第2章 45話 夕暮れの琵琶湖。
昼間は釣り人の車が並んでいた湖岸の駐車場も、日が傾いた今ではすっかり人気を失っていた。
湖面を渡ってきた風が、駐車場脇の木々を揺らしている。
湖岸に人影はない。
駐車場の隅に設けられた小さな休憩所にも、古びたベンチと自動販売機があるだけだった。
そんな場所へ、1台の車が入ってきた。
駐車場の端で止まり、運転席から男が降りる。
真神幸一郎だった。
スマートフォンの画面と周囲を見比べ、場所が間違っていないことを確認する。
待ち合わせ場所として指定されたのは、確かにここだった。
幸一郎が休憩所へ向かおうとした時、もう1台の車が駐車場へ入ってきた。
少し離れた場所で止まる。
扉が開き、1人の女性が降りた。
金色の髪が、湖から吹く風に揺れる。
幸一郎は足を止めた。
女性もまた、こちらを見る。
つい先ほどまでテレビでは、同じ顔をした女性が大阪の街を歩いていた。
ワールドハンター協会会長、レイチェル・アシュフォード。
数秒、2人の視線が重なった。
言葉はなかった。
幸一郎が小さく頷く。
レイチェルも静かに頷いた。
それだけで互いの確認は済んだ。
2人は休憩所へ向かい、湖を望むベンチに腰を下ろした。
すぐに話が始まることはなかった。
夕日は湖の向こうへ沈みつつあり、赤みを帯びた空が水面に映っている。遠くを走る車の音が、ごくかすかに聞こえるだけだった。
幸一郎は隣の女性を一度見る。
そして、湖へ視線を戻した。
「……随分、派手に釣り上げたもんだ」
レイチェルの口元がわずかに緩んだ。
「よく釣れているでしょう?」
「入れ食いだな」
「クックック……」
低い笑い声が漏れた。
声を上げて笑うわけではない。
だが、隠すつもりもないらしい。
実に楽しそうだった。
幸一郎は、そんな彼女を少し呆れたように見る。
「……楽しそうで何より」
「ええ、とても」
「…………」
幸一郎はそれ以上触れず、再び湖へ視線を戻した。
大阪では今も、報道陣がもう1人のレイチェル・アシュフォードを追っている。
その騒ぎを仕掛けた本人は、夕暮れの琵琶湖を眺めながら満足そうに笑っていた。
しばらくして、幸一郎が口を開いた。
「――話を聞こう」
「はい」
レイチェルの笑みが薄くなる。
消えたわけではない。
ただ、その目から先ほどまでの遊びを楽しむ色が消えた。
「では、簡単なところから。真神さんは、WHAについてどこまでご存じですか?」
「今日、テレビであんたが会長だって知った」
一瞬だけ、沈黙があった。
「藤堂さんからは?」
「名前しか聞いてない」
「なるほど」
それならば話は早いのか遅いのか。
レイチェルは小さく息を吐き、湖へ視線を向けた。
「WHAは、特定の国家に所属しないハンター組織です。国家の枠を越えたダンジョン問題への対応と、所属するハンターの活動支援。それが主な役割だと思っていただければ結構です」
「それで、その会長が俺に何の用?」
幸一郎は遠回しな言い方をしなかった。
レイチェルも気を悪くした様子はない。
「選択肢をお持ちしました」
「選択肢?」
「はい」
レイチェルは頷いた。
「現在、日本国内であなたに関する新しい枠組みが検討されていることは?」
「聞いてる」
「藤堂さんから?」
「ああ」
「では、そこも省きましょう」
レイチェルは、日本政府の動きを批判しなかった。
それが正しいとも、間違っているとも言わない。
そもそも、その判断をするためにここへ来たわけではないようだった。
「今後も日本で活動を続ける。JHAに所属し続ける。しばらく何もしない。それもすべて選択肢です」
「何もしなくてもいいのか?」
「私が決めることではありません」
「そりゃそうか」
「ただ、それ以外を選びたくなった時には、WHAという場所もあります」
「勧誘か」
「端的に言えば」
あっさりと認めた。
「もちろん、私たちにも都合はあります。あなたほどの攻略者が所属してくれるなら、WHAにも大きな利益がある」
「正直だな」
「後から知られるよりはいいでしょう?」
「まあな」
幸一郎は否定しなかった。
綺麗な理念だけを並べられるより、その方が分かりやすい。
「WHAへ移られた場合、活動についてはこちらから仕事を提示します。内容、危険性、条件、報酬。それらを確認した上で、受けるかどうかは真神さんに決めていただきます」
「断っても?」
「構いません」
「俺にしかできない仕事だったら?」
「その時は――」
レイチェルの口元に、薄い笑みが戻った。
「真神さんが引き受けたくなる条件を、こちらが考えます」
「なるほど」
命令するのではない。
義務を作るのでもない。
必要なら条件を提示し、合意を得る。
随分と単純な話だった。
「それと、活動拠点はこちらで用意できます」
「拠点?」
「ええ」
幸一郎の反応は薄かった。
だが、レイチェルはそのまま続けた。
「俗世から切り離された、静かな場所です」
幸一郎の視線が動いた。
「……どのくらい?」
「どのくらい、とは?」
「切り離されてる?」
レイチェルは少し考えるような仕草を見せた。
「少なくとも、報道関係者が押しかけてくることはありません」
「ふむ」
「観光客も来ません」
「ほう」
「近隣住民とのトラブルもありません」
「……近隣住民もいないのか?」
「ええ」
そこで初めて、幸一郎はレイチェルをまともに見た。
「生活に必要なものはこちらで用意します。食料や生活用品、通信環境も整えます。必要なものがあれば、その都度こちらへ申し付けていただければ」
「風呂は?」
「あります」
「ちゃんとしたベッドは?」
「もちろん」
「…………」
質問の内容が急に具体的になった。
レイチェルはそれを指摘しなかった。
「仕事のない時は、何をしていただいても構いません。外出するのも、趣味に時間を使うのも自由です」
そこで一度言葉を切る。
「もちろん――何もせず、静かに、ゆっくりお休みいただくこともできます」
「…………」
風が休憩所を抜けていった。
幸一郎は何も言わなかった。
だが、ここへ来てから最も真剣に話を聞いていることだけは、誰が見ても分かった。
レイチェルの口元が、ほんの少し持ち上がる。
「興味がおありですか?」
「……続きを聞こう」
「クックック……」
「笑うな」
「失礼しました」
まったく悪びれた様子はなかった。
「ただし、1つだけお願いがあります」
「なんだ?」
「秘書を1人だけ付けることを、お許しください」
「秘書?」
「はい。WHAとの連絡窓口を兼ねます。仕事の連絡、必要な物資の手配、各種手続き。真神さんがこちらへ連絡する必要がある場合も、その者に言っていただければ済むようにします」
「監視?」
「いいえ」
そこだけは即答だった。
「行動を報告させるつもりはありません。どこへ行った、何をしたと逐一記録するようなこともさせません」
「じゃあ、本当に連絡係?」
「それと、必要な時のお手伝いですね」
「…………」
「俗世から切り離しておいて、こちらから何人も職員を出入りさせていては意味がありませんから」
「それで1人か」
「はい。1人だけです」
幸一郎は少し考えた。
「邪魔しないなら」
「そこは保証します」
「なら、別にいい」
「ありがとうございます」
レイチェルは静かに頭を下げた。
それが後にどれほど幸一郎の日常へ溶け込む人物になるのか。
当然、この時の幸一郎が知るはずもない。
彼にとってはまだ、WHAとの連絡を取り持つための秘書が1人増える。
ただ、それだけの話だった。
湖の向こうでは、太陽がほとんど沈みきっていた。
「で」
幸一郎が言った。
「その静かな場所って、どこにあるんだ?」
「それについては、正式に興味を持っていただけましたらご案内します」
「秘密?」
「秘密というより――」
レイチェルは少しだけ考え、楽しそうに笑った。
「実際に見ていただいた方が早いかと」
「ふーん……」
幸一郎はそれ以上追及しなかった。
地図にすら載っていない孤島が、自分の新しい生活拠点として用意されているなどとは、まだ知らない。
大阪では今も、もう1人のレイチェル・アシュフォードが報道陣を引き連れて観光を続けている。
東京では、その目的を探るために多くの人間が頭を悩ませている。
その一方で、本物のレイチェルは誰もいない琵琶湖のほとりで、幸一郎へ新しい選択肢を提示していた。
まだ何も決まってはいない。
幸一郎も、返事をしたわけではない。
幸一郎は少し考えた。
「邪魔しないなら」
「そこは保証します」
「なら、別にいい」
「ありがとうございます」
レイチェルは静かに頷いた。
それから、しばらく何も言わなかった。
夕日はすでに湖の向こうへ沈みかけている。
昼間の名残を残していた空も、少しずつ夜の色へと変わり始めていた。
湖面を渡る風だけが、誰もいない休憩所を通り抜けていく。
やがて、レイチェルが立ち上がった。
「――お話は以上です」
「……終わり?」
「はい」
あまりにもあっさりしていた。
返事を求められると思っていたわけではない。
だが、世界的な組織の会長がわざわざ日本まで来て、それだけで終わるとも思っていなかった。
レイチェルは上着から小さなカードを取り出した。
「もし興味がおありでしたら、お電話ください」
差し出されたのは、1枚の名刺だった。
幸一郎が受け取る。
白いカードには、名前と最低限の情報。そして連絡先だけが記されていた。
Rachel Ashford
World Hunter Association
「ここに?」
「ええ。私に直接繋がります」
「会長に直接?」
「その方が早いでしょう?」
「…………まあ、そうだけど」
幸一郎は名刺をもう一度見た。
期限は言われない。
いつまでに返事をしろとも言われない。
考えてほしいとも、WHAを選んでほしいとも言われなかった。
ただ選択肢を置き、その連絡先を渡した。
それだけだった。
「では」
レイチェルが歩き出す。
数歩進んだところで、幸一郎が声をかけた。
「……あんたは戻らなくていいのか?」
レイチェルが振り返る。
「どこへです?」
「大阪」
「クックック……」
また、あの深い笑みが浮かんだ。
「彼女はまだ楽しんでいるようですから」
「…………」
「邪魔をするのも悪いでしょう?」
「……楽しそうで何より」
「ええ、とても」
レイチェルは満足そうに微笑むと、今度こそ車へ向かって歩いていった。
やがて車が駐車場を出ていく。
幸一郎だけが、その場に残った。
すっかり暗くなり始めた琵琶湖を前に、手元の名刺へ視線を落とす。
静かな場所。
誰にも邪魔されない生活。
仕事をするかどうかも、自分で決められる。
そして――何もしたくなければ、何もせずに休んでいてもいい。
「…………」
幸一郎は名刺を財布へしまった。
それから立ち上がり、自分の車へ向かった。
その日。
レイチェル・アシュフォードが日本へ持ち込んだ提案に、真神幸一郎は答えを出さなかった。
ただ、その名刺を捨てることもしなかった。
ただ――
俗世から切り離された静かな場所で、何もせず、ゆっくり休んでも構わない。
その部分だけは。
今日聞いた話の中で、妙に頭に残っていた。




