第1章 第30話 家族…
真神幸一郎が帰還してから、すでに二か月以上が経っていた。その間、一度も連絡はなかった。父にも、義母にも、義姉にも、義妹にも。
生存が確認されたのは家族への電話ではない。六甲山ダンジョンから一人の男が帰還したというJHAの発表と、その後の報道だった。八年間行方不明だった息子が生きて帰ってきた。父親がそれを知ったのはテレビだった。そして今、幸一郎は再び堺東ダンジョンへ入り、地下180階付近まで到達している。二か月ぶりの配信では巨大なドラゴンとキマイラの縄張り争いを眺めながら、どちらを晩飯にするかと呟いていた。それも家族は報道で知った。
リビングでは八年前の誤認逮捕を検証するニュースが流れていた。警察の再発防止、その後も繰り返された誤認逮捕、政府の対応、当時の過熱報道。社会全体が少しずつ八年前の真神幸一郎へ視線を戻し始めている。
父親は無言で画面を見ていた。
「今さら、こんな報道して何になるの」
義姉が口を開いた。
「警察が間違えたのは事実でしょ。でも当時は証言もあった。警察だって逮捕するだけの理由があるって説明してた。私たちだって何も知らされてなかったんだから」
「だから?」
義母が聞く。
「だから、あの時の私たちまで悪かったみたいに言われるのは違うって言ってるの」
父親も低い声で続けた。
「そうだ。あの状況で全部信じろって方が無理だった」
「あなたは父親でしょう」
「父親だからだ。あいつが本当にやったなら、親として向き合わなきゃならなかった。警察から説明されて、証言もあると言われて、それでも何も考えずに『息子だから信じます』で済ませられるか?」
「幸一郎は、やってないと言ってたんでしょう?」
父親は答えなかった。
八年前、十七歳の幸一郎は何度も否定した。やっていない。知らない。信じてくれ。最初は父親も信じていた。だが警察から説明を受けた。証言があると言われた。テレビでは連日事件が報じられ、近所からも見られ、職場にも知られた。
そして、ある日。
――本当に、お前じゃないんだな?
たった一度だった。だが、その時の幸一郎の顔を父親は今でも覚えている。怒らなかった。泣かなかった。ただ父親を見て、
――父さんもか。
そう言った。
その後、冤罪が判明した。だが、もう遅かった。幸一郎は六甲山ダンジョンへ入っていた。それから八年間、一度も帰ってこなかった。
「お父さんだけじゃないよ。私だって被害者だったんだから」
義妹が小さな声で言った。
「学校でずっと言われた。犯罪者の家族だって。友達も離れた。ネットにも書かれた。家の前に記者まで来た。私、何もしてないのに。八年間だよ? お兄ちゃんがいなくなってからも、ずっとあの事件の家族だった。私だって人生めちゃくちゃにされたんだよ」
「そうね。あなたも被害者だった。それは本当よ」
義母は否定しなかった。
「でも、幸一郎も被害者だったのよ」
「そんなの分かってる」
「本当に?」
「分かってるよ!」
「だったら、今あなたが話している八年間に、幸一郎の八年間が一度も出てこないのはどうして?」
義妹が黙った。
六甲山ダンジョン、地下500階。世界で初めて完全踏破された場所。地上では八年間、家族も苦しんだ。では、その八年間、十七歳だった幸一郎はどこで何をしていたのか。誰も知らない。
「でも、幸一郎だって勝手にダンジョンに入ったんでしょ。そこまで家族の責任にされても困るわ」
義姉だった。
義母はしばらく何も言わなかった。
「……そうね。自分で入ったわ」
「だったら――」
「じゃあ、どうして?」
義姉の言葉が止まった。
「どうして十七歳の子が、一人で六甲山ダンジョンに入ったの?」
「それは……」
「入れば死ぬかもしれない。帰ってこられないかもしれない。そんなこと、幸一郎だって分かってたでしょう。それでも入ったのよ」
誰も口を挟まなかった。
「警察には信じてもらえなかった。学校にも居場所がなくなった。世間からは犯人として見られた。家の前には記者がいた。そして家に帰ってきても、自分を信じてくれる人がいなかった」
「お義母さん、それは――」
「違う?」
義姉は答えられなかった。
「逃げたんでしょうね」
義母はテレビへ視線を戻した。
「でも、逃げられる場所がそこにしかなかったのよ」
その一言で、誰も何も言えなくなった。
「十七歳の子供が、安全なはずの家じゃなくて、死ぬかもしれないダンジョンの方を『逃げ場所』に選んだの。それでもあなたは、『勝手に入った』の一言で終わらせるの?」
義姉の唇が僅かに動いたが、声は出なかった。
「家族が幸一郎をダンジョンに入れたわけじゃない。それはその通りよ。誰も命令してない。誰も背中を押してない。でもね、あの子が帰る場所をなくしたことまで、私たちは『関係ない』って言えるの?」
誰も答えなかった。
六甲山ダンジョン、地下500階。八年間。
これまで家族にとって、それは幸一郎が自ら選んだ失踪だった。だが今、その意味が少しだけ変わっていた。
十七歳の幸一郎は、ダンジョンへ行きたかったのではない。
ほかに、行ける場所がなかった。
長い沈黙のあと、義姉が小さく息を吐いた。
「……でも、今さら私たちにどうしろっていうの」
先ほどまでの強さは、少しだけ消えていた。
「謝ればいいの? 八年前のことを全部謝って、それで何か変わるの?」
「それは私にも分からないわ」
義母は答えた。
「幸一郎が謝ってほしいと思ってるのかも分からない」
「だったら――」
「でも、一つだけ分かることがあるでしょう」
義母は家族を見渡した。
「幸一郎から、連絡が来ていない」
誰も答えなかった。
「帰ってきて二か月以上よ。八年間、生きていたのよ。帰ってきたのよ。電話も持ってる。JHAとも連絡を取ってる。お義父さんとお義母さんのところには、自分から行った。でも、ここには来なかった」
「忙しいんじゃ――」
義姉が反射的に口にする。
「電話一本する時間も?」
それで言葉が止まった。
「私たちの電話番号を知らないわけじゃない。住所が分からないわけでもない。連絡する方法がないわけでもない。幸一郎は私たちに怒鳴ってない。責めてもいない。謝れとも言ってない」
義母はテーブルの上のスマートフォンを見る。
「ただ、連絡してこないのよ」
その言葉だけが残った。
義姉は何か言おうとしてやめ、義妹は俯いた。父親はテレビを見たまま動かなかった。画面には地下180階で欠伸をする幸一郎が映っている。怪我もない。痩せてもいない。笑っている。生きている。
八年間、死んだと思っていた息子がそこにいる。それなのに父親は、その声をテレビ越しにしか聞いていなかった。
「……俺は父親だぞ」
誰に言うでもなく、父親が呟いた。
「ええ」
義母が答える。
「血の繋がった、たった一人の父親だ」
「ええ」
「だったら……」
その先が続かなかった。
だったら、なぜ連絡がない。
口に出せば、自分で答えを認めることになる。
八年前、父親は息子に聞いた。
――本当に、お前じゃないんだな?
息子は答えた。
――父さんもか。
それが、父親が直接聞いた幸一郎の最後の言葉だった。




