第1章 第19話 胎動
真神幸一郎が六甲山ダンジョンから帰還して、一週間が過ぎた。
その間、幸一郎は祖父母の家からほとんど出なかった。
山間に建つ古い一軒家。
朝になれば祖母が飯を作り、祖父が新聞を広げる。昼になれば縁側から山を眺め、夜になれば三人で食卓を囲む。
八年間、幸一郎の生活にはなかったものばかりだった。
最初の数日は、布団で眠ることにすら違和感があった。
目を閉じる前に周囲の気配を探る。物音がすれば目が覚める。夜中に何度か起きて、自分がどこにいるのか確認する。
だが、そこに魔物はいない。
聞こえるのは虫の声と、風が木々を揺らす音くらいだった。
三日目あたりから、ようやく朝まで眠れるようになった。
祖母の料理を食べた。テレビも見た。新聞も読んだ。JHAから渡されたスマートフォンの操作も覚えた。
八年間で変わったことについて分からないことがあれば、祖父母に聞いた。
逆に二人からダンジョンで何をしていたのか聞かれることもあった。
幸一郎は話せる範囲で答えた。
二人も、それ以上を無理に聞こうとはしなかった。
JHAからは何度か連絡があった。
体調の確認。今後の活動について。必要な支援はないか。
幸一郎は必要最低限の返事だけをした。
警察からの面会要請も、その間に何度か届いた。
すべて断った。
報道機関からの接触についてはJHAが止めているらしく、幸一郎自身が対応することはなかった。
そうして一週間。
世間が真神幸一郎という存在を巡って騒ぎ続ける一方で、本人は静かに祖父母の家で過ごしていた。
七日目の午後。
幸一郎は縁側に座り、スマートフォンを眺めていた。
表示されているのは国内ダンジョン一覧。
六甲山ダンジョン。
その横には、以前にはなかった表示が付いている。
――完全踏破。
指を滑らせる。
未踏破。
次も。
未踏破。
さらに次も。
途中まで攻略されている場所は多い。
だが、最奥へ到達した記録はない。
幸一郎はその文字を眺めていた。
やがて、一つのダンジョンで指が止まる。
現在の最深到達階層。
危険度。
出現する魔物。
過去の攻略記録。
一つずつ確認していると、廊下から足音がした。
祖父だった。
祖父は幸一郎の手元をちらりと見ると、何も言わず、その横へゆっくり腰を下ろした。
二人で庭を見る。
しばらく、何も話さなかった。
「……行くんか?」
祖父が言った。
幸一郎はスマートフォンへ目を落としたまま答えた。
「あぁ」
「そうか」
それだけだった。
祖父は理由を聞かなかった。
この一週間。
幸一郎が一度も家の外へ出ようとしなかったことも。
テレビに自分の名前が出るたび、黙って画面を見ていたことも。
JHAからの電話には出るのに、警察からの面会はすべて断っていたことも。
ずっと傍で見ていた。
「ここは、落ち着く」
幸一郎がぽつりと言った。
「じいちゃんも、ばあちゃんもいる」
「おう」
「ばあちゃんの飯も美味い」
「そら、本人に言うたれ」
「もう言った」
祖父が少し笑った。
幸一郎も僅かに笑った。
しばらくして、幸一郎は庭の向こうへ目を向けた。
「でも……地上には」
言葉が止まる。
祖父は待った。
「ここ以外、俺の居場所ってないんだよな」
祖父の表情は変わらなかった。
「八年経ってるし、知ってる場所もほとんどない。外に出れば俺のことを知ってる奴ばっかりで、知らない奴まで俺のことを話してる」
スマートフォンへ目を落とす。
「警察も、マスコミも……みんな何か俺に聞きたいみたいだし」
「そうやな」
「でもダンジョンなら」
幸一郎の指が、画面の文字に触れた。
未踏破。
「誰も俺を知らない」
祖父は黙って聞いていた。
「魔物が出てくる。襲ってくる。倒す。それだけだ」
八年間。
それが幸一郎の日常だった。
命を奪おうとするものは敵。
倒せば先へ進める。
そこには噂もなかった。
弁明も必要なかった。
誰かに自分を信じてもらう必要もなかった。
「……分かりやすいんだ」
祖父はゆっくり頷いた。
「そうか」
再び沈黙が落ちた。
風が庭の木々を揺らした。
やがて祖父が言った。
「帰ってくるんやろ?」
幸一郎は少しだけ祖父を見た。
「あぁ」
「ほんならええ」
祖父は庭へ目を戻した。
「今度は八年も待たせんなよ」
「それはない」
「そうか」
「ここには帰ってくる」
祖父はそれを聞いて、静かに頷いた。
「それでええ」
家の中から祖母の声がした。
「お茶入ったでー」
祖父が立ち上がる。
幸一郎もスマートフォンの画面を消した。
二人で家の中へ戻る。
八年前。
幸一郎は、帰る場所などないと思って六甲山へ入った。
今は違う。
地上に自分の居場所は、まだ一つしかない。
けれど。
その一つがあるだけで、ダンジョンへ向かう意味は八年前とは違っていた。




