第1章 第20話 始動
その頃、JHA大阪支部では、一つの会議が長引いていた。
議題は、この一週間で何度となく持ち込まれてきたものだった。
真神幸一郎。
世界で初めてダンジョンを完全踏破し、八年ぶりに地上へ帰還した男。
帰還直後こそ、その存在をどう扱うべきか誰も判断できなかった。だが、JHAが暫定ながら新たなランクを設け、世界初の完全踏破者として正式に発表したことで状況は変わった。
真神幸一郎が持つ情報には、極めて高い価値がある。
それが各方面の共通認識になりつつあった。
「ですから、我々としても彼を拘束しろと言っているわけではありません」
行政側の出席者が、何度目かになる説明を繰り返した。
「八年間です。これまで誰も到達できなかった領域で、彼は八年間も生存していた。その間に何を見たのか。何があったのか。六甲山ダンジョンの最奥には何があったのか。国として確認しなければならないことがあまりにも多い」
「それについては否定しておりません」
藤堂は答えた。
「正式な照会であれば、本人へ伝達します」
「伝達だけでは困ると言っているんです」
「では、何をお求めですか?」
「面会です」
「本人が望んでいません」
「ですから、そこを協会から説得していただきたい」
「いたしません」
即答だった。
会議室の空気が重くなる。
このやり取りも、既に何度目か分からない。
別の出席者が資料を開いた。
「完全踏破の方法についてはどうです? 攻略経路、出現した魔物、階層構造、最深部で得られた物品。これらは今後のハンターの安全にも直結する情報でしょう」
「本人から提供された情報については、本人の許可する範囲で公開を検討します」
「それでは遅い」
「だからといって強制はできません」
「持ち帰った装備や物品の調査は?」
「本人の所有物です」
「一時的な提供を依頼するだけです」
「依頼なら本人へ伝えます」
「協会から強く推奨していただきたい」
「いたしません」
また同じ答えだった。
政治家、行政機関、警察、研究機関、報道機関。
この一週間で大阪支部へ持ち込まれた要求は、数えるのも嫌になるほど増えていた。
八年間の記録を提出してほしい。
六甲山内部の地図を作成してほしい。
持ち帰った素材を研究機関へ提供してほしい。
装備品の性能を確認させてほしい。
完全踏破の経緯について記者会見を開いてほしい。
警察との面会に応じるよう説得してほしい。
そして最近になって加わったのが、今後の行動に関する要求だった。
次にダンジョンへ入る場合には、事前にJHAおよび行政へ計画を提出させるべきではないか。
可能ならば調査員を同行させるべきではないか。
攻略で得られた情報について、一定の報告義務を設けるべきではないか。
中には、完全踏破者という特殊性を理由に、活動そのものを国の管理下へ置くべきだという意見まで出始めていた。
藤堂は、それらをことごとく拒んでいた。
「一つ確認させてください」
藤堂が言った。
「皆さんは、真神氏を何だとお考えですか?」
「どういう意味です?」
「彼はJHAの職員ではありません。国家公務員でもなければ、自衛官でもない。当然、研究機関に所属しているわけでもありません」
藤堂は出席者を見回した。
「一人のハンターです。そして、その前に一人の私人です」
「それは承知しています」
「本当に?」
僅かに空気が変わった。
「世界初の完全踏破者だから情報を出せ。装備を見せろ。次にどこへ行くのか報告しろ。誰かを同行させろ。国と相談してから動け」
藤堂は机の上の資料へ目を落とした。
「それを本人が望んでいないにもかかわらず、JHAから説得しろと仰っている」
誰もすぐには答えなかった。
「我々はハンターの活動を支援し、必要な資格を認定し、ダンジョンの利用を管理しています。しかし、ハンターそのものを所有しているわけではありません」
「所有などという言葉は使っていない」
「ええ。ですから、そうならないよう申し上げています」
行政側の男が小さく息を吐いた。
「藤堂さん。理屈は分かります。しかし彼は普通のハンターではない」
「普通でないから、本人の意思を無視していい理由にはなりません」
「では、今後も好きにさせると?」
「規則の範囲内であれば」
「もし明日にでも別のダンジョンへ入ると言い出したら?」
藤堂が答えようとした、その時だった。
会議室の扉が開いた。
「失礼します」
一人の職員が入ってきた。
会議中に職員が割って入ること自体が珍しかった。
藤堂が顔を上げる。
「どうした」
職員は答えず、そのまま藤堂の傍まで歩いた。
そして耳元で、短く何かを告げた。
「…………」
藤堂の表情が止まった。
先ほどまで、どれほど要求を突きつけられても変わらなかった顔だった。
「いつだ?」
職員が小声で答える。
藤堂の眉が動いた。
「本人から?」
頷く。
「間違いないな?」
もう一度、頷いた。
藤堂は数秒、何も言わなかった。
やがて椅子を引いた。
「申し訳ありません」
立ち上がる。
「本日の会議は、ここで中断します」
「藤堂さん?」
「急用です」
「いや、こちらもまだ話が――」
「後日、改めます」
それまで頑として席を立たなかった藤堂が、有無を言わせず会議を打ち切った。
職員とともに会議室を出る。
扉が閉じる直前、残された者たちには藤堂が何かを指示する声だけが聞こえた。
その後、大阪支部の空気は目に見えて変わった。
複数の部署から責任者が呼び出され、資料が集められた。内線が頻繁に鳴り、職員が廊下を行き交う。
だが、会議に参加していた者たちへ事情が説明されることはなかった。
その日の会議が再開されることもなかった。
翌朝、午前九時。
前日に中断された会議が再び開かれた。
同じ会議室。
同じ顔ぶれ。
議題も、本来なら同じはずだった。
しかし、前日まで繰り返されていた議論が再開されることはなかった。
冒頭。
藤堂から、一つの事実だけが告げられた。
――すでに二時間が経過している。
最初、その意味を理解できた者はいなかった。
何から二時間なのか。
何が始まっているのか。
説明を求める声が上がった。
そして、もう一つの事実が示された。
午前七時。
堺東ダンジョン。
一名のハンターが、単独で入場。
目的――攻略。
会議室の空気が変わるまで、そう時間はかからなかった。
前日、突然入ってきた職員。
耳打ちされた瞬間に変わった藤堂の表情。
打ち切られた会議。
その後、慌ただしく動き始めた大阪支部。
そして。
前日の最後に投げかけられた言葉。
――もし明日にでも別のダンジョンへ入ると言い出したら?
偶然にしては、出来すぎていた。
やがて誰かが、一人の名前を口にした。
真神幸一郎。
JHAは肯定しなかった。
同時に、否定もしなかった。
ただ、資格を持つハンターが規定に従ってダンジョンへ入ることに問題はなく、行政との事前協議を義務づける制度も存在しないことだけが確認された。
そして何より。
もう遅かった。
会議が始まった午前九時の時点で、入場からすでに二時間。
ダンジョン内部では通常の通信手段は使えない。
呼び戻すこともできない。
いつ戻るのかも分からない。
前日まで彼らは、真神幸一郎をどう動かすかについて話し合っていた。
面会させる。
情報を提供させる。
今後の行動を事前に報告させる。
国と協議させる。
だが、その議論に結論が出るより先に。
誰かはもう、次のダンジョンへ入っていた。
午前七時。
堺東ダンジョン。
そして現在、午前九時。
二時間。
会議室にいる誰にも、その二時間で何が起きているのかを知る術はなかった。




