最終章 第132話 赦されなくても
朝の鐘が鳴った。
女は箒を止め、顔を上げた。
山間に建つ小さな寺だった。まだ朝靄の残る境内を鐘の音がゆっくりと抜け、木々の向こうへ消えていく。毎朝聞いている音だというのに、今でも胸の奥がわずかにざわつく。
鐘の音は、少し苦手だった。
十二年前。
世界中で鐘が鳴った。
空から白い羽のような光が降り、各地にダンジョンが現れた日。人類にとって歴史の境目となったあの日を、世界は今も様々な名前で呼んでいる。
彼女にとっても、確かに境目だった。
ただし、理由は少し違う。
箒を動かす。
落ち葉を集め、石畳を掃き、端へ寄せる。朝の勤めが始まるまでに境内を整える。それが今の彼女の日常だった。
剃った頭にも慣れた。
僧衣にも。
朝早く起きることにも、決められた時間に食事を取り、掃除をし、経を読む生活にも慣れた。
ここへ来て、もう何年になるだろう。
最初から尼僧になろうと思っていたわけではない。
ただ。
逃げたかった。
それだけだった。
あの日、自分がついた嘘は、思っていたよりずっと大きなものになった。
最初は、ほんの少し困らせるだけのつもりだった。
腹が立っていた。
友人の前で引っ込みがつかなくなった。
周囲が自分の言葉を信じ始めた時には、もう嘘だったとは言えなくなっていた。
警察が動いた。
学校が動いた。
家族が動いた。
それでも言えなかった。
違う。
本当は、言えなかったのではない。
言わなかった。
怖かったから。
自分が嘘をついたと知られることが怖かった。
だから、一人の少年にその続きを背負わせた。
やがて少年はいなくなった。
それから半年ほどして、嘘は明らかになった。
あの時のことは、今でもあまり思い出したくない。
家族から何を言われたのか。
学校でどんな目を向けられたのか。
警察で何度、同じことを聞かれたのか。
覚えている。
けれど、それを自分が受けた被害のように考えたことはなかった。
少なくとも、今は。
自分が始めたことだった。
問題は、その先だった。
真神幸一郎が見つからなかった。
謝る相手が、いなくなった。
死んだのではないかとも言われた。
自分のせいで。
その言葉が頭から離れなくなった。
住む場所を変えた。
人間関係も変わった。
名前を検索することをやめた。
ニュースもなるべく見なくなった。
それでも数年が過ぎれば、周囲からあの事件を知る人間は少なくなった。
このまま時間が過ぎれば。
そう思ったこともある。
忘れることはできなくても、抱えたまま普通に生きることくらいはできるのではないか。
そんなふうに考え始めた頃だった。
真神幸一郎が、生きて帰ってきた。
八年間。
六甲山ダンジョンの中にいた。
そして、完全攻略した。
ニュースでその名前を聞いた瞬間、彼女は立っていられなくなった。
生きていた。
嬉しかった。
本当に。
その瞬間だけは、間違いなく嬉しかった。
自分のせいで死んだのではなかった。
その安堵があった。
けれど。
その直後に知った。
十七歳で入った。
一人で。
八年間。
500F。
自分が安心していい話ではなかった。
それから、真神幸一郎の名前は消えるどころか、ますます世界中で聞かれるようになった。
別のダンジョンを攻略した。
海外へ行った。
また攻略した。
また。
また。
気がつけば、世界中の人間が彼の名前を知っていた。
逃げるように仕事を辞めた。
住む場所も変えた。
テレビを見なくなった。
スマートフォンのニュースも切った。
それでも無駄だった。
電車の中で誰かが話している。
店に入ればテレビから名前が聞こえる。
職場では同僚が話題にする。
子供まで知っている。
どこへ行っても。
真神幸一郎。
真神幸一郎。
真神幸一郎。
彼が追ってきたわけではない。
一度も。
連絡などなかった。
誰かを使って自分を探したという話も聞かなかった。
復讐されたこともない。
脅されたこともない。
ただ世界が、彼の名前を口にするようになった。
逃げられなかった。
だから最後には、こんな山の中まで来た。
俗世から離れれば。
静かな場所なら。
少しは楽になるのではないかと思った。
そして。
「おはようございます」
声をかけられ、女は振り返った。
朝早くから訪れた参拝者だった。
「おはようございます」
頭を下げる。
若い夫婦と、小学生くらいの男の子だった。
男の子は境内を珍しそうに見回していたが、やがて鐘楼を見つけた。
「ねえ、あの鐘って鳴らせるの?」
「勝手に鳴らしたら駄目だぞ」
父親に止められ、男の子が口を尖らせる。
「だって鐘って聞くと、真神のやつ思い出すじゃん」
女の手が止まった。
父親が笑う。
「世界の鐘はあんな音じゃないだろ」
「でもEx12がクリアすると鳴るんでしょ?」
「そういうゲームじゃないんだから」
家族は笑いながら本堂の方へ歩いていった。
女はしばらく動かなかった。
それから、箒を握り直した。
ここにもあった。
山の中の寺まで逃げても。
世界は真神幸一郎を知っていた。
思わず、小さく笑った。
「……本当に、どこにもないんだ」
名前の聞こえない場所など。
最初から、なかった。
「何がです?」
背後から声がした。
寺の年老いた尼僧だった。
いつからそこにいたのか、穏やかな顔でこちらを見ている。
「……いえ」
「そうですか」
それだけで去ろうとする。
女は迷った。
「あの」
「はい?」
「私……ここに来た時、なんて言いましたっけ」
老尼は少し考えた。
「静かなところで暮らしたい、と」
「そうでしたね」
「違いましたか?」
女は箒へ視線を落とした。
「……逃げたかったんです」
老尼は何も言わなかった。
「罪を償いたくて来たわけじゃありません」
口にすると、不思議なくらい簡単だった。
「誰かのためでもありません。自分が耐えられなくなったから……逃げてきただけです」
「そうですか」
「軽蔑しませんか?」
「私が決めることでしょうか」
女は顔を上げた。
老尼はそれ以上、何も言わなかった。
やがて女の方から口を開いた。
「昔、一人の人を陥れました」
「はい」
「嘘をついて。その人の人生を……壊しました」
言葉にしてから、首を振る。
「壊した、なんて言うのも違うのかもしれません。あの人は今、私なんかよりずっと……」
そこで止めた。
違う。
それこそ、何度も自分が逃げ込もうとした考えだった。
幸一郎は生きている。
世界最強になった。
多くの人間に必要とされている。
だから。
少しくらい。
「……関係ないんですよね」
「何がです?」
「あの人が今、どれだけ凄い人になっていても」
箒を握る指に力が入る。
「あの人が今、幸せだったとしても。世界中から必要とされていたとしても。私が十七歳のあの人にしたことは……何も軽くならない」
老尼は黙って聞いていた。
「謝りたいですか?」
しばらくして問われた。
女はすぐには答えなかった。
「昔は、ずっとそう思ってました」
「今は?」
「……分かりません」
正直な答えだった。
「会うのが怖いです」
「はい」
「顔を見るのも怖い。何を言われるのかも怖い。無視されるのも怖い」
一度、息を吸った。
「でも……たぶん一番怖いのは」
言葉を探す。
「謝って、自分が楽になってしまうことです」
朝の風が境内を抜けていった。
「ごめんなさいって言って。あの人がもし、もういいって言ってくれたら」
そんなことを想像したことは、一度や二度ではなかった。
「……赦してほしいんです」
それだけは嘘をつけなかった。
「ずっと」
声が震えた。
「赦してほしいです。できるなら、あの人に『もういい』って言ってほしい」
目から涙が落ちた。
「でも、それを言わせるために会いに行くのは……また、あの人に何かを背負わせることになるから」
老尼はしばらく彼女を見ていた。
「なら、今は会わなくてもよいのではありませんか」
女は少し驚いた。
「……それでいいんですか?」
「それを私に決めさせるのですか?」
女は目を見開いた。
やがて。
小さく笑った。
「……そうですね」
涙を拭う。
「自分で決めないと駄目ですね」
「そういうことなのでしょう」
老尼は本堂へ向かって歩いていった。
女は一人、境内に残った。
やがて箒を動かし始める。
落ち葉を集める。
石畳を掃く。
今日も参拝者が来る。
昼になれば食事を取り、午後にも仕事がある。
夜になれば経を読み、眠る。
明日も朝になれば鐘が鳴る。
出家したからといって、過去が消えたわけではない。
仏門に入ったから、赦されたわけでもない。
何年経っても。
何十年経っても。
十七歳の少年に自分がしたことは残り続ける。
それでも。
生きていかなければならない。
赦されるためではなく。
忘れるためでもなく。
まして、自分の過去を美しい贖罪の物語に変えるためでもなく。
ただ。
自分がしたことを、自分が知ったまま。
女は境内を掃き続けた。
やがて朝の勤めを知らせる声がかかった。
「はい。今行きます」
箒を片付け、本堂へ向かう。
その途中で鐘楼を見上げた。
もう、鐘は鳴っていなかった。
山にはいつもの静けさが戻っている。
それでも、その音が消えたわけではない。
聞こえなくなっただけだった。
過去も同じなのだろう。
消すことはできない。
ならば。
抱えたまま、生きていくしかない。
女は本堂へ入り、静かに手を合わせた。
真神幸一郎の名を口にすることはなかった。
赦しを願うこともしなかった。
ただ今日も。
一日を生きるために、目を閉じた。




