最終章 第131話 今度は間違えない
父の葬儀の日、彼女は小さな息子の手を握っていた。
祭壇には父の遺影が飾られ、その周囲を白い花が埋めている。焼香の匂いが薄く漂う中、親族や父と縁のあった人々が静かに頭を下げていった。母は喪主として挨拶を繰り返し、妹もその傍で動いている。夫はまだ幼い息子が騒がないよう気を配ってくれていた。
父が死んだ。
その事実を、彼女はまだうまく受け止められずにいた。
病気だった。長くないことも聞いていた。それでも昨日まで生きていた父が今日は写真になり、その前を人々が通り過ぎていく光景には、現実感がなかった。
「ママ」
「なあに?」
「あれ、おじいちゃん?」
息子が祭壇を指差した。
「そうよ」
「もう会えないの?」
彼女は息子の手を少しだけ強く握った。
「……うん。もう会えないの」
「そっか……」
幼い息子がどこまで理解したのかは分からない。それでも何かを感じたらしく、しばらく遺影を見たあと、母親の脚へ身体を寄せてきた。
彼女はその頭を撫でた。
小さかった。
まだ母親の手の中に収まってしまうほど小さい。
この子も、いつか大きくなる。
小学校へ行き、中学生になり、高校生になる。
そして、十七歳になる。
その年齢を思い浮かべた瞬間、彼女の手が止まった。
十七歳。
父の葬儀の日に、その数字から連想する顔は一人しかいなかった。
幸一郎。
十二年前。
彼も十七歳だった。
今では世界中の誰もが真神幸一郎を知っている。十二のダンジョンを完全攻略したEx12。六甲山500F、そしてエベレストD700F。その名前と記録は、毎日のようにどこかで語られている。
だが、あの日の幸一郎は違った。
何の力も持たない、ただの十七歳だった。
そして自分は、その弟の言葉を聞かなかった。
「……お姉ちゃん」
妹に呼ばれて、彼女は顔を上げた。
「お母さんが呼んでる」
「あ……うん」
息子を連れて母のところへ向かう。母は随分と疲れた顔をしていた。夫を亡くした翌日なのだから当然だった。それでも葬儀は待ってくれない。人が亡くなった後には、残された者が決めなければならないことが驚くほど多い。
参列者が一度途切れたところで、母が小さく息を吐いた。
「昨日ね」
「うん?」
「病室に、花があったの」
「花?」
「青い花。一輪だけ」
彼女は母を見る。
「誰から?」
母は首を振った。
「分からない。病院の人が置いたものじゃなかったって」
「じゃあ、誰かお見舞いに来たの?」
「記録には残ってないそうよ」
それだけで、胸の奥がざわついた。
「……何ていう花?」
母は少しだけ黙った。
「ネモフィラ」
「ネモフィラ……」
聞いたことはある。青い小さな花だったはずだ。
母はそれ以上、何も言わなかった。
彼女も、その場では聞かなかった。
けれど、その名前だけは頭に残った。
葬儀が終わり、家に帰ったのは夕方だった。
息子の喪服を脱がせ、夫と一緒に簡単な夕食を済ませる。疲れていた息子は、それでも家に戻ればいつもの調子を取り戻し、リビングに玩具を広げ始めた。
夫が風呂の準備をしている間。
彼女は一人、ソファに座った。
そしてスマートフォンを手に取った。
検索欄へ文字を入力する。
――ネモフィラ。
すぐに、小さな青い花の写真がいくつも表示された。
確かに綺麗な花だった。
昨日まで父がいた病室に、この花が一輪だけ残されていた。
誰が。
どうして。
彼女は画面を指で動かした。
そして。
その花に重ねられる意味を目にした。
指が止まった。
しばらく、画面を動かすことができなかった。
「……幸一郎」
名前が漏れた。
もし。
もし、あの花を置いたのが幸一郎だったのなら。
胸の奥から、一つの考えが浮かんできた。
――お父さん、赦してもらえたんだ。
その瞬間。
彼女はスマートフォンを伏せた。
「……違う」
自分の声が、思ったよりはっきり聞こえた。
違う。
そうじゃない。
また。
また同じことをするところだった。
誰があの花を置いたのか、自分は知らない。
幸一郎だったという証拠などない。
仮に幸一郎だったとしても、本人が花を選んだのかどうかも知らない。
そして。
たとえ幸一郎自身が、あの花の意味を知ったうえで選んだのだとしても。
だから父を赦したのだと。
どうして自分が決めていい。
十二年前。
自分たちは決めた。
警察がそう言っているから。
学校もそう判断しているから。
相手の証言があるから。
だから幸一郎が嘘をついているのだと。
本人が何度否定しても、自分たちの方が正しいと決めた。
そして今。
一輪の花を見ただけで。
また幸一郎の心まで、自分たちに都合のいい形に決めようとした。
「……何やってるんだろ、私」
視界が滲んだ。
父が赦されていてほしい。
そう願っている。
最後に息子と会えていてほしい。
謝ることができていてほしい。
幸一郎から何か優しい言葉をもらえていてほしい。
全部、自分たちの願いだった。
幸一郎の答えではない。
画面をもう一度見る。
青い花の写真が並んでいた。
けれど、もうその意味を追おうとは思わなかった。
あの一輪に何が込められていたのか。
分からない。
分からないままでいい。
「ママ?」
声に振り向く。
息子が立っていた。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ」
「泣いてる?」
小さな指が、頬に触れた。
「……ちょっとだけね」
「おじいちゃん?」
「そうね。おじいちゃんのことも」
息子は少し考え、それから母親の隣へ座った。
彼女はその小さな身体を抱き寄せた。
この子も、いつか十七歳になる。
その時。
もし、この子が何かを疑われたら。
警察から連絡が来たら。
学校から問題を起こしたと言われたら。
周囲の全員が、この子が悪いと言ったら。
それでも、この子自身が自分を見て、
――僕はやってない。
そう言ったら。
自分はどうする。
今度は、答えを間違えたくなかった。
その日の夜。
台所で小さな音がした。
床にコップが転がっている。割れてはいなかったが、テーブルに置いてあったものが落ちたらしい。
夫が振り返った。
「誰が落とした?」
近くには息子がいた。
「お前か?」
「……ぼくじゃない」
息子の声に。
彼女の身体が止まった。
十二年前。
聞いたことのある言葉だった。
――俺じゃない。
十七歳の幸一郎も、そう言っていた。
何度も。
何度も。
それでも、自分は聞かなかった。
「本当か?」
夫が息子へ聞く。
「待って」
彼女は夫を止めた。
そして息子の前にしゃがんだ。
幼い顔が、不安そうにこちらを見ている。
「……分かった」
「ママ?」
「何があったのか、最初から教えて」
息子は戸惑っていた。
「怒らない?」
彼女は少しだけ考えた。
「怒るかどうかは、ちゃんと話を聞いてから決める」
「……ほんと?」
「うん。だから教えて」
息子は少しずつ話し始めた。
棚の近くに置いてあった玩具を取ろうとしたこと。
背伸びして手を伸ばした時、身体がテーブルにぶつかったこと。
その揺れでコップが落ちたこと。
だから、自分はコップを落としてはいないと思ったこと。
聞いてしまえば、本当にそれだけのことだった。
彼女は床のコップを拾った。
「そっか」
息子を見る。
「じゃあ、嘘はついてないね」
「うん」
「でも、テーブルにぶつかったのは?」
「……ぼく」
「じゃあ、そこは気をつけようね」
「……うん」
息子の顔から不安が消えた。
それを見て、彼女は一瞬だけ目を閉じた。
十二年前も。
こうすればよかった。
ただ。
最初から聞けばよかった。
警察が何と言ったのか。
学校がどう判断したのか。
誰が何を証言したのか。
それらを考える前に。
まず、幸一郎が何を言っているのかを聞けばよかった。
今さら分かっても遅い。
どれほど後悔しても、十七歳の幸一郎のところへ戻ることはできない。
今、この子の話を聞いたからといって、それが幸一郎への償いになるわけでもない。
そんな都合のいい話ではなかった。
過去は変わらない。
父が死んでも。
自分が母親になっても。
幸一郎が世界中に知られる人間になっても。
十二年前、自分が弟の言葉を聞かなかったという事実だけは、ずっと残る。
だから。
せめて。
同じ間違いを、次へ渡すことだけはしたくなかった。
「ママ」
「なあに?」
「これ見て」
息子が玩具を持ってきた。
「うん。見せて」
彼女は息子の話を聞いた。
途中で答えを決めず。
自分が知っているつもりにもならず。
小さな言葉を、最後まで聞いた。
その夜。
彼女はもう一度だけ、スマートフォンに残った青い花の画面を見た。
父が赦されたのかどうか。
幸一郎が何を思ってあの花を残したのか。
そもそも、本当に幸一郎が残したものなのか。
彼女には分からない。
だから、決めなかった。
今度は。
間違えないために。
分からないことを、勝手に分かったことにしなかった。




