと考える者が出るのは当然だった。
「ただし、現時点では燻っている程度です」
「なら静観でいいだろう」
「私もそれでいいと思います」
話はそこで終わった。
少なくとも、その日は。
◇
それから数日後。
『――皆さんは、現在の堺東ダンジョンがどうなっているか、ご存じでしょうか』
昼の情報番組で、その名前が取り上げられた。
『真神幸一郎氏によって完全攻略された堺東ダンジョン。現在は待機状態と呼ばれる特殊な状態にあり、入口には障壁が発生。モンスターが外部へ出る危険性がなくなっています』
画面には、透明な障壁に覆われたダンジョン入口が映し出される。
『一方で、現在内部へ入ることができるのは攻略者である真神氏のみ。一般のハンターは立ち入ることができません』
「そういえば、攻略されてからずっとこの状態なんですね」
『はい。そして現在、この堺東ダンジョンを一般のハンターにも開放してほしいという声が、少しずつ広がっています』
画面が切り替わり、インターネット上で行われている署名活動と、いくつかの投稿が紹介される。
『安全になったのなら開放してもいいのでは?』
『攻略したのは真神さんなんだから本人が決めることでしょ』
『そもそもダンジョンって個人の所有物なの?』
『中の素材が使えないのはもったいない』
司会者はそれらを眺めながら、わずかに眉を寄せた。
「これは……なかなか難しい問題ですね」
『現在のところ、JHAから開放の予定について発表はありません。ただ、署名数はこの数日で増えており、SNSでも議論が広がり始めています』
「でも、資源の問題は確かにありますよね。ダンジョンから得られる素材は、今ではかなり重要になっているわけでしょう?」
『そうですね。特に今回、開放を求める方々が取り上げているのがこちらです』
画面が切り替わった。
そこに映っていたのは、半年前の配信で幸一郎が使っていた巨大な鱗だった。
『専門家の鑑定では、ドラゴン系モンスターの鱗である可能性が極めて高いとされています』
「これ、そんなに珍しいものなんですか?」
『珍しいどころではありません。国内市場にまとまった量が出回ることはほとんどありませんし、状態や大きさによっては非常に高額で取引される素材です』
「それを真神さんは……」
『普通に使っていましたね』
「普通に使ってましたね……」
スタジオに小さな笑いが起こる。
「そう考えると、こういった希少素材を社会全体で活用できないのはもったいない、という意見が出るのも分からなくはありませんね」
「…………」
そこで、それまで黙って話を聞いていたハンター事情に詳しい専門家が、わずかに首を傾げた。
「どうされました?」
「いえ……1つ、気になったんですが」
「はい」
「このドラゴンの鱗、誰が取るんです?」
「…………」
司会者の動きが止まった。
「……はい?」
「いや、ですから。ドラゴンの鱗ですよね」
「そうですね」
「ドラゴンから取るんですよね?」
「まあ……そうなりますね」
「誰がドラゴンを倒すんです?」
「…………」
スタジオから言葉が消えた。
専門家は別に冗談を言ったわけではない。開放運動を批判しているわけでもない。ただ純粋に、素材を入手するまでの過程について確認しているだけだった。
「真神さんなら……倒せるんですよね?」
「真神さんなら倒せるでしょう。問題は、一般のハンターへ開放するという話をしていることです」
「ああ……」
「それに、ドラゴンを倒せるか以前の問題があります」
「以前?」
「そこまで誰が行くんです?」
「…………」
司会者が再び止まった。
「堺東ダンジョンでドラゴンの存在が確認されたのは180階です」
「……180階?」
「はい」
「従来、一般のハンターが活動していたのは?」
「主な活動圏は70階台までです。それより下への到達例はありますが、安定して活動できる領域とは言えません」
「…………」
司会者は画面に表示された数字を見比べた。
70階台。
180階。
倍どころではない。
「じゃあ、ドラゴンを倒す以前に、まず180階まで行かなきゃいけない?」
「そういうことになります」
「……誰が行くんです?」
「ですから、最初からそれを聞いています」
スタジオに小さな笑いが起こった。
「いや、でも……強いハンターの方々でパーティーを組んで、ということはできないんでしょうか?」
「それは可能性としてはあるでしょう。ただし、180階へ到達できればドラゴンだけを相手にすればいい、という話でもありません」
「……まだあるんですか?」
「あります」
専門家は淡々と答えた。
「180階で確認されたのは、ドラゴンだけではありません」
「他にもいる?」
「キマイラです」
「…………」
司会者の表情が固まった。
「真神さんの配信で……出てきましたよね?」
「はい。ちょうど映像がありますね」
画面が切り替わる。
映し出されたのは、幸一郎が180階へ到達した時の映像だった。巨大なドラゴン。そして、異なる生物の特徴を併せ持つ巨大なキマイラ。
2体は互いを敵と認識し、激しく争っていた。
そして少し離れた場所には、その戦いを眺めている幸一郎の姿がある。
「……喧嘩してますね」
「喧嘩してますね」
「真神さん、見てますね」
「見てますね」
映像の中の幸一郎は、特に慌てる様子もなく2体の戦いを眺めている。
「これ……改めて見ると、とんでもない映像ですね」
「当時も十分とんでもない映像だったんですが、真神さんが普通に見ていたので、視聴者側の感覚も少し麻痺していたんでしょうね」
「ということは、ドラゴンの鱗を取りに180階まで行った場合……」
「ドラゴンがいます」
「はい」
「キマイラがいる可能性もあります」
「はい……」
「そして実際、同じ場所にいたことが確認されています」
「…………」
「攻略計画を立てるなら、最悪の場合は両方との同時戦闘を想定する必要があるでしょう」
「ドラゴンとキマイラを?」
「はい」
「同時に?」
「はい」
「…………」
またスタジオが静かになった。
「ええと……確認しますけど、ドラゴンの鱗を取りに行く話でしたよね?」
「そうですよ」
「180階まで行って?」
「はい」
「道中のモンスターを突破して?」
「当然ですね」
「180階でドラゴンを倒して?」
「はい」
「場合によってはキマイラも同時に相手にして?」
「その可能性を無視することはできません」
「…………それ、誰が行くんです?」
「ですから、最初からそれを聞いています」
司会者が天井を仰いだ。
「正論って、人を傷つけるんですね」
「私は事実を説明しているだけなんですが」
スタジオに笑いが起こった。
だが、専門家はそこで終わらなかった。
「あと、もう1つあります」
「……まだあるんですか?」
「先ほどから、このドラゴンの鱗を堺東ダンジョンの資源として話していますよね」
「はい」
「これ、堺東で取ったものなんですか?」
「…………はい?」
司会者だけでなく、他の出演者まで専門家を見る。
「真神さんが堺東ダンジョンへ持ち込んでいたことは確認できます。ですが、どこで入手したものなのかは確認されていません」
「でも、堺東にはドラゴンが……」
「います。180階で確認されています」
「じゃあ……」
「それと、この鱗がそのドラゴンから取られたことは別の話です」
「…………」
「真神さんは、その前に六甲山ダンジョンを500階まで完全攻略しています」
「あっ……」
「8年間、六甲山ダンジョンにいましたからね。この鱗が六甲山で手に入れたものではないという確認も取れていません」
スタジオが、この日一番長い沈黙に包まれた。
「じゃあ……堺東ダンジョンを開放すれば、この鱗が手に入るという話は?」
「誰も保証していません」
「180階まで行けばドラゴンは?」
「確認されています」
「倒せれば?」
「鱗を得られる可能性は高いでしょうね」
「その場合、キマイラとの同時戦闘も?」
「可能性として想定すべきでしょう」
「…………」
司会者は深く息を吐いた。
「なんだか最初に考えていた資源開発と、随分違う話になってきましたね」
「最初からダンジョンとはそういう場所です」
専門家は苦笑する。
「真神さんがあまりにも普通に攻略していたので忘れがちですが、堺東ダンジョンは450階まで存在した超高難度ダンジョンです。完全攻略されたからといって、内部に存在していた危険まで小さかったことになるわけではありません」
「つまり、真神さんを基準に考えちゃいけない?」
「絶対にやめた方がいいですね」
即答だった。
再び笑いが起こった。
「ただし」
専門家が続けると、スタジオも再び静かになる。
「だからといって、開放について議論してはいけないという話でもありません」
「と言いますと?」
「ドラゴンの鱗は極端な例です。従来からハンターが活動していた70階台までにも、有用な素材は多数存在します。以前利用できていた場所まで、現在は入れなくなっている。それを再び利用できるようにしてほしい、という主張には一定の合理性があります」
「では、低い階層だけでも開放するというのは?」
「それができるなら、検討する価値はあるでしょう」
「できるなら?」
「現在確認されている待機状態には、『70階まで開放する』といった機能は確認されていません」
「……つまり?」
「今のところ、待機状態を維持するか、それを解除してダンジョンを再び稼働させるか。そういう話になると考えた方がいいでしょう」
「解除したら、どうなるんです?」
「そこが一番重要なところです」
専門家の表情から笑みが消えた。
「現在、堺東ダンジョンの入口には障壁があります。一般のハンターは入れず、内部のモンスターも外へ出られない。だからスタンピードも起きません」
「安全ですよね」
「はい。ですが、それは『完全攻略されたから安全』なのではありません」
「……違うんですか?」
「真神さんが完全攻略後、待機状態を選択したから安全なんです」
司会者の表情が変わった。
「では、開放するということは……」
「少なくとも現在の仕組みでは、その安全を維持している状態を解除することになります」
「スタンピードも?」
「通常状態へ戻した場合、どこまで以前と同じ状態へ戻るのかは検証されていません。ですが、モンスターが再び活動することを前提に考えるべきでしょう」
「…………」
「ですから、これは『安全になったダンジョンを開放するか』という話ではありません」
専門家は画面に映る堺東ダンジョンの入口を見た。
「今、安全なのは閉じているからです」
今度の沈黙には、笑いは起きなかった。
「開放すること自体を否定するつもりはありません。ただ、開放すれば当然、ダンジョンとしての危険も戻る。そのことまで含めて議論しなければならないと思います」
「……なるほど」
司会者も、今度は真面目な表情で頷いた。
番組が始まった時には、希少な素材が眠るダンジョンを開放するべきか、という話だった。
だが蓋を開けてみれば、その素材を誰が取りに行くのかという問題があり、180階まで到達できるのかという問題があり、その先ではドラゴンとキマイラを同時に相手にする可能性まである。
そして何より、開放するということは、現在の安全を保証している状態を解除することでもあった。
それでも、議論そのものが消えたわけではない。
むしろ、この番組をきっかけに初めて多くの人間が、「堺東ダンジョンを開放する」とは具体的に何を意味するのかを考え始めた。
◇
番組終了から数時間後。
『ドラゴンの鱗、誰が取るんです?』
『ですから、最初からそれを聞いています』
『正論って、人を傷つけるんですね』
その部分だけを切り抜いた動画がSNSを駆け巡っていた。
『正論パンチは禁止しろ』
『ドラゴン倒せば素材ゲット!←そのドラゴンが180Fにいます』
『180Fまで誰が行くんです?』
『そこにドラゴンとキマイラがいます』
『しかも同時戦闘の可能性があります』
『無理ゲーで草』
『というか真神、なんであれを普通に観戦してたんだよ』
『半年見てたせいで感覚狂ってたけど、堺東って普通に魔境じゃね?』
『普通にどころか450Fあるんですが』
『でも70Fくらいまでなら前から使ってたんだろ? そこだけでも開けてほしい』
『低層だけ開ける機能がないって言ってたぞ』
『なら全部開ければいい』
『スタンピード復活したらどうすんだよ』
『可能性だけで永久封鎖もおかしいだろ』
『そもそも真神1人が決めていいの?』
『攻略したの真神だぞ』
『ダンジョンは真神の私物じゃないだろ』
『じゃあ誰の物なんだよ』
当然、結論など出なかった。
ただ1つ確かなのは、数日前までSNSの片隅で燻っていた話題が、もうそこだけに留まるものではなくなったことだった。
堺東ダンジョンを開放するべきか。
その問いは、少しずつ社会へ広がり始めていた。




