第2章 第46話 誰もしらないところで、鏑矢はうち放たれた。
湖の向こうへ太陽はすでに沈み、わずかに残っていた茜色も、少しずつ夜の色へ溶け始めていた。昼間なら釣り人の姿がある湖岸にも、今はもう誰もいない。人気のなくなった駐車場には、2台の車だけが離れて停まっている。
そのうちの1台へ向かって、レイチェルはゆっくりと歩いていた。後ろを振り返ることはない。伝えるべきことは伝えた。答えを求めることもしなかった。あとは、真神幸一郎が決めることだった。
レイチェルが車へ戻ると、後部座席には1人の女性が待っていた。肩ほどまでの銀色の髪。夕暮れの残光すら消えかけた薄暗い車内で、赤い瞳が静かにレイチェルへ向けられる。
「お疲れ様でした」
「ええ」
扉が閉まり、レイチェルはシートへ身体を預けた。
「いかがでしたか?」
「面白い方でしたよ」
そう答えながら、窓の外へ視線を向ける。少し離れた休憩所には、まだ幸一郎の姿があった。
「それで?」
「秘書を1人だけ付けることは、お許しいただきました」
銀髪の女性は何も答えず、赤い瞳を窓の向こうへ向けた。
「ただし、まだこちらへ来るとは一言も仰っていません」
「そうですか」
「ええ。あとは彼が決めることです」
「承知しました」
それ以上、女性が尋ねることはなかった。やがて車がゆっくりと動き出すと、遠ざかっていく休憩所をしばらく眺め、幸一郎の姿が見えなくなったところで静かに前へ視線を戻した。
しばらく走ったところで、運転席から声がかかる。
「この後はいかがいたしますか?」
「関西国際空港へ」
「このまま出国なさいますか?」
「ええ」
「承知しました」
それだけだった。車は琵琶湖を離れ、そのまま関西国際空港へと向かった。
◇
『――続いて、レイチェル・アシュフォードWHA会長の緊急来日に関する続報です。本日、事前の発表なく来日したアシュフォード会長ですが、先ほど関西国際空港から出国したことが確認されました』
その日の夜。テレビでは、朝から日本中を騒がせていた人物について、再び大きく報じられていた。
『今回の来日について、政府関係者との公式な会談は確認されておらず、来日の目的についても最後まで明らかにされませんでした』
『……もう帰られたんですか?』
『はい。本日来日し、その日のうちに出国したことになります』
スタジオに、何とも言えない空気が流れた。
『では、今回の来日で確認されている行動は?』
『大阪市内での観光が中心です。道頓堀などを訪れ、たこ焼きやお好み焼きを楽しまれていました』
画面には昼間の映像が流れている。たこ焼きを食べ、お好み焼きを前に笑うレイチェル。そして報道陣から来日の目的を問われた彼女が、『ただの観光です』と答える姿。
『政府関係者との接触は?』
『確認されていません。自治体や企業、各種団体との会談についても、現時点ではそのような情報はありません』
『では、本当に観光だったということでしょうか?』
問いかけられた専門家は、少し考えてから答えた。
『……分かりません』
世界でも有数のハンター組織を率いる人物が、突然日本へやって来た。東京へは向かわず大阪へ行き、たこ焼きを食べ、お好み焼きを食べた。来日の目的を問われれば、ただの観光だと答え、そしてその日のうちに帰った。
公に確認できた事実だけを並べれば、本当にそれだけだった。
◇
同じ頃、東京のJHA本部でも、レイチェル・アシュフォードの出国はすぐに伝えられていた。
「……帰ったのか?」
「はい。先ほど関西国際空港を出たそうです」
「今日来たばかりだろう」
「そのはずです」
WHAからJHAへの事前連絡はなく、本部への面会要請も協議の申し入れもない。政府関係者と会ったという情報もなく、東京へ来ることすらないまま大阪へ向かい、数時間後には日本を離れた。
「結局、何だったんだ?」
「本人は観光だと言っています」
「それをそのまま信じろと?」
「少なくとも、確認できている範囲では本当に観光しかしていません」
「だから余計に分からん」
世界規模の組織を率いる人物が、何の前触れもなく日本へ来て、粉ものを食べて帰った。それだけなら笑い話で済む。だが、相手はレイチェル・アシュフォードだった。
「……本当に何もしていないのか?」
「どういう意味だ?」
「何もしていないんじゃない。俺たちが把握できていないだけじゃないのか?」
「非公式に誰かと接触したと?」
「可能性の話だ。突然来日して、目的を明かさず大阪へ向かい、その日のうちに出国した。用事がなかった人間の動きには見えない。むしろ――用事を済ませた人間の動きに見える」
会議室が静かになった。それまで意味不明だった一連の行動が、その一言で別の形を帯び始める。
「大阪で誰かと会った?」
「分からん。相手も分からん」
企業、自治体、ハンター、各種団体。候補はいくらでもある。その中で、誰かが小さく呟いた。
「……真神幸一郎」
空気が変わった。
「根拠は?」
「ない。ただ、アシュフォード会長が大阪へ来た。そして真神氏も関西にいる」
「それだけで結びつけるのは無理がある」
「分かっている」
接触したという情報も、会談の予定もない。あくまで推測にすぎなかった。
「大阪支部に確認するか?」
「何をだ?」
「真神氏が今日、どこにいたか」
「それを大阪支部に調べさせるのか? まだ行動報告の義務もない人間だぞ」
現在、本部では幸一郎の活動をどこまで把握し、どのような手続きを求めるべきかが議論されている。だが、それはまだ議論の段階にすぎない。
「……やめておこう」
根拠のない推測だけで動くには、相手が悪すぎた。それでも、一度生まれた疑念まで消えるわけではない。
「もし本当に、アシュフォード会長が真神氏と接触していたとしたら……」
「――結果が出ました」
その時、会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、JHAに所属する1人の女性ハンターだった。職業は占術師。戦闘を得意とする職業ではなく、未来を鮮明に見通せるわけでもない。誰が、いつ、どこで、何をするのか。そんな都合のいい答えを得られる能力でもなかった。
ただし、大きな出来事が起こる前、その流れに生じる変化を読み取ることがある。曖昧で不確かな能力ではあるが、世界各地にダンジョンが出現し、既存の常識では説明できない現象が当たり前になった現在、その言葉を無視する者はJHA本部にはいなかった。
「どうだった?」
占術師は席には着かず、静かに首を横へ振った。
「何か見えたのか?」
「いいえ。何も見えてはいません」
「では、何も起きないと?」
「違います」
即答だった。
「すでに、時は動き始めています」
会議室にいた者たちの表情が変わった。
「……どういう意味だ?」
「分かりません。私に分かるのは、流れが変わったということだけです」
「アシュフォード会長の来日と関係があるのか?」
「分かりません」
「真神幸一郎は?」
「それも分かりません」
誰が、何を、どこで、何のために。そのどれにも答えはなかった。占術師自身にも、これから何が起きるのかは見えていない。
「ただ、1つだけ言えることがあります」
占術師はわずかに視線を落とした。
「これから何かが始まるのではありません。もう、始まっているんです」
その言葉に、会議室が静まり返る。
「……止められるのか?」
しばらくの沈黙のあと、占術師は静かに首を横へ振った。
「その問いをするには、もう遅いかと」
「遅い?」
「はい」
彼女は一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「鏑矢は、すでに放たれました」
誰も口を開かなかった。
「放たれた矢を、弓へ戻すことはできません」
その矢を誰が放ったのか。どこへ向かい、何を射抜くのか。それすら占術師には分からない。ただ、何かが動き始め、すでに後戻りのできないところまで進んでいる。
会議室にいる誰もが、先ほどまで画面に映っていたレイチェル・アシュフォードを思い浮かべていた。そしてもう1人、大阪にいる男のことも。
だが、それを結びつけるだけの証拠はどこにもなかった。
◇
その頃、JHA大阪支部でも藤堂が同じニュースを見ていた。
『――アシュフォード会長を乗せた航空機は、先ほど関西国際空港を出発したものとみられます。今回の緊急来日の目的については、最後まで明らかにされませんでした』
「…………」
藤堂は椅子へ身体を預けたまま、テレビ画面を眺めていた。突然の来日、大阪での観光、そしてその日のうちの出国。世間も政府も、結局レイチェルが何を目的として日本へ来たのか掴めていない。
藤堂も、その答えを知っているわけではなかった。
ただ、世間より1つだけ多く知っていることがある。
数日前、幸一郎からレイチェルと会ってもいいという返事を受けた。そして今回の来日に合わせ、2人が人目を避けて会える場所を用意したのは藤堂だった。
琵琶湖のほとり。夕方になれば釣り人も帰り、人の姿がほとんどなくなる小さな駐車場と休憩所。特別な施設でもなければ、人払いをしたわけでもない。ただ静かに話をするには都合がいい場所だった。
藤堂がしたのは、そこまでだった。会談には立ち会っていない。何を話すのかも聞いていない。
テレビでは、レイチェルの突然の出国について議論が続いている。藤堂はしばらくそれを眺めたあと、机の上に置かれていたスマートフォンを手に取り、幸一郎の番号を呼び出した。
確認したいことは、1つだけだった。
『はい』
「藤堂です。今、少しいいですか?」
『いいですよ』
「アシュフォードさんとは、会えましたか?」
『会えましたよ』
「そうですか。それならよかったです」
藤堂は小さく息を吐いた。
「確認したかったのは、それだけです」
『分かりました』
「では、失礼します」
『はい』
通話は、それだけで終わった。
藤堂はスマートフォンを机へ戻した。何を話したのか。レイチェルが何を伝えたのか。幸一郎がそれにどう答えたのか。聞かなかったし、幸一郎も話さなかった。
会うための場所を用意してほしいと頼まれた。だから用意した。そして、2人は無事に会えた。
それで十分だった。
テレビでは今も、レイチェル・アシュフォードが何のために日本へやって来たのか、答えの出ない議論が続いている。
藤堂はその声を聞きながら、机の上へ視線を落とした。そこには、東京から送られてきた資料が置かれている。
高危険度ダンジョンへの突入手続き。長期間活動する場合の定期連絡。素材の流通と管理。海外で活動する際の調整。そして、場合によっては活動そのものを制限するための枠組み。
いずれも、まだ決定されたものではない。
だが、その条件に現状で該当する者が誰なのか、藤堂は知っている。
先ほどまで話していた男だ。
「…………」
藤堂は資料を手に取り、最初のページを開いた。
東京では、真神幸一郎をこれからどのような枠組みの中に置くのか、その議論が続いている。
レイチェル・アシュフォードが幸一郎と何を話したのか、藤堂は知らない。
だから、考えても答えは出ない。
ただ――東京から届いた資料が、今日はいつもより少しだけ重く感じられた。




