最終話 それでも世界は回っている~赦せずとも歩む男の旅路~ 1
そして、運命の日が訪れた。
それは、何か特別な予兆とともに始まった日ではなかった。
世界各地で人々は仕事へ向かい、学校へ通い、店を開け、食事をしていた。ダンジョンでは今日も数え切れない攻略隊が活動し、地上では彼らを支える研究者や技術者たちが働いている。
三年前と比べれば、人類の攻略域は大きく広がった。
400Fを越えることは、もはや真神幸一郎だけに許された領域ではない。
もちろん、簡単になったわけではなかった。深層へ行けば行くほど危険は増し、一つの判断ミスが攻略隊全員の死へ直結する。そのために装備が作られ、素材が研究され、攻略情報が共有された。一つの攻略隊が持ち帰ったものを別の攻略隊が利用し、そこで得た成果がさらに次へ渡される。
人類は、そうして少しずつ道を延ばしてきた。
真神幸一郎が一人で歩いた道を、そのまま追いかけたわけではない。
そんなことは、できなかった。
だから人類は、自分たちなりの道を作った。
その日もまた、世界のどこかで誰かが一つ先の階層を目指していた。
そして――。
鐘が鳴った。
誰もが知っている音だった。
十二年前、世界中にダンジョンが現れたあの日から、何度も人類の頭上へ響いてきた音。
街を歩いていた者が足を止めた。
仕事をしていた者が顔を上げた。
ダンジョン内部にいた攻略者たちさえ、その場で動きを止めた。
続いて、声が世界へ降り注ぐ。
『――ロンドンダンジョンにて、最終エリアへの挑戦を確認しました』
数秒。
世界は、その言葉の意味を理解するための時間を必要とした。
ロンドンダンジョン。
現在も攻略が続けられている、世界有数の深層ダンジョン。
最深部、450F。
そして450Fこそが、そのダンジョンの最終エリアだった。
誰かが。
そこへ入った。
まだ攻略したわけではない。
最終エリアへの挑戦が始まった。
ただ、それだけだった。
だが人類にとって、その「だけ」がどれほど大きな意味を持つのかを、世界は知っていた。
そして同時に、多くの人間が一人の男を思い浮かべた。
真神幸一郎。
十二のダンジョンを完全攻略した、Ex12。
これまで最終エリアへの挑戦を世界へ告げる鐘が鳴れば、その先にいたのは彼だった。
今回もそうなのか。
十三個目なのか。
世界中の端末に、同じ疑問が溢れ始める。
しかし、システムはそれ以上を告げなかった。
挑戦者の名は、まだ明かされない。
誰がそこにいるのか。
一人なのか。
複数なのか。
どこの国の人間なのか。
どこの組織に所属しているのか。
世界には何も分からない。
ただ、ロンドンダンジョンの最終エリアへ誰かが入った。
それだけだった。
――スイス、WHA本部。
そこでは、世界とは少し違う反応が起きていた。
鐘が鳴った瞬間、執務フロアのあちこちで手が止まった。
誰もが聞いた。
聞き間違えるはずもない。
そしてシステムの言葉が終わるより早く、いくつもの端末が動き始めていた。
「ロンドンダンジョン、最終エリアへの挑戦を確認」
「現地支部からも照会が来ています」
「英国当局から問い合わせ」
「会長」
レイチェル・アシュフォードは席を立たなかった。
正面のモニターには、ロンドンダンジョンの基礎情報が表示されている。
450F。
最終エリア。
その数字を見つめたまま、レイチェルは一つだけ尋ねた。
「真神さんは?」
職員たちは、その質問の意味を理解していた。
確認には、それほど時間を要しなかった。
WHAは真神幸一郎の現在の活動状況を把握している。
十二のダンジョンを完全攻略した男が、十三個目へ向かったという報告はない。
それでも、念のため確認が行われた。
やがて一人の職員が顔を上げる。
「確認しました」
レイチェルが視線を向ける。
「真神幸一郎は現在、ダンジョン内にいません」
室内が静まり返った。
誰も歓声を上げなかった。
まだ何も終わっていない。
最終エリアへ到達しただけだ。
そこから帰ってこられる保証すらない。
まして完全攻略など、その先の話だった。
それでも。
この部屋にいる者たちには分かっていた。
今、ロンドンダンジョンの450Fにいるのは――真神幸一郎ではない。
レイチェルは椅子へ深く身体を預けた。
眼鏡の奥の青い瞳が、モニターに表示された「450」の数字を見つめている。
三年前。
人類の深層攻略は、一人の男が持ち帰るものに大きく依存していた。
幸一郎が素材を持ち帰る。
研究者が調べる。
装備へ利用する。
幸一郎がさらに深い場所へ行き、また新しいものを持ち帰る。
圧倒的な個人を起点にした循環だった。
それではいけないと、レイチェルは考えていた。
一人の人間がいなければ止まる仕組みなど、仕組みとは呼べない。
だからWHAは、幸一郎が作った最初の流れを世界へ広げた。
情報を共有した。
素材を研究へ回した。
深層装備を適性のある攻略者へ渡した。
そこで生まれた成果を、また別の攻略者へ繋いだ。
やがて攻略者自身が、幸一郎の手を借りずに深層素材を持ち帰るようになった。
それを使い、人間が新しい装備を作った。
幸一郎自身が、
『俺、こんなの持ってないぞ』
そう言った装備まで生まれた。
一人ではなく。
一つの組織でもなく。
数え切れない人間が、一階ずつ積み重ねてきた。
その先が。
今。
450Fへ届いた。
レイチェルの唇から、小さく息が漏れた。
「……やっと」
近くにいた職員が振り返る。
「会長?」
レイチェルはモニターから目を離さなかった。
ほんのわずかに。
その表情が緩んでいた。
「やっと……ここまで来ましたね」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
必要がなかった。
この三年間、同じものを見てきた者たちだった。
407F。
411F。
418F。
一階進んでは戻り。
装備を直し。
編成を変え。
時には攻略を断念し。
別の攻略隊が、その記録を引き継いだ。
真神幸一郎の700Fという記録へ近づくことが目的ではなかった。
誰か一人を、第二の真神幸一郎にすることでもなかった。
人間が、人間のやり方で進める道を作る。
その道が初めて、ダンジョンの終わりまで届いた。
まだ。
扉を開いただけだ。
「……攻略できるでしょうか」
誰かが呟いた。
レイチェルは答えなかった。
分からない。
誰が挑戦しているのかすら分からないのだ。
それでも、しばらくして静かに言った。
「見守りましょう」
「……はい」
「私たちにできることは、それだけです」
レイチェルは再び450Fの表示を見る。
手を貸すことはできない。
指示もできない。
幸一郎を送り込むこともない。
そこにいる誰かが、自分たちの力で最後まで進むしかない。
だからWHAは待った。
世界も待った。
そして、その頃。
世界中の報道機関がWHAから発表された、たった一つの事実を伝え始めていた。
――真神幸一郎は、現在ダンジョン攻略を行っていない。
その一文が流れた瞬間。
世界はようやく、本当の意味で鐘の意味を理解した。
誰だ。
ロンドンダンジョンの最終エリアにいるのは、誰なんだ。
答えを知る者はいない。
挑戦者たち自身を除いて。
そして彼らの名が世界へ告げられる方法を、人々は知っていた。
最終エリアを――突破すること。
それまで世界にできることは、一つしかなかった。
待つことだった。
十二年間。
世界は何度も、一人の男が結果を持ち帰るのを待ってきた。
今日初めて。
真神幸一郎もまた。
世界と同じ側で、その結果を待つことになる。




