第1章 第41話 黒船
翌朝。
幸一郎が目を覚ました時、堺東ダンジョンの最奥部は静まり返っていた。
昨夜まで50メートルを超える巨人が暴れ、星が落ち、雷が降り注ぎ、数え切れないほどの剣が空を埋め尽くしていた場所とは思えない。
寝袋の中でしばらく天井を眺めてから、ゆっくりと身体を起こす。
「……朝か」
もっとも、地下450階近くに朝も夜もない。
時計を確認して、そう判断しただけだ。
立ち上がって軽く肩を回すと、両腕に僅かな痺れが残っていることに気づいた。
「まだ残ってるな……」
昨夜、自分の身体へ2度も雷を落とした影響だろう。
剣にも細かな傷が残っていた。身体の方も無傷とはいかなかったらしい。
とはいえ、動かすのに支障があるほどではない。
「……腹減った」
昨夜と同じように折り畳みのテーブルと椅子を出し、簡単な朝食を用意する。
温かい飯に、残っていた肉。簡単な汁物も添えた。
昨日まで最終試練が行われていた場所に、再び食事の匂いが漂い始める。
幸一郎は黙々と食べた。
4か月。
堺東ダンジョンへ入ってから、それだけの時間が過ぎている。
途中、180階付近で一度外へ連絡を入れたものの、それ以降はほぼ地上との接触もなかった。
さすがに風呂へ入りたい。
着替えたい。
それから――。
「……布団で寝たいな」
昨夜は寝袋でも十分だった。
だが、帰れるとなれば話は別だ。
朝食を終え、使った道具を片付けていく。
寝袋を畳み、椅子とテーブルを収納し、最後に荷物を確認する。
「よし」
これで終わり。
そう思って周囲を見回した時だった。
壁際に、薄い光が浮かんでいることに気づいた。
「ん?」
近づいてみる。
そこにあったのは、半透明の板のようなものだった。
いくつかの文字が浮かび、幸一郎が近づくと、それを認識したかのように表示が切り替わる。
見覚えがあった。
「あぁ、こっちにもあんのか……」
六甲山ダンジョンを完全踏破した時にも現れた制御パネルだった。
特に驚くこともなく、表示されている項目へ目を通す。
その中のひとつで、指が止まった。
『資材』
「…………」
軽く開いて中を確認する。
六甲山で見たものと、大きくは変わらないようだった。
「まあ、こっちは後でいいか」
今すぐどうこうする必要もない。
表示を戻し、次の項目へ目を移す。
『稼働状態』
現在は通常状態。
そして、その下には待機モードへの変更項目が表示されていた。
「これも同じか」
幸一郎は迷うことなく項目を選択する。
六甲山で確認したものと同じなら、待機モードへ移行したダンジョンの入口には透明な障壁が形成される。
外から踏破者以外が侵入することはできない。
同時に、中にいるモンスターも外へ出られなくなる。
つまり、ダンジョンからモンスターが溢れ出すスタンピードが発生しなくなる。
ただし、踏破者だけは例外だ。
待機状態になった後も、自由に出入りすることができる。
確認表示が現れた。
幸一郎はそのまま決定を押す。
『待機モードへ移行しました』
「よし」
それだけだった。
世界中が注目した堺東ダンジョンは、その瞬間をもって待機状態へ移行した。
だが、操作した本人にとっては、六甲山でも行ったことをもう一度繰り返したに過ぎない。
パネルを閉じ、荷物を背負う。
今度こそ最奥部を振り返った。
「さて……帰るか」
四か月に及んだ堺東ダンジョン攻略が、ようやく終わった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
堺東ダンジョンの入口では、ちょっとした騒ぎが起きていた。
「入れません!」
「どういうことだ?」
「分かりません。突然、何かに弾かれるようになって……」
JHA職員が入口へ手を伸ばす。
何もないように見える。
だが、その手は入口の直前で止まった。
押しても動かない。
まるで分厚い透明な壁でも存在しているかのようだった。
「昨日までこんなものはなかったぞ」
「当然です。今朝突然です」
「真神さんは?」
「位置情報は動いています。最終エリアから上層へ向かっているようです」
別の職員が慌ただしく端末を操作していたが、やがてその手が止まった。
「……待ってください」
「どうした?」
「これ、六甲山と同じじゃないですか?」
周囲が静かになる。
六甲山ダンジョン。
日本で初めて完全踏破されたダンジョン。
その入口にも、同様の障壁が存在している。
「待機状態……?」
「おそらく」
「じゃあ、モンスターは?」
「六甲山と同じなら、出てきません」
それが意味することを理解するまで、僅かに時間がかかった。
「……スタンピードが起きない?」
「そういうことになります」
誰かが呟いた。
それまで周辺地域が常に抱えていた危険が、たった今ひとつ消えたことになる。
そして、それを行った本人は現在、地下からこちらへ向かっているらしい。
◇ ◇ ◇
その報告がJHA大阪支部へ届いた頃。
藤堂は別の問題を前に、すでに頭を抱えていた。
机の上の端末には、昨夜東京本部で行われた緊急会議の議事録が表示されている。
一度、最後まで読んだ。
もう一度読んだ。
それでも内容は変わらなかった。
「……本気か、これ」
向かいに座る職員が困ったような顔をする。
「まだ方針案です」
「分かってる」
「決定事項ではありません」
「それも分かってる」
問題はそこではなかった。
こんな内容が、東京で夜を徹して真剣に話し合われたという事実である。
長期間ダンジョンを攻略する際の定期連絡。
一定以上の危険度を持つダンジョンへの事前申請。
活動予定の報告。
取得物の流通管理。
国外で活動する場合の事前調整。
そして、一定以上の能力を有するハンターを対象とした、新たな管理制度。
「一定以上の能力……ねえ」
藤堂が呟く。
「これ、現状で真神さん以外に対象になる奴いるのか?」
「基準の設定次第でしょうけど……」
職員は少し考えてから答えた。
「いないでしょうね」
「だよな」
制度としては特定個人を対象にしていない。
東京の法務担当も、その形なら法的には整理できると判断したらしい。
だが、実際に該当する人間が1人しかいないのなら、本人から見れば大した違いはない。
さらにページを送る。
そこで藤堂の指が止まった。
――日本国民である以上、国家が必要とする場合には、その能力に応じた責任を果たすべきである。
「……誰だ、これ言ったの」
職員は答えなかった。
答える必要もない。
発言者の肩書きまで記録されている。
「これ、絶対そのまま真神さんに言うなよ」
「言いませんよ」
「絶対だぞ」
「私だって死にたくありません」
「そういう意味じゃない」
藤堂が顔を上げる。
職員は真顔だった。
昨夜の戦闘を見た後では、冗談として笑うには少々生々しい。
「……まあ、気持ちは分かるけどな」
藤堂は再び議事録へ視線を戻した。
しばらく読み進めてから、ぽつりと呟く。
「この人たち、分かってるのかな」
「何をです?」
「真神さんが、なんで8年前にダンジョンへ入ったのか」
冒険がしたかったからではない。
ハンターになりたかったからでもない。
地上に居場所を失い、最後に逃げ込んだ場所がダンジョンだった。
そして8年後、ようやく戻ってきた。
戻ってきたからといって、地上社会への信頼まで一緒に戻ってきたわけではない。
「大阪支部には、ある程度協力的ではあります」
「違う」
藤堂は即座に否定した。
「俺たちを信用してるんじゃない」
職員が黙る。
「何度か話して、話を聞いて、少しずつ積み上げてるだけだ。真神さんが多少こっちの話を聞いてくれるからって、それをJHAそのものへの信頼だと思ったら駄目だ」
藤堂は議事録を指先で叩いた。
「俺個人への信頼と、組織への信頼を一緒にするなって報告にも書いただろ」
「……書いてありますね」
「読んでないのかな」
「読んだ上でこれなんじゃないですか?」
「もっと嫌だよ」
藤堂が大きく息を吐いた。
その時、扉が開いた。
「支部長」
職員が端末を手に入ってくる。
「今度は何だ?」
「堺東ダンジョンです。入口に障壁が発生しました」
藤堂の表情が変わる。
「障壁?」
「はい。外部から侵入できません。六甲山で確認されているものと同一と思われます」
「……待機状態か」
「おそらく」
藤堂は椅子へ深く座り直した。
「モンスターは?」
「六甲山と同じ仕様なら、外へ出ることもできません」
「ということは」
「堺東ダンジョンからスタンピードが発生する危険は、なくなったと考えていいかと」
室内が静まり返った。
藤堂はゆっくりと机の上へ目を落とす。
東京本部から届いた議事録。
――国家と国民の安全のため、その能力に応じた責任ある行動を求める必要がある。
その横へ、新しく届いた報告書を置く。
――堺東ダンジョン、待機状態へ移行。
――外部からの侵入不能。
――内部モンスターの流出も確認されず。
藤堂は2つを交互に眺めた。
「……なあ」
「はい」
「これ、東京へそのまま送ってくれ」
「そのままですか?」
「ああ」
もう一度、議事録を見る。
「国民の安全のために責任を果たせって言う前にさ」
藤堂は小さく息を吐いた。
「もう果たしてるじゃないか」
誰も反論しなかった。
しかも、誰かに命令されたわけでもない。
報酬を要求したわけでもない。
4か月かけて堺東ダンジョンを完全踏破し、その翌朝にはスタンピードの危険まで消している。
それでもなお、力を持つ者には相応の責任を――と求めるつもりなのだろうか。
「真神さんの現在位置は?」
「移動を開始しています。上層へ向かっています」
「連絡は?」
「ありません」
「……まあ、そうだろうな」
藤堂は少し考える。
昨夜、東京で何が話し合われていたのか。
それを4か月ぶりに地上へ戻ってくる人間へ、真っ先に伝える気にはなれなかった。
「帰ってきたら、とりあえず風呂と飯だな」
「必要なら宿泊場所も手配しますか?」
「ああ。それでいい」
話をするにしても、その後だ。
藤堂がそう言って端末を閉じようとした時だった。
机の上の電話が鳴った。
「……今度は何だよ」
内線ではなかった。
表示されている番号にも見覚えがない。
藤堂は一度画面を確認してから受話器を取った。
「はい。日本ハンター協会大阪支部、藤堂です」
『藤堂支部長ご本人でお間違いありませんか?』
聞こえてきたのは女の声だった。
流暢な日本語だが、僅かに外国人らしい響きがある。
「そうですが。どちら様でしょうか」
『突然のお電話、失礼いたします』
一拍。
『レイチェル・アシュフォードと申します』
「レイチェル・アシュフォード……?」
藤堂はその名前を繰り返した。
そして数秒後。
「…………まさか」
その顔から、すっと血の気が引いた。
向かいにいた職員が、藤堂の変化に気づいて眉をひそめる。
受話器の向こうからは、変わらず穏やかな女の声が返ってきた。
『ご存じいただけているようで何よりです』
昨夜、日本では真神幸一郎をどう自分たちの枠の中へ留めるかが話し合われていた。
その議論が終わった翌朝。
遠く離れた場所から、一本の電話がかかってきた。
真神幸一郎本人が何も知らないところで。
世界が、動き始めていた。




