第1章 第32話 見えない恐怖
八年前、真神幸一郎と同じ教室にいた生徒たちも、それぞれの人生を歩んでいた。進学した者、就職した者、地元を離れた者、結婚した者。そして、探索者になった者もいた。
男はダンジョンの休憩所で、スマートフォンに流れる映像を見ていた。画面の中では巨大なドラゴンとキマイラが岩壁を砕きながら争い、その少し手前で幸一郎が座っている。
『そういや今どの辺だっけ……大体、地下180階くらいかなぁ』
「……化け物かよ、真神」
侮辱ではなかった。探索者になって六年。仲間とパーティーを組み、装備を整え、何度も負傷しながら潜ってきた。現在の自己最高到達階層は地下二十八階。それでも一般的には十分な経験を積んだ探索者だった。だからこそ分かる。地下180階という数字がどれほど馬鹿げているのか。画面の向こうで殺し合っている二体のどちらか一体でも地上へ出れば、自分たちでは戦闘にすらならない。そして幸一郎は、それを晩飯の候補にしている。
『……どっちか生け捕りにして、警察署にでも置いてくるか。力が正義だってんなら……まあ、力で制圧できるんだろ』
男の笑みが消えた。その後、幸一郎は「関係ない奴まで巻き込む」と考え直した。それを聞いた時は安堵した。だが、すぐに別の考えが浮かんだ。
――俺は、関係ないのか?
「知り合い?」
隣のパーティーメンバーが聞いた。
「……高校の同級生」
「マジで? どんな奴だった?」
男は答えようとして、口を止めた。八年前にも同じ質問をされたことがある。相手は記者だった。
――真神君は普段、どんな生徒でしたか?
――普通ですよ。でも、あんまり人とつるむタイプじゃなかったかな。
そこまでは事実だった。
――事件を起こしたと聞いて、意外でしたか?
――まあ……でも、言われてみればって感じはあります。
なぜそんなことを言ったのか。特に理由はなかった。警察が逮捕した。ニュースでも連日報じられていた。記者に聞かれ、何かそれらしいことを言わなければならないような気がしただけだった。
翌日、テレビではその部分が使われた。
《同級生「言われてみればという感じ」》
それを幸一郎が見たのかは知らない。だが、もし見ていたら。八年間、覚えていたら。
男は無意識にスマートフォンを握り直した。地下二十八階まで来られるようになった自分を、それなりの探索者だと思っていた。だが地下180階にいる幸一郎から見れば、何の意味もない。戦えばどうなるかなど、考える必要すらなかった。
「……なあ、大丈夫か?」
「悪い。何でもない」
「で、どんな奴だったんだ?」
男は画面を見た。
「……普通の奴だったよ」
「それだけ?」
「ああ」
今度は、それ以上付け加えなかった。
別の場所。かつて同じ教室にいた女性は、夕食の準備をしながらテレビを見ていた。幼い娘がリビングで遊んでいる。画面には十七歳の幸一郎の写真と、《検証・八年前の真神幸一郎事件》の文字が映っていた。
女性の手が止まった。
八年前。教室から幸一郎の机がなくなった日、友人たちとその話をした。
――真神君、本当にやったのかな。
――警察に捕まったんだから、そうなんじゃない? ちょっと怖いよね。
それだけだった。本人を罵倒したわけでも、ネットに書き込んだわけでも、記者の取材に答えたわけでもない。ただ友達との会話でそう言った。八年間、それを罪だと思ったことなどなかった。
だが最近、時々考える。
幸一郎はどこまで覚えているのだろう。自分の名前を覚えているだろうか。教室で誰が何を言っていたのか、知っているのだろうか。そして何より、自分は幸一郎の言う「関係者」に入るのだろうか。
テレビから幸一郎の声が流れる。
『まあ、関係ない奴まで巻き込むしな』
女性は無意識に娘を見た。娘は間違いなく関係ない。夫もそうだ。
では、自分は。
『じゃあ全員関係者か……いや、さすがに雑すぎるか。八つ当たりするほど落ちちゃいないしな』
少しだけ息を吐いた。それでも安心しきれなかった。幸一郎が何を「八つ当たり」と考え、誰を「関係者」と考えているのか、自分には分からない。
「ママ?」
娘の声で我に返った。
「なに?」
「この人、悪い人?」
娘がテレビを指していた。十七歳の幸一郎の写真だった。
女性は一瞬、答えられなかった。八年前なら簡単だった。警察に捕まったから。ニュースで言っているから。みんながそう言っているから。だが今、自分の娘に同じ答えを教えることはできなかった。
「……違うよ」
「じゃあ、なんでテレビに出てるの?」
「みんなが、この人のことを悪い人だと思ったことがあったの」
「ほんとは?」
「悪いこと、してなかった」
娘は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、なんで?」
答えられなかった。警察が間違えたから。テレビが報じたから。誰かが嘘をついたから。理由はいくらでもある。でも、その中には自分もいた。
――ちょっと怖いよね。
ほんの一言。ただ、それだけだった。
「ママも?」
「……え?」
「ママも、この人のこと悪い人だと思ったの?」
女性の身体が僅かに固まった。子供に深い意味などない。ただ疑問に思っただけだった。
「……うん。ママも、間違えた」
娘は少し考えると、また玩具へ戻っていった。
女性だけが動けなかった。画面には現在の幸一郎が映っている。八年前、自分たちが「怖い」と話していた少年は、本当に世界中から恐れられるほどの力を持って帰ってきた。
だが今感じている恐怖は、その力だけではなかった。自分が八年前に何を言ったのか。幸一郎がそれを知っているのか。もし覚えていたなら、自分をどう思っているのか。
何一つ分からなかった。
同じ教室にいた二人。一人は探索者となり、地下二十八階から百八十階を見上げていた。一人は母親となり、自分の子供に八年前の自分と同じ間違いを教えまいとしていた。
二人とも幸一郎を殴ってはいない。追い出してもいない。六甲山へ行けとも言っていない。ただ、疑った。一人は求められるまま余計な一言を口にし、一人は友人との会話で「怖い」と言った。
それだけだった。
だが、その「それだけ」を幸一郎がどう受け取っていたのかは分からない。謝るべきなのか。今さら連絡するべきなのか。それとも、自分たちのことなどとっくに忘れているのか。
そして二人とも、心のどこかで同じことを願っていた。
どうか、自分のことなど覚えていませんように。




