第2章 第44話 緊急来日
緊急来日
堺東ダンジョンから帰還して、1週間ほどが過ぎていた。
その日の夕食も、いつもと変わらないものだった。
焼き魚に煮物、味噌汁。それに炊きたてのご飯。
祖父母の家へ戻ってから何度か繰り返した、ごく普通の食卓だった。
半年近くダンジョンに潜っていたからといって、中で食事に困っていたわけではない。それでも、祖母の作った料理を祖父母と3人で囲む時間は、ダンジョンの中にはなかったものだ。
居間ではテレビがついていた。
祖父が見ているのか、それとも単なる習慣なのか。夕方のニュース番組が、政治や経済、その日に起きた事件を順番に伝えている。
幸一郎も特に気にすることなく、焼き魚を箸でほぐしていた。
『――ここで速報が入ってきました』
番組の空気が変わった。
画面に赤い速報の文字が表示され、アナウンサーが手元へ視線を落とす。
『ワールドハンター協会――WHA会長、レイチェル・アシュフォード氏が、本日午後、緊急来日したことが分かりました』
「…………」
幸一郎の箸が止まった。
画面が切り替わる。
空港の到着ロビーを、1人の女性が歩いていた。
金色の髪。整った顔立ち。周囲には数人の関係者らしき人間が付き添い、そのさらに外側を大勢の報道陣が取り囲んでいる。
『アシュフォード会長! 今回の来日の目的は!』
『日本政府との会談予定はありますか!』
次々と質問が飛んでいるが、女性は足を止めない。
画面の下には大きく名前が表示されていた。
――レイチェル・アシュフォード。
聞き覚えのある名前だった。
◇
数日前。
幸一郎は藤堂へ電話をかけていた。
『はい、藤堂です』
「真神です」
『真神さん。どうしました?』
「この前の話なんですけど」
それだけで藤堂には通じたらしい。
『……ああ。アシュフォードさんの件ですね』
「ええ」
大阪支部で話を聞いてから、一応は考えていた。
レイチェル・アシュフォード。
名前を聞いても、幸一郎には心当たりがなかった。
どんな人物なのかも知らない。なぜ自分に会いたがっているのかも、詳しくは聞いていない。
ただ、藤堂が一度会ってみてもいいのではないかと言うのなら、最初から断る理由もなかった。
「そのレイチェルって人と、会ってみてもいいです」
『分かりました。先方には私から伝えておきます』
「お願いします」
それだけの短い電話だった。
日時も場所も決めていない。
ただ、会っても構わない。
そう返事をしただけだった。
◇
『レイチェル・アシュフォード氏は、世界各国のハンターの権利保護や、国家間にまたがるダンジョン問題への対応を行うワールドハンター協会、WHAの現会長です』
「…………」
幸一郎はテレビを見た。
そこまでは聞いていなかった。
『今回、関係者を驚かせているのが、アシュフォード氏の来日を日本政府が事前に把握していなかったという点です』
画面が空港からスタジオへ戻る。
『政府関係者への取材では、今回の来日について事前の連絡は受けていなかったとのことです。関係省庁も同様で、現在、訪日の目的について確認を急いでいます』
『WHAの会長が来日したにもかかわらず、政府は知らなかったということでしょうか?』
『少なくとも、正式な訪日予定として調整されていたものではないようです』
スタジオでは、専門家らしき人物が難しい顔をしている。
突然の来日。
しかも、その目的は不明。
政府との会談予定も確認されていない。
なぜ今なのか。
何のためなのか。
様々な推測が語られている。
幸一郎は再び箸を動かし、煮物を口へ運んだ。
『そして先ほど、新しい情報が入ってきました』
アナウンサーの声に、再び画面が切り替わった。
『アシュフォード氏は入国後、東京には留まらず、そのまま大阪へ移動したことが確認されています』
「…………」
幸一郎の箸が、わずかに止まった。
『こちらが、およそ1時間前に大阪市内で撮影された映像です』
映し出されたのは、会議室でも政府施設でもなかった。
大阪の街中だった。
レイチェル・アシュフォードが、紙皿に載ったたこ焼きを前にしている。
爪楊枝で1つ刺し、少し眺めてから口へ運ぶ。
直後、その動きが止まった。
熱かったらしい。
それでもしばらく口元を押さえたあと、楽しそうに笑い、もう1つへ手を伸ばした。
『……たこ焼きですね』
『はい。たこ焼きです』
さらに映像が切り替わる。
今度は店内だった。
鉄板の前に座ったレイチェルが、お好み焼きを小さく切り分けている。
『その後、別の店では、お好み焼きを食べる姿も確認されています』
『これは……観光でしょうか』
『少なくとも、映像を見る限りではそのように見えますね』
先ほどまで国際組織の会長による異例の緊急来日を論じていた番組とは思えない映像だった。
次に映し出されたのは、店から出てきたレイチェルを待ち構えていた報道陣だった。
『アシュフォード会長! 今回の来日の目的を教えてください!』
『なぜ大阪へ来られたんですか!』
『日本政府との会談予定はありますか!』
レイチェルは数歩進んだところで足を止めた。
振り返り、カメラを見る。
そして、にっこりと笑った。
『ただの観光です』
それだけだった。
再び歩き始めた彼女の後ろを、報道陣が追いかけていく。
画面がスタジオへ戻った。
『――とのことですが』
『…………』
短い沈黙があった。
『本当に観光なのでしょうか?』
『本人は、そのように話しています』
『しかし、WHA会長が何の事前連絡もなく来日し、そのまま大阪へ向かったわけですよね』
『はい』
『そして、たこ焼きとお好み焼き……』
『現時点で確認できている行動としては、そうなります』
「…………」
幸一郎は黙って味噌汁を飲んだ。
テレビの中だけが騒がしかった。
◇
同じ頃、東京。
テレビの中では、先ほどから何度も同じ映像が繰り返されていた。
『ただの観光です』
笑顔のレイチェル・アシュフォード。
その映像を、笑顔では見られない者たちがいた。
「……本当に、事前連絡は何もなかったんだな?」
「ありません」
会議室には、関係省庁から急遽集められた担当者たちが顔を揃えていた。
外務関係。
法務関係。
ダンジョン行政を担当する部署。
その他、今回の来日と関係する可能性のある者たち。
確認はすでに一通り行われていた。
正式な訪日予定はない。
政府との会談予定もない。
省庁への訪問予定もない。
入国手続きには何の問題もなかった。
レイチェル・アシュフォードは正規の手続きを経て日本へ入国している。
つまり、行政上の問題は何もない。
だからこそ困っていた。
「WHAには?」
「照会済みです」
「回答は?」
「会長の私的な日程については回答できない、と」
「私的な日程……」
誰かが呟いた。
理屈としては正しい。
WHA会長だからといって、私的な旅行まで日本政府へ届け出る義務はない。
「本人は観光だと言っているんだろう?」
「はい」
全員の視線がテレビへ向いた。
たこ焼きを食べている。
次は、お好み焼き。
「…………」
「…………」
「……観光はしていますね」
「それは見れば分かる」
低い声が返った。
「問題は、なぜ今、なぜ日本で、なぜ大阪なのかだ」
誰も答えられない。
「大阪で国際会議の予定は?」
「ありません」
「政府関係の会合は?」
「確認されていません」
「大阪府や大阪市との面会は?」
「どちらも予定はないとの回答です」
「民間は?」
「確認中です。ただ、私的な面会まで含めれば把握は困難です」
会議室が静かになった。
私的な面会。
それなら行政側には見えない。
「最近、大阪で何かあったか?」
その問いに、別の担当者が困った顔をした。
「……ありすぎます」
何人かが同時に黙り込んだ。
大阪。
ダンジョン。
そして、世界的なハンター組織の会長。
連想される名前は、そう多くなかった。
「……真神幸一郎か?」
ついに、その名前が出た。
「可能性は否定できません」
「接触した事実は?」
「確認されていません」
「面会予定は?」
「不明です」
「真神氏本人に確認できないのか?」
「何を確認するんです?」
「アシュフォード氏と会う予定があるかどうかだ」
言ってから、発言した本人も黙った。
根拠はない。
ただ、レイチェル・アシュフォードが大阪へ来た。
それだけで私人に対して、
――あなたに会いに来たのではありませんか。
政府からそんな問い合わせをするのか。
「やめておきましょう」
外務関係の担当者が静かに言った。
「現時点では推測にすぎません。アシュフォード氏から政府への面会要請も、何らかの交渉の申し入れもない。本人は適法に入国し、大阪を観光している。それだけです」
「しかし――」
「我々が対応すべき案件そのものが、今のところ存在しません」
正論だった。
正論だからこそ、誰も動けない。
世界的な影響力を持つ人物が突然日本へ現れた。
東京を素通りして大阪へ向かった。
政府にも省庁にも用はないらしい。
そして今のところ、やったことといえば、たこ焼きとお好み焼きを食べただけ。
テレビでは、また同じ映像が流れた。
『ただの観光です』
「…………」
会議室の誰も笑わなかった。
しばらくして、誰かが小さく呟いた。
「……本当に、ただの観光だったら?」
その問いに答える者はいなかった。
◇
その頃。
大阪から離れた琵琶湖のほとりを、1台の車が走っていた。
夕暮れの湖面が、車窓の向こうに広がっている。
後部座席に座る女性は、手元の端末で日本のニュース番組を眺めていた。
画面には、大阪の街を歩く金髪の女性が映っている。
『アシュフォード会長! 今回の来日の目的は!』
画面の中の女性が振り返った。
『ただの観光です』
にっこりと笑う。
「…………」
端末を見ていた女性の口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。
「楽しんでいるようですね」
そう言って、画面を閉じる。
車内が静かになった。
やがて車は湖畔の道を外れ、人通りの少ない場所へ入っていく。
木々の向こうに、湖を望む建物が見えてきた。
車がその前で静かに止まる。
「到着しました」
「ありがとう」
後部座席の扉が開いた。
女性が車を降りる。
夕暮れの風が、その金色の髪を揺らした。
大阪でたこ焼きを食べているはずの女性。
報道陣が今も追いかけているはずの女性。
ワールドハンター協会会長――
レイチェル・アシュフォード本人だった。
「真神様は?」
「すでに到着されています」
「そうですか」
レイチェルは建物の向こうに広がる琵琶湖へ、一度だけ目を向けた。
それから、静かに歩き出す。
「では、お待たせするわけにはいきませんね」
日本中が彼女の来日の目的を探っている頃。
その本人は、誰にも知られることなく、真神幸一郎との最初の面会へ向かっていた。




