第1章 第34話 首輪
第二回配信が終了した後も、JHA大阪支部の大型モニターにはしばらく《配信終了》の文字が残っていた。
「……終わりましたね」「終わったな」「結局、晩飯どっちにしたんでしょう」「そこ気にする?」「いや、二時間も見せられたら気になるでしょう」
素材担当がぼそりと呟いた。「鱗、拾うって言ってましたよね」「言ってたな」「……何枚目でしょう」「知らん」「一枚くらいくれないかな……」「本人に言え」
二か月ぶりに届いた配信だった。地下180階。国内公式最深到達記録を百階以上更新し、ドラゴンとキマイラの縄張り争いを「じゃれ合い」と呼び、最後にはどちらを晩飯にするか悩んで配信を終えた。いつもの真神幸一郎だった。少なくとも、大阪支部の職員たちにはそう見えていた。
その日の夕方、本部から一通の通知が届いた。《真神幸一郎に関する管理体制検討案》。藤堂が資料を開くと、探索計画の事前提出、現在階層の定期報告、高危険度素材の取得申告、配信前の事前連絡、地上への高危険度魔物の持ち込み禁止などが並んでいた。
「……まあ、最後のは分からなくもないですね」「警察署にドラゴン置いてくるとか言ってましたし」「結局やめましたけどね」「やめたからいい、で済ませられないのが本部なんでしょう」
藤堂にもそれは理解できた。一つ一つを見れば極端な要求ではない。通常の探索者にも求められる内容が多く、特に高危険度魔物の地上への持ち込みについては、今回の発言を聞けば何らかの規定を設けようとするのも当然だった。
だが資料の最後で、藤堂の指が止まった。
《重大な規定違反が認められた場合、探索者資格の一時停止を含む処分を検討する》
「……資格停止?」「真神さんの?」「そう書いてありますね」
しばらく誰も何も言わなかった。やがて若い職員が口を開く。「それ……まずくないですか?」「何が?」「資格停止されたら、真神さん、ダンジョン攻略できなくなりますよね」
室内が静かになった。探索者資格を停止されれば、ダンジョンへの正式な入場許可は下りず、攻略を継続することもできない。現在、幸一郎が潜っている堺東ダンジョンは未踏破。国内公式最深到達記録は76階。それに対し幸一郎の現在地はおよそ地下180階。そして六甲山ダンジョンを世界で初めて完全踏破した唯一の探索者でもある。
「……自分たちで攻略止めることになるんですか?」「そうなりますね」「でも資格停止しても、真神さんなら勝手に――」「しませんよ」
藤堂が即答した。
「たぶん、ものすごく素直に従います」「……真神さんが?」「ええ。嫌味の一つくらいは言うでしょうけど、『じゃあ休むわ』で終わりでしょうね。家に帰って、昼まで寝て、飯食って、また寝てるんじゃないですか」
誰も否定できなかった。
「本人、困らないんじゃ……」「そこなんですよ」
藤堂は資料を机へ置いた。「困るのは私たちです」
堺東の攻略は止まる。深層情報も入ってこない。未知素材も持ち帰られない。今後、別の未踏破ダンジョンが問題になったとしても、資格を停止した人間へ都合よく攻略だけ頼むわけにはいかない。
「資格停止を脅しに使う相手としては、最悪ですね……」「脅された本人が喜んで休暇に入りますからね」「本部、そこまで考えてるんですか?」
藤堂は答えなかった。
その日の夜、藤堂は本部へ電話をかけた。相手は管理体制案を取りまとめた担当者だった。
『資料は見てもらえましたか』
「ええ。それで確認したいことがあります。資格停止、本気ですか?」
『最終手段です』
「その最終手段を使った後のことは?」
『規則に従ってもらいます』
「従いますよ」
即答だった。
『……何が問題なんです?』
「真神さんなら、たぶん『じゃあ休むわ』で終わります。資格が戻るまで家でぐうたらしてますよ」
『それなら処分として機能しているでしょう』
「ええ。完璧に。だから困るんです」
電話の向こうが黙った。
「現在、堺東地下180階。国内記録は76階。六甲山を完全踏破した唯一の人間を、JHA自身が家で寝かせることになる。本人は何も困りません。困るのはこちらです」
『だからといって、彼だけ特別扱いするわけにはいきません』
「そこは理解しています。ただ、本部は真神さんを他の探索者と同じ規則で管理しようとする一方、他の探索者にはできないことを真神さんに期待している。同じ規則を適用するなら構いません。その代わり、同じ義務しか期待しないことです。資格を止めた後で『堺東だけは攻略してくれ』は通りませんよ」
長い沈黙があった。
『それでも何もしないわけにはいかない。彼が本当に高危険度魔物を地上へ持ち込んだら、藤堂支部長、あなたが責任を取れるんですか?』
藤堂は答えられなかった。そこだけは本部が正しい。
「……分かっています」
『我々は「真神君なら大丈夫だろう」で制度を運用することはできません』
「分かっています。分かっているから困っているんです。ただ、一つだけ覚えておいてください」
『何です?』
「真神さんに首輪をつけても、引っ張ればこちらへ来るとは限りません。最初はたぶん、その場に座り込みます」
『……』
「それでも引っ張り続けたら、首輪を引きちぎって別の小屋へ行きますよ。あの人は」
『別の小屋、ですか』
「JHAに所属し続けなければならない理由なんて、真神さんにはありませんから」
『海外へ行くと?』
「分かりません。ただ、ここにいることが面倒だと思えば出ていくでしょうね」
『そう簡単に――』
「簡単なんですよ、真神さんにとっては。困るのは、出ていく本人じゃない。残される私たちです」
電話の向こうから返事はなかった。
深夜。職員のほとんどが帰った大阪支部で、藤堂は一人、自席に残っていた。
モニターには《真神幸一郎管理体制検討案》。本部の主張にも理屈はある。何かが起きてからでは遅い。それは藤堂にも分かっている。だが今回この案を止められたとしても、幸一郎がさらに深く潜り、もっと危険な魔物を倒し、未知の素材を持ち帰るたびに、同じ議論は何度でも繰り返されるだろう。
藤堂は管理体制案を閉じた。
――別の小屋。
自分で口にした言葉だった。
「……実際、あるのか?」
探索者の所属規定を開く。国内協会、海外協会、国際登録、所属変更。ページを送っていた指が、一か所で止まった。
《国内協会に所属しない探索者の国際登録――》
藤堂はその先を読み進める。所属条件。権限。各国協会との関係。
「…………あるじゃないですか。別の小屋」
冗談のような言葉だった。だが画面に表示されている制度は、冗談ではない。
真神幸一郎をJHAの中で守る方法ではなく、JHAから出すことで守る方法。
その夜、藤堂は初めて、その可能性を本気で考え始めていた。




