第1章 第16話 道義的責任という便利な言葉
翌朝、幸一郎は八年ぶりにこの家の食卓で朝食を取っていた。
炊きたての白米に味噌汁。焼いた鮭と卵焼き、それに祖母が漬けた漬物。特別な料理ではない。それでも幸一郎は、先ほどからほとんど箸を止めていなかった。
「幸ちゃん、ご飯まだあるで」
「じゃあ、もう一杯」
「はいはい」
祖母は嬉しそうに茶碗を受け取った。既に三杯目だったが、止める気はないらしい。
「もっと食べ。あんた、昔より大きゅうなったのに細いやないの」
「結構食ってたぞ」
「何を?」
「魔物」
祖母の手が止まった。
祖父も新聞から顔を上げた。
「……うまいんか」
「種類による」
「そうか」
祖父はそれ以上聞かなかった。
祖母も少し考えたあと、茶碗に山盛りの白米をよそった。
「ほな、今日はちゃんとしたもん食べ」
「魔物もちゃんとした食い物だけどな」
そんな会話の向こうで、テレビが朝の情報番組を流していた。
当然のように、話題は真神幸一郎だった。
画面下には大きく、
《世界初ダンジョン完全踏破 真神幸一郎氏は今どこに?》
というテロップが表示されている。
『私はですね、やはり真神さん本人が一度、公の場できちんと説明する必要があると思うんですよ』
コメンテーターの男が、真剣な表情で語っていた。
『もちろん大変な経験をされたことは理解します。ただ、世界で初めてダンジョンを完全踏破した人物です。彼が得た情報には極めて高い公益性があります』
別のコメンテーターも頷いた。
『現在もダンジョンでは多くのハンターが命を落としていますからね。真神さんの持つ攻略情報によって、救われる命があるかもしれません』
『そうなんです。法的な義務がないことは承知しています。しかし、これほど重要な情報を持っている以上、社会に対する道義的責任というものはあるのではないでしょうか』
幸一郎が卵焼きを口へ運んだ。
「……道義的責任」
祖父が新聞から顔を上げる。
『世界初の完全踏破者という極めて特殊な立場になった以上、単純に一私人だから関係ありません、という話では済まないと思います』
幸一郎はしばらくテレビを見た。
「私人?」
「一般人いうことや」
「俺、一般人なのか?」
祖父が少し考えた。
「少なくとも総理大臣ではないな」
「それはそうだな」
再び箸が動き始めた。
テレビでは議論が続いていた。
『JHAは昨日の会見で、真神氏は公人ではなく私人であると強調しました』
『それは法的な整理でしょう。しかし社会的影響力を考えれば――』
『攻略情報だけではありません。八年間どのように生活していたのか、完全踏破によって何が起きたのか。人類全体に関わる問題です』
「俺の八年間も?」
幸一郎が祖母を見る。
「知らんがな」
祖母は味噌汁を置いた。
「幸ちゃんの八年間は幸ちゃんのもんや」
「そうなのか」
「当たり前や」
テレビの中では、さらに議論が続いていた。
そして、その発言は放送直後からネットでも議論になった。
『真神氏には社会に対する道義的責任がある』
番組のその部分だけを切り抜いた動画が投稿されると、瞬く間にコメントが増えていった。
『まあ言いたいことは分かる』
『攻略情報で人命救えるなら公開してほしいとは思う』
『法的義務ないから知りません、で終わらせる話でもなくね?』
『世界初クリアの情報を一人で抱え込むのはさすがにどうなん』
『ハンターが毎年死んでるんだから、道義的責任って言葉自体はそんなおかしくないと思う』
だが、すぐに反論がついた。
『いや、私人だぞ?』
『私人に勝手に社会的責任付与するの怖すぎるだろ』
『昨日JHAがわざわざ「公人ではありません」って釘刺した意味理解してないのか』
『世界初になったの本人の勝手だろ。選挙に出たわけでも公職に就いたわけでもないぞ』
『ダンジョンクリアすると国民に奉仕する義務が発生する謎ルール』
『「法的義務はないけど道義的責任がある」って便利すぎる言葉だな』
そこへ反論が返る。
『私人なら何しても自由ってわけじゃないだろ』
『誰も強制しろとは言ってない。情報提供してほしいって話』
『目の前で人が溺れてて浮き輪持ってたら投げるだろ。それと同じ』
『全然違うだろ』
『浮き輪は投げてもなくならんけど、攻略情報は本人が8年間命懸けで集めたもんだろ』
『しかもその例えなら、真神本人が8年間溺れてた時に誰が浮き輪投げたんだよ』
その書き込みを境に、八年前の事件が再び持ち出された。
『これなんだよな』
『社会「お前には道義的責任がある」』
『じゃあ8年前の社会の道義的責任は?』
『やめろ、強すぎる』
『本人の無実が確定したあと、どれだけのメディアが同じ時間使って訂正したんだ?』
『冤罪確定した時には本人行方不明だったんだぞ』
『それと攻略情報共有するかどうかは別問題だろ』
『別問題なのはそう。でも「社会に対する道義的責任」なんて言葉使ったら、そりゃ社会側の道義的責任も問われるわ』
議論はさらに枝分かれしていった。
『私人でも社会的影響力が巨大なら一定の責任はある派』
『勝手に有名にされただけの私人に責任なんかない派』
『攻略情報だけ公開して私生活は守れ派』
『情報はJHAが買い取れ派』
『本人が自発的に話すまで待て派』
『そもそも本人まだ地上に帰って数日だぞ派』
そして、その中に短い書き込みが落ちた。
『お前ら一番大事なこと忘れてない?』
『何』
『真神は、ダンジョンに入った時17歳だぞ』
少し間を置いて、返信が続いた。
『あ』
『……そうだった』
『17歳で全部失ってダンジョン入った奴が、25歳で帰ってきた翌日に「社会への道義的責任を果たせ」はエグくね?』
『しかも私人』
『社会復帰一日目の私人に人類背負わせるな』
『これは正論』
『でも攻略情報は欲しい』
『欲しいのと、寄越す義務があるのは別だろ』
その頃、当の本人はネット上で自分を巡る議論がそこまで進んでいることなど知らなかった。
テレビではまだ、コメンテーターが真神幸一郎の社会的責任について語っている。
幸一郎は四杯目の白米を食べながら、その話を聞いていた。
やがて、少し不思議そうに祖父へ尋ねた。
「じいちゃん」
「なんや」
「俺、社会に何か借りてたっけ」
祖父の箸が止まった。
祖母も止まった。
テレビの中では、ちょうど同じ言葉が繰り返されていた。
――社会に対する道義的責任。
祖父はしばらく考えた。
そして、味噌汁を一口飲んだ。
「知らんな」
「そうか」
「借りた覚えがあるなら返したらええ」
祖父はテレビを一瞥した。
「ないなら、知らん」
幸一郎は少し考えた。
「ないな」
「ほな、飯食え」
「ああ」
幸一郎は焼き鮭を一口食べた。
テレビの中では、真神幸一郎が社会に何を返すべきなのかについて、まだ議論が続いていた。
幸一郎はそんなテレビを眺めながら、味噌汁を一口飲んだ。
それから、ぽつりと言った。
「……やっぱ、ばあちゃんの飯は美味いな」
祖母の手が止まった。
「……そうか?」
「ああ。八年間で食ったものの中で、一番美味い」
「もう……この子は」
祖母は顔をくしゃりとさせると、誤魔化すように幸一郎の茶碗を取った。
「ほら、もっと食べ」
「まだ盛るのか?」
「八年分や。黙って食べ」
「それは多すぎるだろ」
祖父が笑った。
祖母も笑った。
幸一郎も、小さく笑った。
テレビの中ではまだ、真神幸一郎の道義的責任について議論が続いていた。
だが本人にとって、その朝一番大切だったのは――
八年ぶりに食べる、祖母の飯だった。




