第1章 第18話 8年前の傷痕
同じ頃。
都内のマンションで、一人の女がテレビを見ていた。
二十五歳。
明るく染めた髪に、長いネイル。テーブルには飲みかけのカフェラテと、伏せられたスマートフォンが置かれている。
テレビでは、朝から同じ男の名前が繰り返されていた。
『世界初のダンジョン完全踏破者、真神幸一郎氏――』
「…………」
昨日から、何度聞いたか分からない名前だった。
女はソファに座ったまま、無言で画面を見ていた。
《八年前の冤罪事件》
テロップが切り替わる。
八年前。
彼女は高校生だった。
そして、真神幸一郎を痴漢犯に仕立て上げた。
最初から、彼が犯人ではないことを知っていた。
それでも警察には違うことを話した。
話は思っていた以上に大きくなった。
警察が動き、学校が動き、やがて報道まで始まった。
真神幸一郎は学校からいなくなった。
その後、行方不明になったと聞いた。
当時の彼女が抱いた感想は、ひどく単純なものだった。
――え、マジ?
その程度だった。
死んだかもしれないと聞いた時も、多少気味の悪さは感じた。
だが、自分の生活の方が大事だった。
半年後に嘘が発覚した。
警察にも呼ばれた。
親にも怒られた。
学校でも問題になった。
面倒だった。
それでも時間が経てば、周囲は少しずつ忘れていった。
高校を卒業した。
進学して、就職して。
八年が経った。
終わった話になっていた。
昨日までは。
『真神氏は六甲山ダンジョンを完全踏破し、八年ぶりに生存が確認されました』
女の指が僅かに動いた。
「……いや」
小さく声が漏れた。
『JHAは、世界初の完全踏破者である真神氏について、暫定EXランクとして登録したことを発表――』
「EXって……」
スマートフォンを手に取る。
既に何度も検索していた。
《ハンター EXランク 意味》
《真神幸一郎 強さ》
《六甲山ダンジョン 完全踏破》
《真神幸一郎 8年前》
検索履歴が並んでいた。
どの記事を読んでも、肝心なことは分からない。
どれくらい強いのか。
何ができるのか。
八年間、何をしていたのか。
そして――。
「……冤罪のこと、知ってんの?」
検索する。
《真神幸一郎 冤罪 知っていた》
答えはない。
女は唇を噛んだ。
「いやいや……」
自分に言い聞かせるように笑う。
「別に、八年前じゃん」
声が少し上ずった。
「もう八年だし」
テレビから別の声が聞こえた。
『なお、真神氏は六甲山ダンジョン突入後、一度も地上へ帰還していなかったとみられています』
女の笑みが消えた。
『そのため、冤罪が確定した事実についても、帰還後初めて知らされた可能性があります』
「…………」
リモコンを取った。
音量を上げる。
『もしそうであれば、真神氏にとって事件は八年前の出来事ではなく――』
コメンテーターが続ける。
『本人の感覚では、つい先日決着を知ったばかりとも言えるでしょう』
女の顔から血の気が引いた。
「……待って」
八年前ではない。
自分にとっては八年前だった。
真神幸一郎にとっても、とっくに過去になっていると思っていた。
だが…
八年間、一度も外へ出ていなかったなら。
「じゃあ……」
冤罪だったと知ったのは。
最近?
スマートフォンを掴む。
今度は別の言葉を検索した。
《真神幸一郎 復讐》
予測候補が大量に表示された。
指が止まる。
「いや……ないでしょ」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
「普通ないって」
画面をスクロールする。
『EXって実際どれくらい強いの?』
『世界最難関クラスをソロ踏破した時点で既存ランクと比較できない』
『8年間一人で生存してたことの方がおかしい』
『冤罪で全部失って、そのままダンジョン入ったんだろ?』
『俺なら帰ってきたら関係者全員許せないけどな』
そこで指が止まった。
「…………」
別の投稿。
『当時の女子高生、今頃どんな気分なんだろ』
閉じた。
すぐに画面を消した。
「知らないし」
誰もいない部屋で呟く。
「警察が勝手にやったんじゃん」
しばらくして、また口を開いた。
「学校だって……」
テレビを見る。
「私だけじゃないじゃん」
画面には、現在の幸一郎の映像はなかった。
JHAの発表文と、八年前の写真だけ。
現在地非公開。
能力非公開。
今後の予定非公開。
取材拒否。
警察との面会も拒否。
何も分からない。
だから余計に怖かった。
「……私の名前とか」
スマートフォンを見る。
「覚えてないよね?」
答える者はいない。
「八年だよ?」
声が震えた。
「普通、忘れるでしょ……」
スマートフォンが震えた。
「ひっ」
手から落としかけた。
画面を見る。
友人からのメッセージだった。
胸を押さえる。
「……マジやめてよ」
その時、テレビから真神幸一郎という名前がもう一度聞こえた。
反射的に画面を見る。
《真神氏 警察との面会を拒否》
女の表情が固まった。
『JHAによりますと、真神氏本人に面会の意思を確認したものの、警察との面会を希望しないとの回答が――』
「…………」
警察に会わない。
その一言が、それまでの記事とは違う意味を持って見えた。
「なんで……」
女はスマートフォンを握りしめた。
「なんで警察に会わないの……?」
理由などいくらでも想像できた。
だからこそ怖かった。
八年前。
自分が指を差した少年は、弱かった。
誰も彼の言葉を聞かなかった。
泣こうが、否定しようが、何も変えられなかった。
だから怖くなかった。
今は違う。
世界で初めて、誰にも攻略できなかったダンジョンを攻略して帰ってきた。
どれほど強くなったのかすら、誰にも分からない。
女はソファの上で膝を抱えた。
「……私、関係ないし」
小さく呟いた。
「もう終わったことだし」
テレビの中では、八年前の幸一郎の写真が映っていた。
「……今さら来ないよね?」
その問いに答える者はいなかった。
八年間。
彼女にとって、真神幸一郎は過去の人間だった。
死んでいるのなら、それで終わりだった。
だが、生きて帰ってきた。
そして彼女は初めて理解し始めていた。
過去になっていたのは、自分にとってだけだった。




