最終章 第130話 言葉はなくとも、想いは一輪の花に…2
玄関が開いたのは、空が白み始める少し前だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
セルマはリビングにいた。テレビは消され、テーブルにはすっかり冷めたコーヒーが置かれている。幸一郎が出ていってから、ずっとそこで待っていた。
戻ってきた幸一郎の手には、何もなかった。
出ていく前、セルマが渡した小さな青い花。その一輪がなくなっていることに気づいたが、セルマは何も尋ねなかった。
幸一郎は靴を脱ぎ、上着をいつもの場所へ掛けた。普段とほとんど変わらない動作だったが、リビングへ入ってからもソファには座らず、しばらくその場に立っていた。
「……親父、死んだよ」
セルマは幸一郎を見た。
「……そうですか」
「あぁ……」
短い言葉だった。
いつ亡くなったのか。最期に何を話したのか。父親は何を言い、幸一郎は何と答えたのか。聞こうと思えば、いくらでも聞くことはできた。だが、セルマは何も尋ねなかった。
「間に合ったんですね」
「……ああ」
それだけで十分だった。
世界では真神幸一郎について、多くのことが知られている。完全攻略数12。Ex12。六甲山500F、エベレストD700F。彼が何をしたのか、どこまで行ったのか、その記録は本人の意思とは関係なく世界中に残されている。
けれど、昨夜のことを知る者はほとんどいない。一人の父親が亡くなったことも、その最期に十二年間離れていた息子がいたことも、世界は知らなかった。
そして、それでよかった。
幸一郎はようやくソファへ腰を下ろした。深く背を預けることもなく、両手を組んで俯いている。セルマは少し離れたところに立ったまま、その姿を見ていた。
「セルマ」
「はい」
「今日さ……一人でいていい?」
「はい」
返事はすぐだった。
幸一郎が顔を上げる。
「予定は?」
「すべてこちらで対応します」
「10時の報告も?」
「延期します」
「レイチェルに何か言われない?」
「私から説明します」
「……理由、聞かれるだろ」
「必要なことだけお伝えします。それ以上は話しません」
「あぁ……」
幸一郎は小さく息を吐いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
セルマは「一緒にいましょうか」とも、「そばにいます」とも言わなかった。
今の幸一郎が求めたのは、一人になる時間だった。
「食事は用意しておきます。必要になったら呼んでください」
「ああ」
「外からの連絡も、今日はすべてこちらで止めます」
「頼む」
「はい」
セルマはテーブルに置かれていた端末と冷めたコーヒーを手に取った。そのままリビングを出ようとして、一度だけ足を止める。
「幸一郎さん」
「ん?」
「……おかえりなさい」
幸一郎は少しだけセルマを見た。
「ああ……ただいま」
それ以上、二人の間に言葉はなかった。
朝になった。
街では通勤する人々が動き始め、電車が走り、店が開く。WHAにもいつも通り職員が出勤し、世界各地から届いた攻略報告が整理されていく。昨夜もいくつかの攻略隊が深層から帰還し、新しい素材が持ち込まれていた。別の地域では、新たな攻略隊が今日もダンジョンへ入っていく。
世界は止まらなかった。
真神幸一郎が何をしているのかを知らなくても、もう世界は進んでいける。
午前10時。本来なら幸一郎が参加するはずだった定期報告は延期された。理由を知っている者は、ごく僅かだった。
セルマから連絡を受けたレイチェルも、詳しい事情を尋ねなかった。
『承知しました。本日の予定はこちらで処理します』
それだけだった。
藤堂には、もう少しだけ事情が伝えられた。あの手紙を受け取った本人だからこそ、セルマの短い報告だけで何があったのかを察した。
二人とも幸一郎へ連絡することはなかった。
WHAにとって真神幸一郎は、今も極めて重要な人物だった。しかし、彼が一日いないだけで何かが止まるような組織では、もうない。まして、その一日を奪ってまで確認しなければならないことなどなかった。
昼になっても、幸一郎は部屋から出てこなかった。
セルマは食事を用意したが、呼びには行かなかった。簡単に温め直せるものだけを準備し、いつもの場所に置く。それから自分は別の部屋へ移った。
同じ家にはいる。
けれど、今日は行かない。
三年間、セルマは幸一郎の傍にいた。ダンジョンへ向かう時も、帰ってきた時も、何でもない休日も一緒に過ごしてきた。だからこそ、隣にいることだけが傍にいることではないと知っていた。
夕方になった。
窓から差し込む光が長く伸び、やがて部屋の中も少しずつ暗くなっていった。
幸一郎はほとんど何もしなかった。
テレビもつけない。攻略資料も開かない。端末にも触れない。眠っていた時間もあれば、ただ窓の外を眺めていた時間もあった。
昨夜のことを思い返していたのかもしれない。十二年前のことを考えていたのかもしれない。父親が最後に口にした、叶わなかった一杯の酒のことを考えていたのかもしれない。
あるいは、何も考えていない時間もあったのかもしれない。
それを確かめる者はいなかった。
父親を赦したのか。
まだ赦していないのか。
会えてよかったのか。
もっと早く会えばよかったと思ったのか。
そのどれも、幸一郎は言葉にしなかった。
ただ一つ確かなのは、父親が亡くなった翌日を、一人で過ごすことを選んだということだけだった。
同じ頃、病院では一つの病室が片付けられていた。亡くなった患者の家族はすでに必要な手続きを始め、病院も次の時間へ進んでいる。昨日までそこにいた一人の男の私物も、少しずつ家族のもとへ返されていった。
その中に、小さな青い花が一輪あった。
ネモフィラ。
誰が持ってきたのか、病院の記録には残っていない。
その花に重ねられる意味を知っている者はいた。
けれど、誰も口にはしなかった。
夜になっても、セルマは幸一郎を呼びに行かなかった。一人にしてほしい。幸一郎がそう言ったから、それを守った。
ただ、食事はいつでも食べられるようにしてある。風呂も使える。翌日の予定も空けてある。何かあれば、呼ばれればすぐに行ける。
それで十分だった。
その日、真神幸一郎はどこにも行かなかった。
ダンジョンにも潜らなかった。WHAにも顔を出さなかった。世界から届く情報にも触れなかった。
世界最強のハンターでもなく。
Ex12でもなく。
十二のダンジョンを完全攻略した先駆者でもなく。
ただ、一人の息子として。
父親の死を悼んだ。
それを言葉にすることはなかった。
誰かに説明することもしなかった。
そして、説明する必要もなかった。
言葉にできなかった想いは、もう彼の手元にはない。
遠く離れた場所に。
小さな青い花を、一輪。
それだけを残してきた。




