第1章 第31話 居場所
真神幸一郎の八年前を検証する動きは、警察、政府、報道機関だけでは終わらなかった。当時十七歳だった彼には、もう一つ所属していた場所がある。
学校だった。
八年前、幸一郎の担任だった女性教師は、今も同じ学校に勤めていた。職員室の端末には《当時の学校側の対応について》《真神幸一郎氏の在学中の様子について》といった取材依頼が並んでいる。
幸一郎が逮捕された翌日、教室では彼の席だけが空いていた。
――先生、真神、本当にやったんですか。
――現在警察が捜査しています。憶測で話をしないように。
学校から指示された通りの言葉だった。
数日後、担任は学年主任に呼ばれた。
――真神の机、いったん下げよう。
――下げるんですか?
――マスコミも来てる。他の生徒への影響もある。このまま置いておく必要はないだろう。
退学処分が決まったわけではない。起訴すらされていない。それでも彼女は反論できなかった。
放課後、誰もいなくなった教室で、幸一郎の机を片付けた。教科書、ノート、筆箱、体育館シューズ。その中から一枚の紙が出てきた。
《進路希望調査票》
第一希望も第二希望も空欄だった。
――真神君、また進路希望出してないでしょう。
――まだ決めてないんですよ。
――決めてなくても出すの。来週までね。
そんな会話をしたのは、事件の少し前だった。
「……結局、出してくれなかったな」
彼女は小さく呟いた。
机は倉庫へ運ばれた。
ただ、机の横についていた小さな名札だけは、どうしても捨てられなかった。
《真神幸一郎》
八年経った今も、その名札は彼女の机の一番下の引き出しに入っていた。
当時の学年主任も、連日の報道を見ていた。
「あの時は仕方なかったんだよ」
学校の前には報道陣が押しかけ、生徒が登下校するたびにカメラを向けられた。保護者からの問い合わせも殺到した。学校には何百人もの生徒がいる。一人だけを見ていればいい状況ではなかった。
他の生徒を守るため、幸一郎の机を下げた。
その判断自体が間違っていたとは、今でも思っていない。
ただ、テレビから聞こえてきた言葉が耳に残った。
『十七歳の子供が、安全なはずの場所ではなく、死ぬかもしれないダンジョンを逃げ場所に選んだ』
学年主任はリモコンへ手を伸ばした。
だが、画面を消すことはできなかった。
当時の教頭は現在、別の高校で校長を務めていた。そして四人の中で最初に、公の場で八年前について問われることになった。
「当時、学校としては警察の捜査を尊重し、他の生徒への影響を最小限にするため、可能な範囲で適切な対応を行ったと認識しております」
記者が手を挙げた。
「真神さんの机を教室から撤去したという証言があります。事実でしょうか」
「個別の校内対応については、当時の記録を確認する必要があります」
「逮捕後、真神さんが学校へ戻ることを前提とした対応は行われていたのでしょうか」
「退学処分等を行った事実はないと認識しております」
「処分しなかったことと、戻れる場所を残したことは同じでしょうか」
校長は一瞬、言葉を止めた。
別の記者が続ける。
「現在、校長先生の学校の十七歳の生徒が逮捕され、本人が一貫して否認していた場合、その生徒の机を撤去しますか?」
「仮定の質問については、お答えしかねます」
「八年前は仮定ではありません。真神幸一郎さんという十七歳の生徒が、実際にいました」
僅かな沈黙が生まれた。
「では、冤罪が判明した後、学校は真神さんの名誉回復のために何を行ったのでしょうか」
「……当時の記録を確認した上で、改めて回答いたします」
取材はそこで打ち切られた。
当時の校長は、すでに教育現場を引退していた。
自宅の書斎で八年前の資料を開く。《本校生徒の逮捕について》と題された保護者向け文書には、生徒への取材自粛、登下校時の安全確保、保護者への説明、報道窓口の一本化などが記されていた。
どれも必要な対応だった。
だが、何度読み返しても一つだけ見つからなかった。
真神幸一郎をどう守るか。
その記述が、どこにもなかった。
テレビでは八年前のニュース映像が流れている。制服姿の幸一郎。その横には《逮捕された男子高校生》という文字が表示されていた。
元校長は長い間、その画面を見ていた。
「……あの子は、うちの生徒だったんだよな」
当たり前のことだった。
だが八年前、自分たちはいつから彼を「生徒」ではなく、「事件」として扱うようになったのだろう。
数日後。
女性教師は放課後の誰もいない教室にいた。
窓際から三列目。
八年前、幸一郎の机があった場所だった。
冤罪が判明した時、彼女は倉庫から机を戻した。
戻ってくるかもしれないと思った。
いや。
戻ってきてほしかった。
だが、その時にはもう遅かった。
幸一郎は六甲山ダンジョンへ入っていた。
机はそのまま残した。
誰にも使わせなかった。
卒業式の日まで。
彼女は八年間捨てられなかった名札を取り出した。
《真神幸一郎》
そして、事件前に提出されるはずだった進路希望調査票を思い出す。
第一希望、空欄。
第二希望、空欄。
あの頃の彼には、まだこれから選ぶはずの進路がいくつもあった。
大学でも、就職でも、探索者でも。
何にだってなれたはずだった。
それが八年後。
世界初のダンジョン完全踏破者。
暫定EX。
地下180階でドラゴンとキマイラを眺めながら、どちらを晩飯にするか悩む男。
彼女は少しだけ笑った。
「……真神君」
八年前と同じ呼び方だった。
「進路希望、結局出してくれなかったね」
笑みは長く続かなかった。
「ごめんね」
誰もいない教室に、小さな声だけが残る。
「先生、遅かったね」
誰かが幸一郎に「学校を出ていけ」と言ったわけではなかった。
誰かが六甲山へ行けと言ったわけでもなかった。
それでも、十七歳の真神幸一郎が戻ろうとした時。
そこにあるはずだった席は、もうなかった。
彼女の頬を、一筋だけ涙が伝った。
それを拭う者も、見る者もいなかった。




