最終話 それでも世界は回っている~赦せずとも歩む男の旅路~ 2
これにて最終回です。
それから、2時間が過ぎた。
長い2時間だった。
世界中で様々な憶測が飛び交った。ロンドンダンジョンを攻略していた有力な攻略隊の名が次々と挙げられ、その所在を確認しようとする動きまで始まった。
だが、WHAも英国当局も挑戦者について何も発表しなかった。
分かっていることは二つだけ。
誰かがロンドンダンジョン450F、最終エリアへ挑戦している。
そして、その誰かは真神幸一郎ではない。
それだけだった。
WHA本部では通常業務を継続するよう指示が出されていた。それでも、端末を確認する回数は増え、廊下を歩く職員たちもモニターの前を通るたびに足を緩めた。
レイチェルも仕事を続けていた。
書類を読み、承認し、各国から寄せられる問い合わせに対応する。
ただ、机の端に置かれた端末には、ずっとロンドンダンジョンの情報が表示されていた。
450F。
最終エリア挑戦中。
その表示が変わらないまま、2時間と少しが過ぎた頃だった。
鐘が鳴った。
レイチェルの手が止まる。
WHA本部だけではない。
世界中で、人々が顔を上げた。
一度目とは違う。
今度は誰も、その鐘の意味を取り違えなかった。
声が世界へ降り注ぐ。
『――ロンドンダンジョン、最終エリアの攻略を確認しました』
WHA本部のあちこちで息を呑む音がした。
『――ダンジョン完全攻略を確認』
誰かが椅子から立ち上がる。
そして。
『攻略者――』
初めて。
真神幸一郎ではない名前が、完全攻略者として世界へ告げられた。
それは、一人の名ではなかった。
一つの攻略隊の名だった。
ほんの数秒。
世界は静まり返った。
そして――爆発した。
WHA本部で歓声が上がる。誰かが叫び、誰かが隣の職員と抱き合った。泣き出した者もいた。普段ならそれを止める立場の者まで、今日だけは何も言わなかった。
レイチェルは椅子に座ったままだった。
眼鏡を外し、目元を指で押さえる。
「……会長?」
「何でもありません」
いつも通りの声で答えたつもりだった。
少なくとも、本人は。
すぐに眼鏡を戻す。
「英国側へ確認を。攻略者の状態を最優先してください。会見など後です。必要な治療をすべて優先するように」
「はい!」
次々と職員が動き出す。
レイチェルはもう一度、モニターを見た。
そこには確かに表示されている。
――完全攻略。
三年前。
一人の男が持ち帰ったものから始まった道だった。
それが今。
別の誰かの足で、ダンジョンの終わりまで届いた。
「……本当に」
小さく息を吐く。
「ここまで来たんですね」
ロンドンダンジョンの入口では、すでに別の騒ぎが始まっていた。
最終エリアから帰還した攻略者たちを最初に迎えたのは、歓声ではなく医療班だった。
無傷の者など、一人もいなかった。
防具は砕け、武器を失った者もいる。自分の足で歩くことができず、仲間に肩を貸されている者もいた。顔は血と煤と埃で汚れ、応急処置の包帯まで赤く染まっている。
それでも。
一人が出口を抜けた瞬間、両腕を上げた。
「やった……」
掠れた声だった。
隣の仲間が笑う。
そして、そのまま泣いた。
「やったぞ……」
もう一人が拳を突き上げる。
「やったぞおおおおお!」
その声をきっかけに、張り詰めていたものが切れた。
攻略者たちは泣きながら抱き合った。
足を負傷していた一人はその場に座り込み、両手で顔を覆った。
「終わった……!」
「俺たち、やったんだ……!」
医療スタッフが動くな、座れ、先に治療を受けろと怒鳴っている。
それでも彼らは泣いた。
誰か一人が英雄のように立っているのではない。
全員がボロボロだった。
全員が誰かに支えられていた。
そして、全員が笑っていた。
その姿は中継カメラを通して世界中へ映し出された。
日本でも。
アメリカでも。
スイスでも。
そして。
真神幸一郎の家でも。
「……すげえな」
幸一郎はソファに座ってテレビを見ていた。
隣にはセルマがいる。
画面の向こうでは、攻略者の一人が医療スタッフに担架へ押し込まれながら、それでも仲間へ向かって拳を突き上げていた。
「無茶をしていますね」
「まあ、今日くらいいいんじゃない?」
「医療スタッフはそう思っていないようですが」
「怒られてるな」
幸一郎が笑った。
予定されていたような正式会見は、当然ながらできなかった。
まずは治療。
それでも世界中から問い合わせが殺到し、治療を終えた者から短時間だけ取材に応じることになった。
椅子に座った者。
腕を吊った者。
頭に包帯を巻いた者。
顔に大きなガーゼを貼った者。
とても世界初の偉業を成し遂げた英雄たちには見えない。
ただ。
全員、ひどく嬉しそうだった。
「まずは、完全攻略おめでとうございます」
「ありがとうございます」
答えた男の声は掠れていた。
「今のお気持ちは?」
男は仲間たちを見る。
仲間も彼を見る。
そして笑った。
「……もう二度とやりたくないです」
周囲から笑いが起こった。
「本当に?」
「明日聞いてください」
「明日なら?」
「たぶん、また行きたいって言ってます」
今度は攻略者たち自身が笑った。
その笑いが落ち着くのを待って、別の記者が尋ねる。
「今回、皆さんは世界で初めて、真神幸一郎氏以外によるダンジョン完全攻略を成し遂げました。すでに世界では、真神氏を超えたのではないかという――」
「それは違います」
答えは早かった。
記者が言葉を止める。
男は少し困ったように笑った。
「俺たち、一人じゃないですから」
隣の仲間が頷いた。
「ここにいるメンバーだけでもありません」
別の一人が続ける。
「俺たちが450Fまで来られたのは、前の攻略隊が情報を残してくれたからです。その前にもいた。その前にも、もっといた」
「装備だって俺たちが作ったわけじゃない」
「素材を持ち帰った奴がいる。解析した人がいる。装備にした人がいる。それを試した奴もいる」
「壊した奴もいる」
「お前だろ」
小さな笑いが起きた。
だが、すぐに静かになった。
最初の男が、少し考えてから口を開く。
「俺たちは、たぶん……何千人、何万人って人が作った道を歩いてきたんです」
誰も割り込まなかった。
「真神幸一郎がどんなふうに700Fまで行ったのか。俺たちには分かりません」
男が苦笑する。
「資料は見ましたけど、分かったのは、真似しちゃ駄目だってことくらいです」
再び笑いが起こった。
「俺たちには無理です。でも――同じことをする必要はなかった」
研究者がいた。
技術者がいた。
素材を持ち帰ったハンターがいた。
失敗した者がいた。
引き返した者がいた。
その記録を受け取り、一階先へ進んだ者がいた。
一人の足跡だったものを、人類は少しずつ、何人も歩ける道へ変えてきた。
男はカメラを見る。
「真神さん」
幸一郎の表情が変わった。
「たぶん、見てると思うんで」
隣から声が飛ぶ。
「見てなかったらどうすんだよ」
「その時は誰か録画送ってください」
笑いが起きた。
男も笑った。
だが、次に口を開いた時。
その声は震えていた。
「俺たち、あなたが持ち帰ったもので、ここまで来ました」
目元を拭う。
「あなたが見つけたもの。あなたが持ち帰った素材。あなたが残した攻略情報。そこから始まって……みんなで、ここまで来ました」
隣の仲間が俯く。
別の一人も目を拭っていた。
「だから」
男は一度、言葉を詰まらせた。
それでもカメラを見る。
「もう、あなた一人に全部を背負わせません」
幸一郎は何も言わなかった。
セルマも黙っている。
「俺たちが行きます」
涙が頬を伝う。
「俺たちだけじゃない。後から続く奴らもいます」
仲間たちが頷いた。
「俺たちが今日歩いたところを、次の奴らが歩く。そいつらがもっと広げる。その次の奴らが、またその先へ行く」
男は泣きながら笑った。
「あなたが一人で歩いた道を」
息を吸う。
「今度は俺たちが、みんなで広げていきます」
誰も次の質問をしなかった。
男は最後に、カメラへ向かって頭を下げた。
「だから――」
声が詰まる。
「今まで、本当にありがとうございました」
幸一郎はテレビを見ていた。
長い間、何も言わなかった。
十七歳で六甲山ダンジョンの1Fへ入った時、後から誰かが来ることなど考えていなかった。
生きるために進んだ。
戻る場所がなかったから、進んだ。
誰かのために道を作ったわけではない。
それでも、自分が歩いた場所を誰かが歩いた。
自分が持ち帰ったものを誰かが拾った。
別の誰かへ渡した。
そして今日。
とうとう自分ではない人間が、最後まで辿り着いた。
幸一郎は小さく息を吐いた。
「……鳴ったな」
「はい」
「俺じゃなくても」
セルマは静かに頷いた。
「鳴りましたね」
「……そっか」
幸一郎はもう一度、テレビを見る。
画面の向こうでは、ボロボロになった攻略者たちが泣きながら笑っていた。
やがて。
幸一郎も少しだけ笑った。
「じゃあ、もう大丈夫だな」
「はい」
世界最強の座を譲ったわけではない。
700Fという記録も、十二の完全攻略も残っている。
だが、そんなことはもう重要ではなかった。
彼が潜らなくても。
彼が一番前を歩かなくても。
誰かが歩く。
そして、その後ろからまた誰かが続く。
世界はもう、真神幸一郎が歩き続けなくても回っていける。
幸一郎はソファへ身体を預けた。
その横顔を、セルマがしばらく見つめていた。
「幸一郎さん」
「ん?」
「お渡ししたいものがあります」
セルマは立ち上がり、部屋の隅にある収納へ向かった。
戻ってきた彼女の手には、一通の封筒があった。
少しだけ古びている。
「……俺に?」
「はい」
受け取った幸一郎は裏返した。
差出人の名を見る。
その指が止まった。
十二年前。
十七歳だった自分を取り調べた警察官の名前だった。
「……これ」
「一年前、WHAに届きました」
幸一郎が顔を上げる。
「一年前?」
「はい」
「今まで隠してたの?」
「はい」
セルマは否定しなかった。
「どうして今日?」
少しだけ間を置いて。
セルマは答えた。
「……今日なら、いいと思いました」
「何が?」
「読んでも、読まなくても」
それ以上は言わなかった。
読むべきだとも。
読まない方がいいとも。
赦すべきだとも。
忘れるべきだとも。
何も決めない。
ただ、幸一郎へ渡した。
幸一郎はしばらく封筒を見つめていた。
テレビから、攻略者たちの笑い声が聞こえている。
やがて。
封筒を開いた。
便箋を取り出す。
そして、読み始めた。
真神幸一郎様。
この手紙をあなたが読むことがあるのか、私には分かりません。
届いたとしても、捨てられるかもしれません。それで構いません。
私は今日をもって、警察官を退職します。
最後の日になって、ようやくあなたに手紙を書いています。
十二年前。
私は、あなたを取り調べました。
あなたは何度も、自分はやっていないと言いました。
私は、その言葉を聞きませんでした。
正確には、聞いているつもりでした。
質問をし、答えを記録し、必要な手続きを行った。警察官として仕事をしているつもりでした。
ですが今になって思えば、私はあなたの話を聞いていませんでした。
私は、あなたが何を話しているのかを知ろうとしていたのではありません。
私たちが正しいと思っていた答えを、あなたがいつ認めるのか。
それを待っていただけでした。
警察がそう判断していた。
学校からも話が来ていた。
証言もあった。
状況も揃っていると思っていた。
当時の私には、それらすべてが理由になりました。
ですが今は、こう思います。
だから何だ、と。
どれだけ理由を並べても、目の前にいた十七歳の少年が「やっていない」と言っていた。
ならば、私はその言葉を聞かなければならなかった。
あなたが六甲山ダンジョンから帰還した時、私はニュースを見ました。
八年間。
500F。
その後も、あなたの名前を何度も目にしました。
ですが、それを知ったから謝るのではありません。
あなたが真神幸一郎だったから、話を聞くべきだったのではありません。
後に世界で最も有名なハンターになる人間だったから、慎重に扱うべきだったのでもありません。
あの日、私の前にいたのは十七歳の少年でした。
それで十分だったのです。
話を聞く理由としては、それだけで十分だった。
私は、それをしませんでした。
あなたが今、どれほど大きなことを成し遂げても、あの日の私の過ちが重くなることも、軽くなることもありません。
あなたは本当のことを話していた。
私は、それを聞かなかった。
それだけです。
申し訳ありませんでした。
退職するまでに、若い警察官へ一つだけ伝えました。
話を聞け、と。
自分が正しいと思っている時ほど、相手の話を聞け、と。
私があなたにしたことを、それで償えるとは思っていません。
償えるものでもないと思っています。
これは謝罪です。
清算ではありません。
返事は必要ありません。
会っていただく必要もありません。
そして、私を赦す必要もありません。
ただ、一度だけ。
十二年前のあなたに、本来なら私が向けなければならなかった言葉を書かせてください。
あなたの話を、聞くべきでした。
本当に、申し訳ありませんでした。
そこで手紙は終わっていた。
幸一郎は、しばらく便箋を見たまま動かなかった。
セルマは何も聞かなかった。
テレビの向こうでは、ロンドンダンジョンを攻略した者たちが笑っている。
十二年前。
十七歳だった幸一郎は、何度も言った。
自分はやっていない、と。
届かなかった。
誰にも聞いてもらえなかった。
地上にいる場所を失い、生きるために地下へ降りた。
そこから八年間歩いた。
地上へ戻ってからも歩いた。
赦せないものは残った。
消えない過去も残った。
それでも歩いた。
そして今日。
自分ではない誰かが、その先へ歩いていった。
自分ではない誰かが、鐘を鳴らした。
未来から。
もう一人で歩かなくていいと、言葉が届いた。
そして過去からも。
十二年遅れて。
ようやく、返事が届いた。
幸一郎は便箋を折り、封筒へ戻した。
捨てなかった。
大切そうに抱えることもしなかった。
ただ、テーブルの上へ置いた。
「……そっか」
それだけだった。
セルマも何も聞かなかった。
赦したのか。
まだ赦せないのか。
そんな答えを、誰かに示す必要はなかった。
決めるのは幸一郎だ。
明日でもいい。
何年後でもいい。
最後まで赦せなくてもいい。
それでも彼は、歩いていける。
窓の外では、いつもと変わらない街が動いていた。
誰かが働き。
誰かが家へ帰り。
誰かがダンジョンへ潜る。
そして、その後からまた誰かが続いていく。
真神幸一郎が先頭に立たなくても。
彼が過去を忘れなくても。
赦せないものが残っていても。
世界は止まらない。
幸一郎もまた、止まる必要はない。
テーブルの上には、十二年遅れて届いた一通の手紙。
テレビの向こうでは、次の道を歩く者たちが笑っていた。
そして――
それでも世界は回っている。
――完――
最期までお付き合い頂き、有難うございました。
ご感想など頂けると嬉しいです。




