第2章 第43話 包囲網
食事を終え、久しぶりの風呂にも入った幸一郎がJHA大阪支部へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。
大阪支部を訪れるのは初めてだった。六甲山から帰還した時も、必要な手続きは六甲山支店で済ませ、そのまま祖父母の家へ戻っている。
自動ドアを抜けると、広いフロントにはいくつもの受付窓口が並び、その前をハンターや職員が行き交っていた。平日の昼間だというのに、それなりに人が多い。
幸一郎は受付へ向かいかけ、途中で足を止めた。
「…………」
昨日、堺東ダンジョン最奥部での戦闘が世界中へ配信されたばかりである。今朝も入口には大勢の報道陣が待ち構えていた。
この状況で受付へ行き、真神幸一郎です、と名乗る。
どうなるかくらいは想像できた。
幸一郎はフロントの端へ移動すると、スマートフォンを取り出した。連絡先から藤堂の名前を選び、そのまま発信する。
数回の呼び出し音で電話は繋がった。
『はい、藤堂です』
「真神です」
『……真神さん?』
「今、大阪支部の1階にいます」
電話の向こうで一瞬、間があった。
『もう来られたんですか?』
「飯食って、風呂入ってから来ました」
『そうですか。受付には?』
「行ってません」
『どうしてです?』
幸一郎は少し離れた受付へ目を向けた。ハンターが何人も並び、その向こうでは職員たちが忙しそうに対応している。
「名前言ったら面倒になりそうなんで」
今度は少し長い沈黙があった。
『……それはそうですね。そのまま待っていてください。人を向かわせます』
「はい」
通話を切って数分後、フロントの奥から1人の男性職員が現れた。周囲を見回したあと、壁際に立っている幸一郎を見つけ、小さな声で本人かどうかを確認する。
「真神さんですね?」
「はい」
「ご案内します」
受付を通さなかったのは正解だったらしい。職員についてフロントを抜けても、周囲が幸一郎に気づく様子はなかった。
案内する職員にとっては、少し奇妙な時間だった。
昨日、世界中へ配信された映像を彼も見ている。50mを超える巨人を相手に、たった1人で戦っていた男。巨大な魔法を放ち、山を斬り、自分自身へ雷を落とし、最後には敵の再生術式そのものを反転させた。
その男が今は、何事もなかったように自分の後ろを歩いている。
「昨日の配信、見ました」
「そうですか」
「……凄かったです」
「どうも」
会話はそこで終わった。
職員もそれ以上は話しかけなかった。
エレベーターで上階へ移動し、一般のハンターが立ち入らない区画を進む。やがて支部長室へ到着すると、職員は扉をノックした。
「真神さんをお連れしました」
「入ってもらってください」
幸一郎が部屋へ入ると、机の向こうにいた藤堂が立ち上がった。顔を合わせるのは約半年ぶりだった。
「お久しぶりです」
「半年ぶりですね。まずは、堺東の完全踏破、お疲れさまでした」
「どうも」
勧められたソファへ腰を下ろす。
藤堂は向かい側へ座りながら、目の前の男を改めて見た。半年前と大きく変わったようには見えない。昨日、あれだけの戦闘を終えた人間にも見えなかった。
聞きたいことならいくらでもあった。
推定450階層に及ぶ堺東ダンジョン。最終試練で現れた巨人。戦闘中に解析したという再生術式。そして何より、本人が何気なく口にした六甲山500階層の『邪女神』。
だが、それらを聞くために呼んだわけではない。
藤堂は机の上に用意していた書類を取り、幸一郎の前へ置いた。
「先に、これを見てもらえますか」
「はい」
幸一郎が書類を手に取る。
そこに記されていたのは、彼が堺東ダンジョンに潜っていた半年の間、東京で進められていた議論だった。
高危険度ダンジョンへ入場する際の事前手続き。長期攻略時の定期連絡。取得した素材の流通管理。国外で活動する場合の関係機関との調整。さらに、必要に応じた活動制限や資格停止。
文書のどこにも、真神幸一郎という名前は書かれていない。
対象とされているのは、一定以上の能力を有し、その活動が社会に重大な影響を及ぼす可能性のあるハンターだった。
「該当する人、いるんです?」
「現状では真神さんだけですね」
「ふーん……」
それだけだった。
幸一郎は表情を変えることもなく、次のページをめくった。
東京では、特定個人を対象とした制度ではないという理屈が積み上げられていた。能力や攻略実績、社会への影響など、客観的な基準を設定し、その条件を満たした者へ一律に適用する。
書類の上では、確かに真神幸一郎を名指ししたものではない。
ただ、その条件を満たす者が1人しかいないだけだった。
活動制限。
資格停止。
それらの文字を見ても、幸一郎の反応は変わらない。
自分を対象にした話だと理解していないわけではない。ただ、まだ決まってもいない話に腹を立てるほどの興味がないようだった。
やがて、ある一文でページをめくる手が止まった。
――その能力に応じた社会的責任を果たすべきである。
「…………」
幸一郎は、その一文だけを少し長く眺めた。
藤堂は何も言わず、待った。
「……なるほど」
もう一度文章を読み、幸一郎は少し考える。
「能力を発揮しなければ、社会的責任を負わないって理屈も通るか……」
藤堂は答えなかった。
おそらく、この文章を書いた人間はそんな解釈を想定していない。
能力があるのだから、その力を社会のために使う責任がある。言いたいことはそれだけなのだろう。
だが幸一郎は、その前提をひっくり返した。
能力を使うことに責任が伴うのなら、使わなければいい。
ダンジョンへ行かなければいい。攻略しなければいい。それで誰かに迷惑をかけるわけでもない。
「……まあ、楽でいいか」
幸一郎は何事もなかったように次のページをめくった。
藤堂だけが、その言葉を軽く受け流すことができなかった。
資格を停止されたなら活動しない。制限されるのなら、その範囲では何もしない。
それを実行された時、困るのが幸一郎とは限らない。
国内における正式な最深到達記録は76階層。対して、幸一郎が昨日完全踏破した堺東ダンジョンは推定450階層。そして六甲山は500階層。
彼を止めることはできるかもしれない。
だが、彼の代わりを用意できるわけではなかった。
しばらく書類を読んでいた幸一郎が、ふと顔を上げた。
「これ、実際どのくらいまでいってるんです?」
ようやく出た、現状そのものについての質問だった。
藤堂は少し考えてから答えた。
「まだ決まってはいません。ただ、会議で意見を出しているだけ、という段階は過ぎています」
「ふーん」
東京ではすでに、JHA内部の規則だけでは不十分だという意見が出ていた。
JHAの規則で管理できるのは、あくまでJHAという枠組みの中にいるハンターだけである。そこで話は行政へ移り、能力、攻略実績、社会への影響などを基準として、該当するハンターへ一定の義務を課す制度が検討され始めていた。
「法律にするってことですか?」
「その方向で動いています」
「へえ……」
反応は、それだけだった。
普通なら、自分が事実上の対象となる法律が検討されていると聞けば、怒るなり、不安になるなり、何かしらの反応を示すだろう。
幸一郎は違った。
決まっていないのなら、まだ自分には関係ない。
そう言わんばかりに、書類を閉じた。
藤堂には、その無関心さの方がむしろ気になった。
東京では、どうすれば真神幸一郎を制度の中へ置けるのかが真剣に議論されている。
だが当の本人には、その制度の中に留まらなければならないという発想そのものが薄い。
藤堂は幸一郎から書類を受け取り、テーブルへ置いた。
「それと、もう1つあります」
「まだあるんですか」
「これで最後です」
藤堂は少し間を置いた。
昨夜、自分のもとへ突然かかってきた電話。その相手の名前を口にする。
「真神さんに、一度会いたいと言っている人がいます」
「誰です?」
「レイチェル・アシュフォードという人です」
「…………」
幸一郎の反応は薄かった。
知らない名前なのだから当然だった。
「何の用です?」
「詳しい話は聞いていません」
「じゃあ、断っても?」
「構いません」
藤堂はそこで終わらせてもよかった。
だが、そうはしなかった。
「ただ、私としては一度会ってみてもいいんじゃないかと思っています」
幸一郎が顔を上げた。
「藤堂さんが?」
「ええ」
そこで初めて、わずかに興味を示した。
誰なのか分からない相手が会いたがっている。それだけなら、幸一郎にとって断る理由として十分だった。
だが藤堂が、会ってみてもいいのではないかと言う。
そのことの方が気になった。
「どんな人なんです?」
「それは……本人から聞いた方がいいでしょうね」
「…………」
幸一郎は少し考えた。
東京では、自分を対象にした制度が作られようとしている。
その話を聞かされた直後に、藤堂が会ってみてもいいと言う人物が現れた。
だからといって、その場で会うと答える理由もない。
「……考えときます」
「ええ。それで構いません」
会うとも、会わないとも決めなかった。
藤堂がわざわざ自分へ話を持ってきた以上、頭の片隅には置いておく。その程度だった。
幸一郎はソファの背にもたれ、もう一度だけその名前を頭の中で繰り返した。
レイチェル・アシュフォード。




